散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

日本にはない、GKの存在を賭けた空中戦~サッカー・コンフェディ杯から

2013年06月30日 | スポーツ
コンフェディ杯の準決勝、ブラジル対ウルグアイ戦でのブラジルゴール前での激しい競り合いだ。この激しさは日本では見られないものだ。ブラジルGKがパンチングに飛び出し、自チームの選手を殴るかのように腕を出している。ディフェンスの選手も体を張って競り合っている。


日経新聞2013/6/27

ブラジルに限らず、勝ち上がったチームのGKはゴール前に上がったボールに対して果敢に飛び出すシーンが多い。ゴールを空けてもボールを弾き飛ばせば良いのだ。ここで仕事をしなければ、自らの存在価値を問われる。それは責任意識と言うよりは、アイデンティティを賭けての勝負なのだ!

日本のGKはゴールを守る。パンチングに飛び出すときは、確実に出来るときだ。おそらく、ゴールを空けてボールをクリアーする確率とボールにアクセス出来ずにゴールを割られるリスクを瞬間に勘定して、飛び出すのだ。

しかし、この写真で見られるブラジルのGKは、確率も計算するはずだが、それ以上に自らの存在価値を先ず主張すべきチャンスだ、という判断を働かせるように見える。この強烈な自己主張が日本との違いだ。日本が戦った3試合で、日本選手が自己主張した場面があっただろうか?

ギリギリのつば競り合い、球際での攻防、そこでは体力、技術、気力の勝負になるが、それらを支えるのは強烈な自己主張の意識である。しかし、日本選手は最後の一瞬に顔を背けるようにみえるのだ。そこが結局のところ、差となって顕れるように思われる。このカルチュアにどの様に立ち向かうのか?これまでの日本チームでそれを目指したのは中田英機選手だけだったのでは?そんな思いを持つのだが。


参院選で無党派層は主体的に選択できるか~「選択肢の乖離」の中で

2013年06月29日 | 政治
先の都議会選では、昨年末の衆院選に引き続き、投票率が低かった。しかし、自民・公明連合は組織票を生かして堅実に勝つことができた。参院選では、更に支持を伸ばすのか、注目の処だ。また、俗に言う無党派層の中で、主体的浮動層の存在がどの程度か、投票行動の方向性を含めて注目される。
 『衆院選挙(2012/12)再考130626』

大方の予測通り、低投票率であれば、無党派層は自民党を消極的に支持したと解釈できると冷泉彰彦氏は述べ、その理由として『「タテマエとホンネの乖離」の激しさ』を挙げる。これまで政局を動かしてきたキーワードとして、である。
 『参院選の「基本的な構図」とは何か?130627

氏の発想は今回も啓発的であり、参院選での政策の基本的見取図を提示している。一方、タテマエとホンネは政治に、不可避的に付き纏うから、その乖離の指摘だけでは説得力は不十分だ。ポイントは“激しさ”の中味だと考える。以下の氏の説明はスマートではあるが、米国の知識人社会の中で生活している「日本の知識人」の外からの観察のようにも見える。

古い自民党は個別の「ホンネ」の集合体であり、国家の問題に対処できなくなった。そこで、民主党政権を通じて、無党派世論はある種の「タテマエ」の実現を期待した。それには「ホンネとタテマエを抱え込む」統治能力が必要だ。

民主党はその期待に応えることはできなかった。第二次安倍政権は古い自民党の体質からは変化し、無党派層から期待されている「ホンネとタテマエを抱え込む」ことを意識して「とりあえず日本政治における統治」を実行、自民党の持つ「ホンネ」の集合体という性格は、今では薄れた。

無党派層の「消極的な期待=消極的な支持」は三重の意味があると共に、低投票率の場合、無党派票は棄権・分散、自民党が勝つことを理解している。
1)「民主党のように失敗してもらっては困る」
2)「本来はタテマエを実現して欲しいが、ホンネの部分で動くのも仕方がない」
3)保守イデオロギーが「右に寄り過ぎているという警戒感」

それでは安部政権は「ホンネとタテマエの中間にある現実的な中道路線」で積極的支持を取れるかというと、それ程の政治的なパワーはなく、高齢者の保守イデオロギー、ネトウヨ的な現役世代の感情論を「保守的な求心力」として、官僚組織との親和、保守的な財界との親和等によって活力を維持している。

以上から、無党派世論の「消極的な支持+警戒感」が「ブレーキ」となって、自民党政権を結果的に「中道実務政権」の範囲から「はみ出させない」処に無党派の意識と行動を位置づけ、評価している。サラサラと流れるように描かれているストーリーであるが、無党派層への応援の趣も感じられる。

ここで疑問は、民主党政権にも、安部政権にも「ホンネとタテマエを抱え込む」ことを無党派層は求めているとの見解である。先にも書いたように、ホンネとタテマエの調整は政治のイロハであって、これ自身の存在は特に問題にならない。問題となるには、1)乖離の激しさ、2)どちらから接近するのか、である。

特に1)乖離の激しさがある場合、タテマエからホンネへの接近と、ホンネからタテマエへの接近とでは、非対称的な関係になる。後者の方が圧倒的に難しいはずだ。何故なら、「公私の領域」と「長期・短期の時間感覚」に制約されるからだ。

勿論、ホンネは「私」「短期」であり、タテマエは「公」「長期」である。特に日本の場合は「公」は官に独占され、「私」は自立せずにホンネの中に隠れ、中性的な長期諦観の美意識のもとで、短期に執着するスタイルではホンネとタテマエは二重構造を取らざるを得ない。

民主党政権の失敗を反面教師に、安倍政権が、自民党が持っていた利害関係者の集合体という性格を脱皮しようとしたことは、逆に、民主党の唯一の成果かもしれないという皮肉な話になる。
それでも、自民党が「現実的な中道路線」を取るのは難しい。タテマエとの乖離が大きく、支持層を考えれば、ホンネ中心になり、支持層を叱咤激励して成果を出す以外に自らの権力基盤を維持するのは難しいからだ。

民主党の錯覚は、「目に見える行動と成果」を直ぐに出そうとしたことだ。「具体的な方向づけ」を明確化し、少しずつ利害当事者の意識を縛り、「ホンネとタテマエの中間の中道路線」へ切り換えていくことが必要だった。しかし、政治における「演技」に無知で、政策の基礎知識もなく、助言する知識人もおらず、却って、権力に群がる支持者に取り巻かれていた。最後は自民党の消費増税に抱きついたのは、無残であった。無党派層は裏切りの感情を持ったかも知れない。

そうであるなら、乏しい選択肢の中で、権力者の権力行使の恣意性に対し、警告を発することが、今回の無党派層の役割になる。    


人権は世界の問題か、国家の問題か~政治課題としての慰安婦問題(7)

2013年06月28日 | 政治
今回の橋下発言は「日本政府による慰安婦の強制連行の有無」関するものだ。しかし、それが人権問題に拡大されている。韓国政治学・浅羽祐樹氏は憲法学・木村草太氏との対談で「慰安婦問題は女性の人権問題として(世界に)捉えられ、日本軍の関与の有無は、国際社会ではまったく争点になっていない」と述べる。

先ず、慰安婦は軍への対応であるから、施設、衛生等に関して日本軍が関与していることは確かで、日本政府も認めている。従って、確かに争点ではない。しかし、「政府による連行は“日韓”の間では争点」なのだ。

浅羽氏も橋下氏の発言を読まずに、マスメディアの報道を鵜呑みにして、人権問題として捉えているのだろうか。そこから政治的イデオロギーに<還元する発想>と、「他人への思いやりがない」と断定する<短絡思考>に繋がることは先に記事にした。
『「人権問題」という原理主義的反応130622』

処で、人権問題は、その国内の問題を超えて、世界全体の問題であるから、直接には関係のない国でも発言は許されるとの考え方がある。一方で上記の考え方を見とげるが、先ず、該当国が考える問題だ、との考えもある。

同じようなことが、米国を始めとして諸外国にもあったし、ベトナム戦争での韓国軍にもあったとの指摘に対し、それはその国が考えるべき問題であって、日本の慰安婦問題とは別、との見解が示されるからだ。

そうであれば、政府による連行は、先ず“日韓”の争点である。しかし、米国はそうでもないらしい。日本に対する議決を下院、あるいは州議会で行っているからだ。では、米国に広く人権問題は発生していないのか?そんなことはない。

かつて、カーター大統領が人権外交を展開したが、それも個別に選択をすれば「偽善」になるし、すべての人権問題を取り上げれば「自己破壊」になるとの批判を受けた。即ち、人権問題は総論で賛成ではあっても、各論に取り上げれば国益に絡んだ現実問題が必ず浮上してくるからだ。

戦後、今日に至るまで、国際紛争あるいは国内の内紛によって様々な戦争・内戦の中で多くの暴力行為があったはずだ。おそらく、米国、ロシア(旧ソ連)、中国を始めとして人権に関して手を汚している国家・指導者は少なくないはずだ。従って、人権問題を取り上げるときの各国の態度は、ブーメランの如く、自らに跳らないように、ということになる。

その点、太平洋戦争で負けた日本を対象に、民主主義対全体主義のイデオロギーをたてに、日本軍の行為を特殊化(象徴的には性奴隷という言葉)し、叩くことは韓国、米国にとって極めて安全なアプローチになるのだ。その意味で人権問題は世界全体の問題で有りながら、今後も、具体的に政治問題化することによってしか、議論されることはないであろう。

慰安婦問題に関しても、歴史的事実と基金等による対応を含めて、正確に主張しながら対峙することが肝要であろう。

橋下氏は6/28のツイッターで朝日新聞の記事「慰安婦決議「各州議会に要請中」米下院のホンダ議員」を引用し、次の様に主張する。

「慰安婦の利用を正当化してはならない。反省し謝るところは謝る。しかし事実と異なることを言われれば、しっかり異議を出す。ホンダ議員の認識は間違っている。」

「このようなアメリカの政治家の動きに対して、日本の政治家は何も異議を申し立てしないのか。このまま黙っていたら日本が国家意思として女性を拉致・人身売買したことが事実になってしまう。」

日本は依然として<黙殺の文化>を維持するのだろうか。

     


衆院選挙(2012/12)再考~来る7月参院選挙への視点

2013年06月26日 | 政治
都議会選挙の結果が、基本動向として前回衆院選挙と変わりないことを昨日の記事で確認した。では、参院選挙に関し、どうような視点を持って注目すれば良いのか、改めて、先の衆院選挙の結果を現時点から考えてみる。
 『ストップ・ザ・サトウからアベノミクスへ20130624』

先ず、前回の選挙(民主政権)と比較し、2012/12衆院選の主な結果は以下である。
 総数…7,000万→6,000万=1,000万減→地道層と無関心層
 自公…2,700万→2,400万= 300万減→勝利の割には減少!
 民主…3,000万→ 900万=2,100万減→どこへ消えた?
 維み… 300万→1,750万=1,450万増→二大政党化?
 『小選挙区制は機能を発揮~過去3回・衆院選挙の“票”20121223』
 
単純計算では、
1)民主減の2,100万のうち、棄権が1,000万、
2)民主減の残り1,100万と自公減の300万は維新・みんなへ回った。

そこで参院選へ向けての視点である。基本的には、固定層、主体的浮動層、客体的浮動層を投票動向から捉えることが狙いとなる。
 固定層   :安定の要因
 主体的浮動層:改革の要因
 客体的浮動層:アノミックスを含む不安定化の要因

先ず、投票数だ。民主政権誕生の時は、当然、関心が盛り上がった。しかし、先の自民復権選挙では投票数が1,000万票減少した。都議選でも投票率は大きく下がっている。アベノミクスは現状、小康状態であるが、それが有権者を無関心の方向へ導くのか、予測は難しい。ここでは客体的浮動層の動向が判るであろう。

都議選では、自民党の得票が回復してきている。これを国政選挙においても上向けに変えることが出来るのか、手腕が問われる。
また、民主党は客体的浮動票の増加は期待できないから得票が減れば、主体的浮動層から見放された状態を示唆する。その意味では正念場になる。
第三極はすでに分散して、統一化は難しい。これが有権者の判断にどう影響するのか。特に、苦戦を伝えられる維新の会がポシャるのか?注目の処だ。

      



都議選と国政選挙のデータ比較~国政代理選挙の結果を反映

2013年06月25日 | 国内政治
都議会選挙が国政代理選挙の機能を果たしていることは昨日の記事で論じた。では、その結果を先の衆院選挙を過去の小泉郵政改革選挙、民主党政権誕生選挙と比較し、分析した記事と並べてみるとどうなるのか。先ずは前回記事の内容を示し、その次に、東大・菅原准教授の都議選データを記載させて頂いた。

小選挙区制は機能を発揮121223
衆院選挙比例代表区投票・得票
時期   H17/9      H21/8       H24/12
争点   小泉改革     民主党政権    自民党復権
票数  票(万)率(%)  票(万)率(%) 票(万)率(%)
投票   6,781  67.2  7,037  69.3   6,017  59.3

自民党  2,588  38.1  1,881  26.2   1,662  27.6
民主党  2,103  31.0  2,984  42.4   926   15.9
維新会  0    0    0    0    1,226  20.3
みんな  0    0    300   4.2   524   8.7
公明党  898   13.2  805   11.4   711   11.8

2013年東京都議選の簡単なデータ分析
(2013年06月24日 東大准教授・菅原)
時期            H21/6      H25/6
争点            民主党政権   アベノミクス
票数            票(万) 率(%)票(万) 率(%)
投票            563   53.8   453   42.8

自民党           146   25.9   163   36.0
民主党           230   40.8   69   15.2
維新会                     37   8.3
みんな                     31   6.9
公明党            74   13.2   64   14.1

菅原は前回の都議選(民主党政権誕生選挙の2ヶ月前)と比較している。ここでは、その都議選に対応する国政選挙に関するデータと分析をベースにして、今回の都議選結果は国政代理選挙になっているのか、に注目して比較する。

過去二回の都議選は国政選挙と時期的に近接して行われた。時間的動向を比較すると、基本的な動向は一致している。即ち、今回を前回と比較すると、

1)投票率…両者共に前回から約10%減
2)民主党得票…両者共に前回約40%から今回約15%に大幅減
選挙戦と同じく、投票結果は「国政代理選挙」のであったことを示している。

有権者の心理としては、以下の点が大きく作用していると推測できる。
1)政治は変わらないから「棄権する」
2)政権担当能力のない「民主党には投票しない」

なお、第三極の「維・み」は選挙協力を直前にみんなの党が破棄したことからそれ自体が消滅してしまったので、比較することはできない。都議選の詳細については菅原のブログを参照されたい。
また、今回の記事を書いていて、気づいたことは別途記事にする。

      

ストップ・ザ・サトウからアベノミクスへ~東京都国政代理選挙は格落ちか

2013年06月24日 | 地方自治
東京都議会議員選挙は大方の予想通り、自公の圧勝に終わった。投票前日のNHKテレビのニュース番組では、各党首が経済関係を中心にして国政の話題をネタにして応援演説を打っていた。いや、これは応援演説ではなく、参院選挙運動の一環でしかなかった。都政の課題は何だろうか?選挙戦を通じて浮彫りにされなかった。

1971年東京都知事選挙は第7回統一地方選挙の一環として4月に実施された。保革両陣営が大衆向けスローガンを掲げて対峙した、日本初のイメージ選挙戦と評される。社共共闘の現職、美濃部亮吉は、ベトナム戦争等の国政問題をこの首長選に持ち込み、「ストップ・ザ・サトウ」を連呼して首相の佐藤榮作批判を展開した。

その佐藤首相に口説かれた警察官僚出身の自民党・秦野章氏は『4兆円ビジョン』なる開発構想を掲げたが、舌禍が災いして都民には浸透しなかった。秦野本人も、候補者擁立を巡る混乱を『昭和元禄猿芝居』と論じた。一方、公明、民社は都政与党を目論み、自民と距離を置いて社共に接近、選挙後に『四党体制』を発足させた。

結局、美濃部が約361万票を獲得して圧勝、日本の選挙では個人の史上最高得票数であった。この記録は、去る2012年東京都知事選挙において猪瀬直樹氏が約433万票を獲得するまで破られることがなかった。
(以上、ウキペディア参照)。

当時は都知事選が国政代理選挙の機能を先ず果たした。しかし、美濃部以降の都知事選は国政にも、都政にも関係なく、単に名前が一般的に浸透している候補が立つようになり、また、高得票を獲得するようになった。即ち、著名人化すると共に脱政党化が進んだ。青島幸男、石原慎太郎、猪瀬直樹と続く。

一方、小泉純一郎が首相になって以降、政治状況は「改革」をキーワードに動き出した。丁度、民主党が自民党に取って代わる時の衆院選挙の手前で、都議会選挙が“国政代理選挙”の役割を担った。今回の選挙も安倍政権誕生後の成果を問う選挙として機能した。しかし、知事選から議員選へ国政代理選挙は格落ちした観もある。

一地方自治体に過ぎない東京都の選挙の争点が、都の抱える課題ではなく、国政であることに批判はある。しかし、それは「大都市」東京の役割が国の機能の大きな部分を担うことの反映でもある。国政代理選挙を知事選から都議会議員選挙へ映したのも、政党の影響を排除し、国から独立を図る都側の狡知と言えるかもしれない。

      

人間の隠れたる本性が顕れるとき~歌舞伎「紅葉狩り」の姫=鬼女

2013年06月23日 | 文化
橋下氏の慰安婦問題発言をしっかりと理解しようとせず、マスメディアの切り取り報道を鵜呑みにし、原理主義的な人権によって裁断する心性について、昨日の記事「「人権問題」という原理主義的反応130622」で考えた。
 
ネットメディアの中で流通している意見の一つであるが、これで橋下氏を抽象的な意味での「全女性の敵=絶対の敵」に仕立てている。極めて激しやすい意識、日常生活では収まりきれない隠れたる本性が顕れたかのように見える。何故か。

エリック・ホッファーは「現代の神無き時代にあっても、人々は魂の救済から離れることはできない。…伝統的宗教は救済への探求をキャナライズし、ルーティン化する。かかる宗教が信用を失ったとき、個人は魂の救済を、しかも四六時中、行わなければならない。…社会組織そのものが、一般に、心の病に冒されやすい、すぐ燃えやすい体質になってしまったのだ。」(「情熱的な精神状態」(1954)所収)という。
これが書かれて60年、東京五輪から50年たった今でも、再度、五輪の熱狂に包まれたいという声も強くなっているこの頃である。仕事、娯楽に止まらず、政治に関しても一部に過激な反応が顕れるのも不思議ではない。

そんなことを考えながら、一昨日、歌舞伎「紅葉狩り」を観劇する機会があった。戸隠山の鬼女が更級姫に化身し、そこへ表れた武将・平維茂に酒を振る舞い酔わせる。しかし、気が付いた維茂が正体を現した鬼女を退治する話だ。


これもまた、人間の隠れた本性を鬼と表現する昔からの寓話なのかと思った。しかし、少し違うのだ。ここでは、鬼は外在化され、夜な夜な人間を餌食にしている。人間は鬼に喰われることはあっても、自らが鬼になることはない。人間は素朴な宗教心で自らを守り、鬼は外に存在するものとして祭りで貢物を捧げ、生かしてきた。

しかし、近代の合理的人間観では、伝統的宗教は衰退し、それと共に鬼の存在は否定された。だが、魂の救済が得られない人間は内部に鬼を宿すことになった。

小説「ジキル博士とハイド氏」は19世紀後半の作品である。薬によって二重人格を持てるとの発想は、鬼の内在化である。以降、私たちは内なるハイド氏を飼い慣らすことになった。しかし、その結果は「ジキル博士=ハイド氏」であり、日常生活のあらゆる刺激の中で、ひとりの人間の中に両者は対峙しているかに見える。改めて、江戸時代の精神世界を三味線音楽「三方掛合」と共に味わってみるのも良いことだ。

      

「人権問題」という原理主義的反応~政治課題としての慰安婦問題 (6)

2013年06月22日 | 政治
橋下徹氏の5/13付発言とその後のコメントに対し、マスメディアだけでなく、TWI, FB, BLOGなどのItネットのメデイアにおける一般国民の反応の中にも、人権問題(女性への蔑視)と捉える論調が多かった。それは橋下氏の発言を読まずに、マスメディアの報道を鵜呑みにし、自らの橋下像へ投影したものが多いように感じた。

ネットを選挙戦に利用することが解禁される段階において、甚だ心許ない状況に感じる。更に問題は、原理主義的に民主主義、人権を振りかざすことによって、橋下氏を絶対の敵に仕立てあげ、妥協を許さぬ政治状況へ導くことになる。

政党レベルでは、みんなの党の反応がそれだ。公党間の選挙協力を破棄する以上、それなりの理由付けを必要とするからだ。山内議員は橋下発言の引用もなく「歴史認識や人権感覚等の価値観が異なりました。」と断定的に述べているだけだ。
維新の会と共に退潮する渡辺・みんなの党120130612」

同じような感覚で橋下発言ではなく、マスメディア報道に反応する例として、地方議会改革活動において、知り合った知人A氏のFB上の発言を引こう。
「従軍慰安婦問題の本質は、強制連行の有無に拘わらず、日本女性を含めた女性全体に対する人権意識の低さ…橋下発言は女性蔑視の意識が表面に表れたと見るべき…」「日本のまさに野党第一党にならんとする政党の党首の人権意識がこのレベルだと、世界に知らしめたことの罪は大きいと思います。」と述べる。

筆者の「橋下さんは捨て身でチャレンジしていると感じています」とのコメントに、「…「国家の名誉」を守るために「個々の女性の心」を傷つけてもよい、という考え方は、全体主義に通じる危険な思想です。」との回答を受けた。

筆者「橋下氏の発言が女性の尊厳を踏みにじったというような大仰なものではない。今回の発言は(国際)政治的な意味で社交(偽善)が不足していたとは思います。しかし、社交自体は道徳的でも何でも無い。強欲と欺瞞の世界です。触れられたくない、見たくない問題にいきなり触れられた処に米国がいきり立った理由があると考えています。日本のマスメデイアも同じですが。」

A氏「「大仰」と言われれば、それまでですが、橋下氏のこれまでの言動(慰安婦問題に限らず)から見て取れる氏の「他人への思いやりのなさ」から判断すると、私には、氏の今回の発言は、女性蔑視そのものとしか見えない…」

筆者「私は「尊厳を踏みにじった」「思いやりのなさ」「蔑視」とかいう言葉は余り使った覚えはないので…まあ最初に、見解が異なると申し上げましたが…お付き合いの本筋を外すことは、ここまでにしておきましょう。」と収めた。

A氏の発言を選んだのは、ここに左翼的市民活動家の思考が顕れていると感じたからだ。それは先ず、人権という基本的権利に関する問題を「全体主義」という政治的イデオロギーに<還元する発想>だ。次におそらく、付き合いもないだろう橋下本人を「他人への思いやりがない」と断定する<短絡思考>である。

一方、橋下発言を再度確認すれば、以下である。
『侵略だということはしっかりと受け止めなくてはいけない』
『多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えた点も反省とお詫びをしなくてはいけない。』
『慰安婦の方に対しては優しい言葉をしっかりかけなきゃいけない』
『意に反していたのであれば、配慮しなければいけません』
『日本政府が暴行脅迫をして女性を拉致したという事実は証拠に裏付けられていませんから、そこはしっかり言ってかなければいけない』
橋下徹発言の最大のポイントを検証する20130619」

おそらく、A氏及びそれと似た発想を持つ方は、橋下発言を検討していないし、読んでもいないと思う。マスメディアが文脈を無視して切り取った発言を、自らの政治的立場と橋下悪者像を頼りに<還元する発想>と<短絡思考>によって、ストーリーに仕立てあげたのだ。

何故、橋下発言を無視しているのか、それは自らの「認識の枠組」を崩すことになるからだ。しかし、私たち自立した市民の立場は、認識の枠組を変えることを厭わないことだ。それこそが自己認識の学としての政治学の大切な処である。

      


神奈川県議会議員の政調費使用はデタラメだった~2.3億円の返還命令

2013年06月20日 | 地方自治
「議員の政務調査費がでたらめだったことが明らかになった。過去のつけが、現れたと思う」。原告となった市民団体「政務調査費改革かながわ見張番」総代表の奥田久仁夫さんは、判決後、そう強調した。

横浜地裁が認定した返還請求額2億3720万円は過去最高額。判決は「不適切な会計処理が行われていたことは十分に想定できる」とずさんさを指摘した。

神奈川県議会4会派が2003年度から4年間に支出した政務調査費の一部は目的外だったとして、計約4億7千万円を返還させるよう知事に求めた住民訴訟の判決で、横浜地裁(佐村浩之裁判長)は19日、自民党、民主党、公明党、県政会の各会派に対して、計約2億3720万円を返還請求するよう知事に命じた。

なお、現在の支給額は53万円/議員・月であり、6億8千万円/議会・年だ。

判決は、03~05年度の3年分の政務調査費のうち、目的外支出を
 ・自民  約1億1350万円
 ・民主    約8620万円
 ・公明    約1960万円
 ・県政会   約1790万円
 ・総計  約2億3720万円 と認定。 

「全国市民オンブズマン連絡会議」によると、同様の訴訟での返還請求額としては、過去最高という。

同様の訴訟では、12年1月、同地裁が、川崎市議会の4会派に約1億1700万円を返還請求するよう川崎市長に命じ、確定している。

県議会政務調査費訴訟 2億3720万円返還命令、目的外支出を認定 2013619

県議会政務調査費訴訟 一報入り議場にざわめき、議員嘆き節も2013620



      



橋下徹発言の最大のポイントを検証する~政治課題としての慰安婦問題 (5)

2013年06月19日 | 政治
日本維新の会は参院選公約案の中に、「慰安婦問題に関する歴史的事実を明らかにする」が入っているとの報道だ。これまで維新の会として、東アジア政策について、特に明確な政策を打ち出しているとも思えない。橋下舌禍事件から発展したのか、どこでどういう議論をして、急に公約に浮上したのか、これこそ説明責任がある。

その一方で、石原慎太郎は橋下徹について、「終わったね…、この人」と言ったそうだ。しかし、先の橋下発言(5/13)は、村山談話を肯定し、太平洋戦争を侵略戦争としたのだ(『安倍政権は村山/河野談話見直しを断念20130515』)。

石原が、今頃気が付くのも全くおかしいが、ここで改めて、橋下発言の最大のポイントを検証してみよう。なお、全文は上記の記事にも引用したシノドスを参照する。

先ず、記者質問は自民党・高市政調会長が村山談話を批判したことに関連して、「植民地支配と侵略をお詫びするという村山談話については?」であった。

これに対して、『日本は敗戦国ですから…連合国サイドは…その事実を曲げることはできない。…それは敗戦の結果として侵略だということはしっかりと受け止めなくてはいけない』『実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことは間違いない…その点も反省とお詫びはしなくてはいけない。』

橋下の論点は「負けたことの意味」である。ここが、岸信介の後裔である安倍首相のアキレス腱なのだ。『それは当時の為政者に重大な責任があるわけです。…我慢ならんことだってね、いろいろ言われる…負けたってことはそういうことなんです。…負けるような戦争なんかやっちゃいけないんです。…ら負けたってことをすぐさま捨て去れるような、そんな甘いものじゃないですね。』との発言になる。

この発言によって、橋下は安倍の退路を絶ったはずだ。お前の祖父たちが仕掛けた戦争は無残にも負けてしまった。アジア諸国に多大な損害と苦痛を与えて…しかし、指導者としての責任を棚に上げて、戦後、首相の座に納まっている。これは何だと!

これが橋下発言の最大のポイントだ。記者の質問へは十分に答えている。これが報道されれば、石原の逆鱗には触れても、世間的には納得されたであろう。しかし、そうならなかった。慰安婦問題に言及したからだ(上記記事参照)。

そして、その説明の中で『銃弾の雨嵐のごとく飛び交う中で、命かけてそこを走っていくときに、そりゃ精神的に高ぶっている集団、やっぱりどこかで休息じゃないけども、そういうことをさせてあげようと思ったら、慰安婦制度ってのは必要だということは誰だってわかるわけです。』との発言になる。

しかし、これは説明のための例示であって、吟味された内容ではない。単に例の出し方が拙かっただけなのだ。ポール・ヴァレリーが言う様に「常識のある人間なら誰だって知っているとは言えない問題に関して自分の考えを述べずには、政治をすることは出来ない」(「現代世界の考察」筑摩書房)のだから、説明に説明を重ねていけば、どこかで場当たり的な発言に曲がって、足下をすくわれることにもなる。

しかし、その後も、「今のところ、日本政府自体が暴行脅迫をして女性を拉致したという事実は今のところ証拠に裏付けられていませんから、そこはしっかり言ってかなければいけないと思いますよ。」と発言しながら、「ただ意に反して慰安婦になった方に対しては、配慮しなければいけないと思います。認めるところは認めて、謝るところは謝って、負けた以上は潔くしないと。」との橋下美学が開陳されている。

しかし、ここまで一気にまくし立てた記者会見であったが、これは通常の一問一答からは全くかけ離れている。多くは記者が質問していないことに対する余計な発言である。それも大阪市長として何も関知しない問題に対してだ。記者と橋下との閉鎖された空間での橋下の独演会のような、極めて奇妙で、胡散臭い場である。こんなことを続けて良いのだろうか、全く疑問である。

それにしても現状は、橋下自身が決断すべき状況になっている。それは石原と政治的に訣別すべき状況が顕れたことだ。瓢?から駒がでたようでもあるが、基本的な政治的価値観が衆目の一致するように大きく異なることが顕在化したからだ。先の衆院選挙での合一は野合であったのだ。橋下は石原を政治的に殺すことはできるだろうか。
(『橋下徹は「父親=石原慎太郎」殺しをできるか20130517』)