散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

イスラム国による人質事件~世界の“バルカン化”

2015年01月21日 | 国際政治
『民族自決を際限なく進めていけば、世界が“バルカン化”する。エスニック・ナショナリズムは性愛と似ていて、崇高な愛に昇華することもあるが、嫉妬、怨念、憎悪をかきたてる可能性のほうが大きい。その意味で今日の世界は、危険と不確実性をいよいよ深めている』。先に紹介した永井陽之助の言葉だ。
 『民族・宗教の対立による世界的無秩序の広がりを予測140617』

1978年のイラン革命から10年余り経過した1991年での指摘になる。フクヤマの「歴史の終わり」が世界的に注目されていた頃、氏はイスラム全体の動向を注目していたのであろう。

日本赤軍が世界同時革命を掲げて、テルアビブ空港乱射事件から始まり、ドバイ日航機、ダッカ日航機のハイジャック等を起こし、多くの死傷者を出した事件が周り回って、今回の人質事件、即ち、イスラム国が日本人を人質として身代金を要求する事件に変わっているかの様である。

ダッカ事件において、当時の福田赳夫首相が身代金、支払い、過激派メンバー釈放という超法規的決断をした。「一人の生命は地球より重い」という福田発言は多くの人が覚えている名(迷)台詞なのだ。しかし、当時は欧米各国から批判を受けたはずだ。一方、今回の安倍首相は「テロには屈しない」と宣言している。

一方、今回のイスラム国の注文である人質2名に対する身代金要求は、2億ドルであり、安倍首相の中東訪問にあたって関係諸国へ約束した援助金と同額に設定されている。これが用意周到に行われたのか、新聞社襲撃事件とフランスでのデモに対応して決定したのか、後者であれば、素早い反応になる。

これに対して日本政府は不意打ちを食らったようだ。しかし、国家安全保障会議設置後、初の国家的事件になる。安倍政権として、事態を適切に処理できるのか、その手腕が問われる。

先のパリ新聞社襲撃事件に続く人質事件はバルカン化の震源地から、世界へ向けて様々な形でのテロ行為の分散にも見える。更に、事件の毎に、これに対応するかのような人間類型が表れてくることも注目に値する。

襲撃事件は、テルアビブ空港事件(1972年)を想い起こすような「無差別性」を有し、人質事件は、資金稼ぎに手段を選ばない形での「計画性」を有する。当然、コミュニケーションの形も極端な一方向性しか持たないことになる。

しかし、今回の場合、人質の成り方にも普通の市民からは異なる類型の人が含まれているように、筆者は感じた。
ジャーナリストの後藤氏は、戦況あるいは戦争行為ではなく、一般市民や子供を取材するために危機の地帯へ入った。今までも同じ様な取材をしている。

氏は、「何か起こっても責任は私自身にある…日本の皆さんも…シリアに責任を負わせないで下さい」との言葉を残し、敢えて、イスラム国へ向かったとNHKニュースは伝えた。イスラム国の行動様式は調べてあるだろうから、人質として捉えられることは十分有り得るとの認識はあったはずだ。いや、あったからこそ、自らの映像と言葉を残していったとの解釈が妥当だ。

自分自身で設定したミッションに従っての行為であり、それをビデオに残したことは、用意周到な仕事と云って良いだろう。組織的活動ではなく、フリージャーナリストであるが故にできる活動だ。
ここにも世界のバルカン化に対応した“確信者”の人間類型が見られる。バルカン化は様々な形で、少数者であるが、確認者を生みだし、それと共に進む。

しかし、この行動の結果が、日本への240億円の身代金の要求を招いたことになる。先の福田発言が50年後まで響いている。一国の首相の発言は、世界にとって空体語(イザヤ・ベンダサン)ではないことを、私たちは思い知るべきだ。

一般住民としての私たちは、この事件にどんな反応を示せば良いのか、ジレンマの中から探り出す以外にない。

      

コメント
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