前回(8/15付け)は太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ或る細谷雄一慶応大学教授の文献「戦後77年、「大東亜戦争」を経て日本が失ったものとは」(『Voice22年9月号)の骨格を紹介した。そこでは天皇陛下だけでなく、日本国民もおそらく使い難いであろうことを述べた。間が経過したが、改めてその文献から細谷教授の考え方を追ってみよう。
先ずは、筆者の見解を先に書く(以下、三点)。
・天皇陛下の使う言葉として、国民に自明の「第二次世界大戦」を簡潔に述べた。
・「大東亜戦争」は占領行政において「太平洋戦争」に変えられた。
日本も受け入れ、国民的呼称として使われている。
・戦前の軍部独裁体制も含めて、天皇陛下が積極的に使うとは考えにくい。
細谷教授は昨年に刊行された『決定版 大東亜戦争(上・下)』(新潮新書)を示し、波多野教授の言葉を引用する。大東亜戦争は「複合戦争」であり、カバーした幅広い領域における多様な営みや、その奥深さや豊かさを理解することが必要ではないか。
そして、「『先の大戦』は、評価を急ぐより、『大東亜戦争』がカバーした幅広い領域における多様な営みや、その奥深さや豊かさを理解することが必要ではなかろうか」と論じる。
歴史的事象においては、様々な発見、研究によってその評価が変わることは確かだ。従って、逆に複合戦争との表現が用いられるほどにこれまでの評価が、勝てば官軍側に優位に働くであろうことはあり得るであろう。但し、これは国家間の事象、解釈等の事柄であろうから、基本的な戦略の欠落、日本上位の大東亜共栄圏構想、国際連盟離脱の至る外交等の評価については覆る余地などは何もないと思われる。多様な営み、奥深さ、豊かさがどこにあったのか?知りたいと思う。
ともあれ推薦されている本は是非読んでみたいのであるが。