散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

もし海江田氏の辞任を菅直人が認め、今、緊急事態が起きたら

2011年08月30日 | 政治
野田新首相の組閣はいつになるだろうか。民主党の党首を選出するのに三日間で行い、内閣を発足させるのに、二日間で出来ないとは、時間間隔がマッチしていない。現状は旧菅内閣が続いていることになる。

この間、どこかで“大地震”が起きたら、野田氏は財務相として活動しなければならない。
先にも述べたように、海江田氏は経産相の辞表を8月26日に菅直人首相へ提出し、蹴られたままである。

もし、認められ、今、緊急事態が起きたなら、海江田氏は陣頭指揮は取れない立場になる。今は、野田氏が財務相であるから、菅氏のもとで活動できる。海江田氏はこのようなことが起きる可能性を全然考えずに、民主党党首選挙への立候補と経産省辞任とを両立させようとしたのだろうか。

しかし、このことを取り上げて論じた報道は見当たらない。
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第二の管直人、海江田経産相が辞表!何故最後に職責を放棄する?

2011年08月27日 | 国内政治
民主党代表選挙に立候補した海江田経産相が菅直人首相に辞表を提出したが、菅首相は受け取らなかったと8/26に報道されている。

管直人首相の退陣が決まったときに、海江田経産相について次のように述べた。
「自己認識の乏しい政治家たち~菅、海江田、渡辺 2011/8/12」

『 管直人首相が辞めたも同然のなかで、海江田経産相は辞任を出せる状況ではない。総辞職は決定的なのだから、それまではと、慰留されたら辞める理由もない。それでも辞任に拘ったら駄々っ子と評されるだろう。本来、政治家になる資質がなかったといえる。
まさかこれで民主党の党首選挙に出るというのではあるまい。しかし、あるかも知れない。
何しろ、自己認識のなさは菅首相を上回ると言わざるを得ないからだ。』

さらに「海江田経産相を第二の菅直人首相」と書いたのだから、本当に瓢箪から駒が出る結果になるかもしれない。ビックリ仰天と共に困ったものだとの感想を禁じ得ない。

海江田経産相が辞表を出したことについて批判する論評はない。内閣が実質的に機能していないことは明白だからだ。しかし、当事者がそれを認めるか否かは重要だ。その姿勢がこれからも続くことを宣言しているからだ。総辞職するまで、仕事を続ける、緊急事態が起これば職責を全うする。これが当事者の姿勢のはずだし、一般人の常識だ。

“泣き虫大臣”らしい、辞表の提出であるが、責任意識は希薄で、首相の器とは、とても受け取れない。本当に「第二の菅直人首相」になっては、単に“晒し者”と“小間使い”に終始するだけになる。

     
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永井陽之助の政治的人間論~政治への不信は、過信の裏返し

2011年08月18日 | 政治
永井陽之助氏は40年前に出版された『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収(平凡社))の中で次のように述べている。
『…現代人の政治への不信は、じつは政治への過信の裏返しであることに気づかない。

すべての社会問題が政治的手段で解決できるという、暗黙の期待があるかぎり、やがて、まったくの個人的状況にわだかまる様々な欲求不満や、疎外感、異和感すらも、「政治の貧困」の罪に帰せられ、政治の世界は不断に非合理的エネルギーの侵入にさらされることになる。

それは逆から言えば、社会生活と個人生活のすみずみまで、国家権力が無制限に侵入してくる結果を招くことを意味している。…』

ここでは“政治的人間”と“社会的人間”が対比されている。

『…政治や政治家という存在は不要であり、そんなものがなくとも社会問題の解決になんの支障があるだろうかと疑問をもつ。

…だが、政治問題と社会問題の区別を廃棄し、本来の政治的解決と処理にゆだねるべき領域がますます社会化され、ていくことは、逆から言うと、社会問題がますます政治化され、現代の複雑な利害の、気の長い、迂回した調整よりが、単純な、技術的解決、つまり権力による問題解決に短絡されやすい傾向を意味しているのだ。

近代の合理主義が、確実性と完全制を問題解決のめやすとする限り、不可避的に生じる危険な傾向なのである。

それは、制度よりも機構を、政治よりも行政を、指導よりも管理を、権威よりも操作を、伝統よりも技術を、説得より実力を尊重する傾向をもつ。」

ここでは、現代の“社会的人間”の優位に対して“政治の復権”を主張している。

社会的人間とは?との問いがあるだろう…この論文の冒頭、キューバ革命の雄、フィデル・カストロの言葉を引用している。
-われわれは政治家ではない。われわれは、政治家を駆逐するために、われわれの革命を実行しているのだ。われわれは社会的人間である。これは社会革命なのだ。-

以上の紹介でもわかるように、永井陽之助氏の洞察は、40年前の現代から、大震災によって顕わにされた今の現代に至るまで、この世界のありようを鋭く射抜いている。

今の現代は複雑な利害の絡み合いが、ますます進んでいる。40年前の高度成長時代はパイの分けあいで進んでいた。しかし、今の現代は、開発途上国での、世界的人口の爆発的増加、ロシア、中国そしてアジア諸国を中心とした新興国の経済成長、先進諸国での高齢化人口の増加と公的債務の増加という重層的な環境の変化がある。

既得権益を解放しながら、社会の進化を図っていくことは困難を極めている。権力による問題解決が“最終的解決”に至らないとも限らない。
(この点について『二十世紀と共に生きて』(「二十世紀の遺産」(講談社)の「結び」を参照。)

大震災以降、あるいは民主党政権が沖縄問題でボロを出して以降、更には小泉政権終了以降、政治への不信感は極めて強くなったように報道されている。この不信感は今に始まったことではなく、大衆民主主義社会の特徴であろう。

その意味で、首長の権限が強い地方自治体の政治は注目に値する。阿久根市・竹原市長の独善的な手法は、おそらく今でもある程度の支持を集めているだろう。大阪府・橋下知事は、「君が代を歌う条例」「職員をクビにできる条例」と立て続けに権力による解決を目指す方向を打ち出している。

これは永井流でいえば、“現代大阪のカストロ”を目指す動きと理解できるであろう(関西、日本への展開を狙う?)。

なお、『解説 政治的人間』は次の3章からなる。間欠的になるが、順次、紹介していきたい。
「第1章 政治の極限にひそむもの」
「第2章 秩序と人間」
「第3章 政治的成熟の道」





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〈戦場〉はいつでも海の向うにあった ~戦後マイホーム思想の原点

2011年08月15日 | 国内政治
花森安治の詩、「戦場」は『一銭五厘の旗』(暮しの手帖版)に掲載されている。これを読んだとき、この鮮やかな表現の中に戦後平和思想に繋がる原体験が記されているように感じた。日清戦争、日露戦争が同じ戦争なのに、何故、太平洋戦争と比べて肯定的に評価されるのか、子供のころから何とはなしに疑問に思っていたからだ。
勝ち負けは確かにある。しかし、勝とうが負けようが、人間が死んだことには変わりない。戦争が悲惨さを含んでいることは勝ち負けとは別の原理的問題である。

それが、この詩によって氷解させらるかのように、判ったと思ったのだ。
そうだ、日清戦争、日露戦争は海の向こうで戦っていたのだ。〈戦場〉は海の向うにあったのだ。
しかし、太平洋戦争では、
『その〈海〉をひきさいて数百数千の爆撃機がここの上空に殺到している』のだ。太平の眠りを醒ます太平洋からの黒船ショック、その次は同じ太平洋でも空からのB-29ショック、これによって海も陸も関係なく「日本列島」は戦場になり得ることを知らしめられたのだ。原理の問題ではなく、自分自身の生活に直接影響するかどうかが判断基準である。

だが、『ここは単なる〈焼け跡〉にすぎず、単に〈罹災者〉であった』『しかし ここが みんなの町が〈戦場〉だった』のだ。これまで、生活の場が〈戦場〉になることはなかった。

しかし、今は違う。生活の場=〈戦場〉になる。この“私生活の戦争化”に対する終戦意識、すなわち、私生活防衛の思想が戦後の平和思想の基本的立脚点である。それが戦後経済成長と共に『マイホーム主義』として開花している。
(永井陽之助『解説政治的人間』(「政治的人間」所収))

マイホームを楽しむ庶民生活の中に、花森安治の頭に描いた生活の風景と異なったものが含まれているかもしれないが、しかし、詩「戦場」で表現した思想が花森安治の具体的な仕事のなかで強烈に主張され、それが多くの人に影響を与えていることは確かであろう。

花森氏は『この〈戦場〉で死んでいった人たちについてはどこに向って泣けばよいのか』と詩の最後で問うている。しかし、その願いはこの世の中では無視されているに等しい。

     
   
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自己認識の乏しい政治家たち~菅、海江田、渡辺

2011年08月12日 | 国内政治
管直人首相の退陣が決まり、次の動きが出てきた。
すでに、不信任決議案を突き付けられたときの首相の態度については記事に書いた。
管直人首相の代議士会発言の核心 「若い世代への引き継ぎ」

しかし、目途をつけ次第、若手に譲ることとの約束はメッキが剥げ、残るは脂気が抜けた、ただの首相経験者の姿である。
『首相「邪魔でない程度に活動」 退陣後言及、心境に変化』共同通信 8/12

世評とは異なり筆者は菅氏が首相の地位の延命に拘ったとは思わない。信任された以上は職責を果たすのは責任ある態度であり、進退の時期を明確にしないのも当然だと思う。誰でも首相として同じようなことを考えるはずで、彼自身が特別だという論拠は何もないからだ。

総辞職すべきは「政治闘争」に敗れた自民党執行部であった。彼らは、民主党で相当数の造反がでれば、例え不信任が通らなくても政治的影響力は大きいと読んだはずである。しかし、ネズミ一匹(反対者)は出ただろうが、あとはゴキブリ数匹(欠席者)に終わった。

一方、暫定的な二次補正予算だけでは、仕事として不十分との読みで、赤字国債法案と再生エネルギー法案を首相はテーブルに載せた。しかし、前者は各党との協議によって通れば当り前、後者は将来に渡って本質的課題ではないとの見解が広がる中で、首相の肝入りとは無関係な法案になってしまった。その上、二法案は自公との駆け引き・折衝を岡田幹事長がまとめたとのイメージが強い。

そうすると、菅首相は何もせず、しかし、傍から見えた“居座り作戦”だけは法案成立に一定の効果があったという印象が、やけに強く残る結果となった。おそらく、本人にとっても拍子抜けであり、一気に気勢が削がれて「心境の変化」になったと推測する。結局、ただの人なのだ。

振り返れば、自らが主導して補正予算を成立させ、自公との緊張関係を残して辞任すれば、後継指名の役割も少しは残ったかもしれない。

今は既に過去の人となって、更に問題は権力にしがみついたというイメージが強い。これは市民運動家の経歴を消し去る作用をするに違いない。金も、人脈も乏しいなかでおそらくグループの維持も難しくなると思われる。政治家としての自己認識を持ち合わせていなかったとの結論に至る。

海江田経産相は第二の菅直人氏であり、菅内閣総辞職前に辞めなければ意味がないことは既に述べた。
海江田経産相、いつのまにか第二の菅直人首相に 2011/07/23

しかし、もう辞めたも同然のなかで、辞任を出せる状況ではない。総辞職は決定的なのだから、それまではと、慰留されたら辞める理由もない。それでも辞任に拘ったら駄々っ子と評されるだろう。本来、政治家になる資質がなかったといえる。
菅首相より早く辞めたい…海江田氏が鳩山氏に(8月12日 読売新聞)

まさかこれで民主党の党首選挙に出るというのではあるまい。しかし、あるかも知れない。何しろ、自己認識のなさは菅首相を上回ると言わざるを得ないからだ。

その選挙に対して、みんなの党・渡辺党首がD級と評した。
渡辺氏、民主代表選は「D級グルメコンテスト」(8月12日 読売新聞)

菅、海江田両氏に輪をかけた、自己認識の無さである。何故なら、みんなの党も特に民主党と区別されることはなく、同じ穴の狢だと多くの一般人は思っているはずだからだ。民主党が「D級グルメコンテスト」をやるのであれば、みんなの党は「D級グルメコンテスト」さえもやらない党だと言われるだろう。その程度の存在感しか無い、こともわかってない!

  
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サッカーの指導理念を変革する「バルサ」に川崎Fのジュニア選手合格

2011年08月07日 | スポーツ
単なるスポーツの記事だけでは済まない内容をもつ。今でもサッカーを続けている人間のひいき目も含めてのことだが。

川崎フロンターレ・U-10の選手、麻生区の地域クラブ出身

サッカー:バルセロナ入団テスト 10歳の久保君合格 毎日新聞

バルサは戦術と技術は不可分との先端的思想。これは「哲学する赤ちゃん・亜紀書房」と同じ世界の認識である。

状況認識ー判断ー実行、このなかで通常の練習は実行主体である。これを判断重視にしたのがバルサの変革である。すなわち、状況認識と実行は不可分なのだ。判断なきプレーは否定される。それに比べれば技術的ミスは向上の余地がある。

ここに「ブロック塀理論」、順に技術ー個人戦術ーチーム戦術と、時間軸として下から積み上げる、を否定するアプローチが示されている。ターザンがプロトタイプかもしれない。

そういえば、オルテガ の「狩猟の哲学」を思い出した。油断なき人である。

    
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政治的状況認識の心理と論理 ~ 枠組・不協和・疑似論理 再論

2011年08月06日 | 政治理論
以下は、『現代政治学入門(Ⅱ政治意識)』(有斐閣 1965)から要約。政治に関わる人たちが、何を、どう考えているのか、その思考プロセスに迫る方法論を示している。出版された年月から考えれば、この理論は今から50年以上も前のことである。しかし、人間と政治との関係を考えるうえで、色褪せることはない。

簡単に言えば、
人は「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を設定し、情報をその中に取り込んで判断する。
政治状況は基本的にオリジナルなものであり、枠組に入り切らない情報に接すると激しい「不協和」(dissonance)を生ずる。その心理的ストレスから逃れ、論理的一貫性と心理的平衡を保つために、「疑似論理」(pseudo-logic)によって理由付けを行う。

「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)

人々が政治事象、特定の政治問題に対してもつ認識・評価・態度を総称して「政治意識」と呼ぶ。「政治意識」は何よりも、不完全情報下で政治的決定を行う際に、外部からの情報を処理する基本的な「関係づけの枠組」(Frame of Rerence)を提供する。

日常生活においても多くの決定に迫られるが、特に政治の世界において著しい。しかし、情報そのものは稀少資源であり、その獲得には金と時間がかかる。従って、判断の基礎になる情報は不十分であるのが常である。

絶えず変動する、不確実な政治状況のなかで、自ら下す決定に責任を負い、選択行動に一貫性と統一性を与え、不確実性に伴うリスクと不安に耐えていくには、複雑な現実界を単純なイメージに短絡し、その固定観念にあてはめて、自己の決定に合理性を与えている。

その基本的な状況判断の推理構造は、次のようである。
「  」内は言語象徴によって表現された「濃縮イメージ」である。

1)認識…現在、状況は「  」の一部である。
2)評価…一般に、私は「  」に賛成である。
3)態度…故に、私の態度は「  」である。

政治状況は個性的、複雑、流動的、不確実であるため、「濃縮イメージ」の固定性と早晩「ズレ」を生じざるを得ない。

「不協和」(dissonance)

「実験心理学」では次の知見が得られている。人間の認知構造の特色は、極めて狭小な枠組内で外部情報を処理し、絶えず論理的一貫性を保持しようとする傾向を内在させている。

そのため、その枠内で処理できない外部情報が投入されると激しい心理的ストレスを生じ、その心理的な「不協和」から逃れ、論理的一貫性と心理的平衡を回復しようとする内的反応を生じる。

これに対して様々な論理的・心理的操作で対応される。
1)その情報を否定する
2)「関係づけの枠組」の改革を最小限度にとどめ、新しい情報を取り組む

これらにより、不協和を相殺する。これには「疑似論理」(pseudo-logic)とも言うべき、サイコ・ロジックが用いられる。

「疑似論理」(pseudo-logic)の例示

1)ステレオタイプ的思考
 a.善玉・悪玉論理(二値論理) 局外者を巻き込む拡大主義
   AはBが好き BはCを支持 故にAはCの味方
 b.陰謀説 失敗、認識の誤りを「実はXの陰謀だった」

2)組織人的思考
 機構、組織内で活動する人が外部の状況化に直面し、上から強権によって打開
 a.本質顕示的思考 本質は存在に先行する
   本然の姿をの顕示を妨げている攪乱要因を除けば、本然の姿が顕れる

3)状況的思考
 a.投機的決断主義 やってみなければわからない
  固定イメージによる判断の誤りを回避、主体的決断を重視
   →結果責任に対するろ倫理のコントロールを欠く
 b.日本的、肚による認識
  最悪事態に対する心構え→死の予感による純粋状況

4)弁証法的思考 政治の本質は矛盾の克服 毛沢東『矛盾論』
  革命集団における目標と状況のズレによる非一貫性を正当化
   →極限は二重思考(ジョージ・オーウェル) 

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