散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

国立追悼施設の新設構想~与党内野党としての公明党提案

2013年12月31日 | 政治
公明党の山口代表は27日、安倍首相の靖国神社参拝に関連し「わだかまりなく追悼できる施設のあり方をもっと積極的に模索してもいい」と述べ、2002年に福田官房長官(当時)の私的懇談会が出した提言を踏まえ、新たな国立追悼施設の設置を「前向きに真剣に検討する必要がある」と表明した。

一方、自民党の石破幹事長は「議論を始める具体的な計画があるわけではない」と述べるにとどめた。菅官房長官も「慎重に検討すべきだ」と強調。A級戦犯の分祀については「靖国神社が決めることだ」とした。

安倍首相が参拝した以上は、内閣及び自民党の公式反応として、それを批判するようなことは出来ず、当面は沈静化の努力しかあるまい。公明党の反応はタイミングとして素早く、与党内野党としての機能を充分に発揮しており、創価学会の意向があるにしても注目して良い。

靖国神社は、明治政府としてのナショナリズムの高揚のために、天皇制イデオロギーの下、国家神道の主要機関として機能した。第二次世界大戦での敗北に伴い、天皇制イデオロギーは否定され、宗教ではないと規定され、政治的存在であった国家神道も行方が亡くなったことになる。

問題は行方が亡くなったのも関わらず、戦没者を慰霊追悼・顕彰する施設の一つとしての機能が残り、その位置づけが政治的に決着されず、曖昧になっていることだ。天皇制イデオロギーを引きずる靖国神社から、新たに、公的仕事の中で亡くなった人たちを追悼・顕彰する施設を作ることによって完全ではないが、決着を図ることが必要になっている。

それは、例えば、国連活動で亡くなった場合が典型的な例となる。その新たな国立追悼施設の下に、明治維新での反政府側の戦没者も含めて慰霊することが日本にとって最重要の課題である。今回の公明党の提案を新たな視点で見直す必要がある理由だ。

自民党体制の中で、他の政党はすべて弱小化している。野党連合で対抗すべき処が、その主導権争いが激しい。みんなの党が分裂し、結いの党ができ、維新の会もほとんど分裂状態である。その中で公明党が自民党と与党を組んでいる。

しかし、先の記事で指摘するように、公明党は与党の中の「野党」を自らの位置として、「ねじれ解消」と共に、「自民党監視」の必要性を強調する戦術をとった。即ち、安倍政権の反動的性格に対する不安感を持ちながら、消極的に支持する層に訴えたと思われる。
実際、全国比例区の得票数は、その前の711万票から764万票、得票率にして11.8%から14.2%へとアップした。
 『与党及び野党の中の「野党」~参院選での公明、共産両党の位置 130730』

その後、公明党は与党内野党の地位を固め、安倍政権の施策に、基本は従いながらも、タイミング良く批判と提案を行っている。また、その内容は政治的にはリベラルな方向、経済的には社会民主主義的方向を目指しているかの様だ。

例えば「戸籍法」改正に賛成し、「自民党と判断が分かれたが、民法や戸籍法という家族の価値観に関わる問題で考え方が違うことはある。それぞれの党の立場を明らかにすることは議会制民主主義のなかで時にはあると思う」と述べた。
 『与党内野党としての公明党~野党4党提出の「戸籍法」改正に賛成131121』

消費税増税に反対することなく、与党としての立場を守りながら、「消費税軽減税率」問題に加えて、今回の国立追悼施設の新設構想はイデオロギー問題として安倍首相に迫っている。恐らく、民主党以下の野党を寄せ集めても、有効な自民党批判をできるとは思えない。

   
      
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安倍首相の靖国参拝問題と対米認識~「平和の代償」からの教訓

2013年12月30日 | 国際政治
安倍首相の靖国参拝に対する米国大使館の反応(disappoint=失望)が話題になっている。当ブログでは、「警告を発していた中での、行動であったため、やっぱり、やりやがったか!という意味で…失望している」と解釈した。
 『安倍首相、靖国参拝のサプライズ131227』

一方、プロとなると一味も二味も違って、一橋大学教授・秋山信将氏はtwitterにおいて「米政府がdisappointedを使ったのは、別に配慮してregretより弱い表現をするためじゃないと思うな。むしろ僕なんかは、「あれだけ行くなって示唆したのに結局行っちゃったんだ、がっかりだよ」っていう意味に捉えたけどな。パーソナルな感じが入いっている分、厳しくないですか?」と詳しい。

反論ではないが、筆者の直感からは「がっかり」よりも強く、「やりやがったな!」との感覚だ。と言うのも、10/3のケリー、ヘーゲル両長官の千鳥ヶ淵戦没者墓苑訪問は強いメッセージを含んでいるからだ。即ち、米国アーリントン墓地に対応するのは、決して靖国神社ではないとの米国の意思を示した。当然、安倍首相もそれを感じたはずだから、反発も含めての靖国参りということだ。

安倍首相は米国の意図に対して自らの考え方を押し通す際に、米国の反応を予測しようとしたはずだ。しかし、孤独のなかでの決断は、反発心が強いほど、自身の考え方を実現させるために“希望的観測”に支配されざるを得ない。最悪ケースを入れながらの冷徹な読みを避けることになりがちだ。

その結果、沖縄普天間基地移設問題の見通しを得たことで、米国への土産を作ったから等の理由で、米国あらの厳しい反応はないと自分自身を納得させたい違いない。しかし、外交は実行の世界だ。警告を無視すれば必ず反応がある。

先ず、大使館が素早く反応した。大使館が「失望」シグナルを出すのは異例であろうが、これを軽視して、本国の対応を見なければ…という保守派有識者もいたようだ。しかし、出先が異例の声明を本国と連絡せずに行うことは常識的にはないはずだ。当然、同じ反応が国務省からも出された。要するに、安倍首相を含め、日本の保守派の対米認識に甘さがあることを示している。

すでに50年前近く、永井陽之助は『日本の安全保障の問題で、多くの論者がまったく視野の外においている盲点は米国に対する防衛の問題である。』(「平和の代償」P117)と指摘した。
 『「平和の代償」の衝撃~永井陽之助語録3 20120926』

そのため、「日本人の対米依存は、ほとんど無意識の世界にまで達していて、それが時々、一種の反抗心を激発するらしいのだが…日本を見捨てないとの安心感にアグラをかいている。」と指摘する。これ今でも通用する内容であることは、鳩山元首相の「トラスト・ミー」発言の際も感じたが、安倍首相も同じだ。

当時は冷戦下、ベトナム戦争において北爆が開始された後のときだ。米ソ中の三国に対していかなるアプローチをとるか、その外交的戦略が課題であった。当時、核兵器をベースにした力及び工業化の段階から米、ソ、中の順にアプローチすべきとの基本姿勢を永井は提案していた。

一方、現在はソ連が解体し、ロシアとなり、中国が著しくい台頭している中で米国は東南アジアから東アジアにかけてリバランス政策を掲げている。その中で日本は中国との友好関係を如何にして築くのか、米国から注視されているはずだ。

しかし、安倍首相は中国との軍事・領土問題に対しては、日米安保条約の下での米国軍に依存しながら、国家間の関係改善においては、友好な提案はできないでいる。しかし、米国との友好を緊密にするには、そのリバランス政策に資するような行動が求められているはずだ。

それは単に米国の軍事的な補完をするだけでなく、この地域の経済的、文化的交流のリーダーシップを取れるような行動を必要とする。その前提として、政治的には戦後の民主主義体制の擁護が第一に求められるのだ。それは先ず、日本国内での合意形成の問題に帰着する。

      
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安倍首相の靖国神社と日本軍の実体~諸研究の成果を見直す

2013年12月29日 | 政治
子どもの頃、真珠湾奇襲攻撃での日本の劇的勝利、ミッドウエー海戦での日本の大敗をセットにした映画を観た。山本五十六を主人公に仕立てたこのストーリーは、太平洋戦争映画の定番の様に繰り返されている。

真珠湾は作戦勝ち、ミッドウエーは不運な敗北ということで「山本神話」を保持し、合わせて、惨敗に至った太平洋戦争の全体像を無視し、日本人のプライドを辛うじて救う試みのようにも思われる。

筆者が本格的通史として初めて接したのは、児島襄「太平洋戦争」上・下(中公新書1965)である。永井陽之助「平和の代償」の『参考文献』の中に「太平洋戦争史の、克明な実証研究を通して、旧日本軍の戦略思想の欠陥を追求したもの」との説明で紹介されて、確か、大学紛争ストライキ期間中に読んだ本の一冊だ。
なお、上記の参考文献は18頁にわたり、各文献について簡潔な紹介を含む詳細なもの、今でも現代の古典として読むに値するものが多く紹介されている。

この本から、真珠湾攻撃は戦闘の勝利ではあっても未熟な戦争観を露呈していること、ガダルカナル島が食料等の補給がなく、餓島と化した惨状であったこと、戦線がラバウルまで伸びきっていたこと等、それぞれが有機的繋がりなく、戦略もないままの壮大で、バラバラな戦闘劇であることを知った。従って、評判の高い「失敗の本質」を読んだときも、個々の指摘は面白かったが、全体としては特に目新しさは感じなかった。

今回の安倍首相の靖国神社参拝問題に関連して、石井孝明氏が「「英霊」は餓死、自殺攻撃をさせられた」と言っているが納得いく。特に、(1)大量の餓死者を出したこと、(2) 兵士に自殺攻撃を、部隊に全滅をうながす命令が大量に出されたことだ、の二点を氏は挙げ、このような人命軽視の思想は、戦死者は神として鎮座するという靖国神社の思想と密接に関わっていたと指摘する。

戦没者を慰霊することに反対する人はいないが、それを盾にとって、日本の首相が靖国神社を参拝することは、一般の人が参拝するのと同一ではなく、国家神道の総本山として機能した内容を合わせて肯定すると見られるほうが普通である。

かつて永井陽之助は「“物量”神話」を指摘したことがある(「時間の政治学」P194(中央公論社))。「日本は太平洋戦争で米国の物量に負けた」ということだ。裏を返せば人的資質、戦略・戦術・戦闘の点ではひけをとらなかった、ということだ。しかし、最近は種々の研究も多く出るようになって、ようやくその神話もメッキが剥がれてきた。永井は惨敗の原因を「油断、無知、慢心、年功序列、温情主義、なかんずく、指揮官・参謀の誤断、無能力等」と指摘する。これは1976年初出の作であるから、山本七平の優れた日本軍分析が出された頃であろう。

これらの説から日本軍の実体を私たちが理解し、そこから靖国問題を考えるようになったことが今回の安倍首相の行動を批判的に捉えることに繋がっている。そこには、多くの研究が必要であると共に、それらをシステマティックに理解し、それをまとめて、その情報を公開する人も必要なのだ。本ブログもその試みを非力ながら行っていく所存だ。

      
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安倍首相、靖国参拝のサプライズ~米国、異例の「失望」声明

2013年12月27日 | 政治
政権発足から1年、安倍首相は靖国神社へ参拝した(2013/12/26)。
この行動に対する中韓の態度は判っており、問題は米国の反応であり、特定秘密保護法の成立、安全保障戦略の策定、沖縄普天間基地返還に関連した辺野古埋立の目処、即ち、米国に対して成果を強調出来る状況において、特に問題は指摘されないと考えたのだろう。安倍首相は、短期決戦、突然の行動に出た。

一方、安倍首相が参拝したがっていること自体は周知の事実であり、米国にとって、真珠湾攻撃の様に想定外だったのではなく、警告を発していた中での、行動であったため、やっぱり、やりやがったか!という意味での「突然」だ。

しかし、反撃は素早かった。米国大使館が、この靖国参拝に対して「失望している」との声明を以下の通りに発表した。
「日本は大切な同盟国であり、友好国である」
「しかし、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」

日本のマスメディアは「日本政府として想定外」との報道をしたが、報道関係者としても想定外のことであって、政府を笑う事は出来ないはずだ。おそらく、外交関係の有識者にとっても同じだろう。

靖国参拝は、少なくとも日本国内の政治問題で有り、しっかりとした議論を行うべきことである。歴代の自民党政府はこれを怠り、「英霊」追悼の狭い枠組に押し込んでしまった。従って、今回の参拝も極めて閉鎖的な政治環境を無理矢理作り出したように思える。それがサプライズの問題なのだ。

サプライズに続いて奇異に思ったのは、安倍首相談話「恒久平和への誓い」だ。
安倍首相にとって、「恒久平和」は「戦没者を悼む神社」において「戦没者」に誓うことなのか?こそこそと隠れるように、突然、神社へ赴き、その参拝と共に発表するようなものなのか?そんなことで達成できることなのか?

この談話について、自民党を始めとして各政党、有識者、マスメディアにおいて、まともに取り上げ、活発な議論が行われた形跡が全くない。

米国大使館の声明においても上記に続いて、以下の様に述べる。
「米国は、日本と近隣諸国が過去からの微妙な問題に対応する建設的な方策を見いだし、関係を改善させ、地域の平和と安定という共通の目標を発展させるための協力を推進することを希望する。」

即ち、靖国参拝が地域の平和と安定にとって建設的な方策ではないと述べる。但し、これでは同盟国に対して、素っ気ないので、最後に以下として、次の行動への繋がりを確保している。
「米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する。」

靖国神社は、天皇制イデオロギーの総本山であって、宗教でもない。

明治政府が編み出したナショナリズムは日清・日露戦争において極めて有効に作用したが、その副作用も大きく、特に陸軍を抑えられず、大陸帝国主義に乗った膨張政策も破綻し、最後は無謀な真珠湾攻撃によって米国ナショナリズムを励起し、不要な犠牲者を大量に出すハメに陥った。

靖国神社は、日本の失敗の象徴的存在としか言えない。

      

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都知事選挙は地方自治を象徴する~国・マスコミ・住民の無意識の結託

2013年12月26日 | 地方自治
猪瀬氏の都知事辞職前までは、徳田側からの5千万円供与で話題として盛り上がっていたのだが、次期知事候補を決める段階になっても、更に盛り上がる処か、水面下の候補者選びが続き、報道内容にも事欠く状況になっている。
しかし、巨大都市・東京の主を目指す政治家が殺到しないのは何故か?

この理由を冷泉彰彦氏は「東京の民主主義のレベルが低いからではない…東京というコミュニティが、10年先、20年先を考える余裕を失っている…また、巨大都市ではあっても、個々の人々は職場や学園などの閉鎖的な人間関係の中に囲込まれ…都市全体の課題を意識することが難しい…」と云う。

民主主義の問題を除けば、正鵠を射ている指摘と思う。別の言い方をすれば、東京は小さな雑多なコミュニティの集まりであって、それがムラ的な社会を構成するが故に、全体としての統一感に欠けるのだ。職場、学園の機能はその通りだが、地域においても小さな町内会の集まりであって、それが個々結びついた構造になって、それぞれに「お山の大将」がいる。

それを実質的に束ねていたのは、以前は国の官庁による機関委任事務制度であった。それは、日本の地方自治全体を覆い、法令に基づく官庁からの委任を「国の機関」として処理するものである。すでに地方分権一括法によってなくなってはいるが、依然として惰性は続いているようであるし、変わったとしても巨大な都庁という官僚機構に肩代わりしただけだ。

官僚機構による支配とはハンナ・アーレントの云う「ruled by nobody」であって、顔のない、のっぺらぼうの、非人格的な支配なのだ。その象徴として都庁とその地域の巨大ビルを集積した無機質の新宿副都心があるのだ。その周りは猥雑で人間の匂いと有機的な繋がりを提供する「新宿」なのだ。


 
   都庁を中心とした新宿副都心 http://www.metro.tokyo.jp

「国家(実質は官庁―都庁)」に対抗して、都知事は何をやるのか?例えば、石原慎太郎元知事の仕事を並べると、新銀行東京、都立高校改革、羽田空港再拡張事業、臨海副都心開発、外形標準課税、カジノ構想、「後楽園競輪」復活構想、首都大学東京等が引き合いに出される。

しかし、地方自治体としてピンとくるものは、高校改革だろうか。一方、都営住宅・特養老人ホームの増設拒否、児童養護施設の廃止という福祉への冷淡さがある。地方自治とは縁遠い内容だ。結局、オリンピックの様な、稀で巨大イベントのときだけ注目され、通常は「都知事」に一般住民の関心は向かない。

では、「住民」の関心は?というと、それぞれ(1)個人問題に先ず集中する。次は(2)地域問題、(3)国内問題、(4)国際問題のどれだろうか。ある調査では(4)国際問題に関心が集まっているという。少なくても、(2)地域問題は最下位なのだ。身近な問題を公共問題に転化するとき、中間項になる地域は消えて、天下国家に一足飛びに移る傾向が強い。

その一足飛びを媒介するのが「マスコミ」なのだ。本日から明日にかけては、安倍首相の靖国参拝問題が大きく取り上げられる。米中韓の反応も含めて安倍首相は批判されるはずだ。都知事問題は進展もなく、ニュースのネタからは後退する。当然、一般住民もマスコミに作られた話題に注目する。

以上のように、マスコミを媒介として、国と住民が情報に固定されるから、結果として、住民の関心は少しずつ、地域問題から離れていく。このように、「国・マスコミ・住民」と無意識のうちに結託して情報の作成から循環までの閉ループを構成しているようだ。

こう考えると、問題は政治(民主主義)の問題に返ってくる。これを打ち破るには、しっかりとした政治家を都知事にして、政策全般の棚卸しを図る必要がある。その意味で筆者は小泉進次郎議員(自民党)の若さと政治経験に期待したいと考えている。

      
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安倍首相の非政治的な政治的情念~「我が国と郷土」を愛する

2013年12月24日 | 政治
国家安全保障戦略」の中で「社会的基盤の強化」として次のことを述べている。
「…国民一人一人が…国家安全保障を身近な問題として捉え、その重要性や複雑性を深く認識することが不可欠…我が国と郷土を愛する心を養うとともに…安全保障分野に関する啓発…」である。

この「我が国と郷土を愛する」との言葉に以前から違和感を持つのだ。実は改正された教育基本法の第二条にも、次の記述がある。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」

平成18年12月と書いてあるから、5年前から違和感を持ち続けていたことになる。それにしても教育「基本」法に書いていることが、そのまま国家安全保障「戦略」に記載されているのも妙な気がする。

改めて考えると、両者ともに安倍首相の肝煎りで出来上がったものだ!偶然の一致ではあるまい。しかし、首相が直接に手を染めることでもないので、何らかのかたちで取り巻きが首相の意向を踏まえ、一方は教育基本法、もう一方は防衛戦略と政策の具体性では離れる事項に同じ文言を取り入れたのだろう。

即ち、「我が国と郷土を愛する」とのフレーズは安倍首相が持つ素朴な政治的情念のキーワードと言えるのだ。但し、教育と防衛をドッキングさせるかの試みを、直ぐに軍国主義の復活、戦前回帰などとレッテルを貼らないように。それよりも、自らの違和感を掘り下げることが大切なのだ。

1)「我が国」と「郷土」が並記されている
2)何故、「国」ではなくて「我が国」なのか
3)何故、「地域」、「地方」ではなくて「郷土」なのか
4)何故、「維持する」、「守る」ではなくて「愛する」なのか
5)このフレーズがその戦略あるいは法において機能するのか
以上が違和感の具体的内容になる。

法的文章、戦略規定とは、およそかけ離れた文学の香りがする言葉使いだ。素朴な政治的情念が、そのまま反映されているとしたら、これは極めて非政治的な行動としか言えない。そして、首相を務める政治家が非政治的であれば、政治的文相はいざ知らず、実際の政治的判断において、失敗する可能性は高いとの疑念が消えないのだ。

疑念に戻って、「郷土」とは地方、地域という意味もあるが、先ずは故郷、生まれ育った処との意味を想い起こさせる。ということは、人によって、現在地ではないことが珍しくない。教育基本法の対象者は子どもたちであるから、大体において、現住所の近くが郷土と言って良いだろう。

しかし、子ども達にとって、「郷土」よりも「地域」の方が馴染んでいる言葉だ。小学校の卒業式に出席したとき、「私たちは、地域の皆さんに支えられて育ちました」との台詞を聞いて、そういう言葉を使うんだ、と驚いた覚えがある。

筆者の小中学生の頃は「地域」という言葉は日常言語的には使わなかった。せいぜい、「近所」だったと覚えている。「郷土・ふるさと」に至っては、学校唱歌の中の話である。すると、今では郷愁の中の言語なのだ。

この言葉の問題は「我が国」「愛する」においても同じだ。即ち、安倍首相の政治的情念は、極めて非政治的な情念であることが判る。日本の政治にとっても要注意の爆発物かもしれない。

      
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北本市住民投票、雨降って地固まる?~住民対住民と住民対市長・行政

2013年12月22日 | 地方自治
首長案の請願駅設置(高崎線・北本―桶川間)が否定された後、計画は白紙撤回されたわけだが、その後、どうなるのか。実は市民の意見を知りたいと思ってネット検索をしたのだが、賛成派、反対派それぞれの意見がググってもそれ程は、出てこない。
 『住民投票、「市長案」を否決131216』

新聞報道によれば反対派のビラ配布は多かったように書かれているが、ネットにはそれほどでてこないのか。結局、日頃の北本市の状況を伝える代表的なブログが当たったようで、ともかくその内容を当たってみた。

比較的冷静に、しかし、日々を追って克明に書いているブログを取り上げて見る。
投票結果を報じて、「投票率は62.34%という最近の選挙では見た事ない高投票率…投票の終わった20時以降、市のHPはつながりにくい状態が続いて…関心が高まっている様子…地元の人たちが真剣に考え、この土地に住んでいくために、何が足りなくて、何が必要かをイメージさせる貴重な機会となった…。」

「市長が「住民投票で決める!」と言わなければ、議会は推進派が多数…新駅設置は実現…。しかし、石津市長は自身で判断せず、住民投票にゆだねた。」
この口調から、このブロガーは住民投票に乗り気がしなかったように思える。

「…テレビや新聞では「南北戦争」などと対立を煽るような報道をされ、住民間に余計な対立の構図…南部地域の住民と北部地域の住民との間には嫌なしこりが残ることになってしまう今回の住民投票。」

これは最大の問題点を指摘しているが、問題の本質をずらしている。しこりを残すかどうかではなく、利害関係者の多数が決定した処に最適な解が選択されたのか?との疑問が残されることが問題なのだ。

実際は、どんな決定をしたとしても、最終的には住民対住民の問題になるはずだ。しかし、その対立を見えなくするのが、行政の一つの役割なのだ。しかし、そのブログは次の様に云う。

「全国的にも請願駅の設置を住民投票で決める…その過程と結果が注目されていました。しかし思うに、場合によって住民投票を行っていい事案と、そうでないデリケートな事案があるという事が見えてきました。」

「そもそも市長も市議会も市も、ルールを決める側のすべてが推進派・賛成派ということで始まった今回の住民投票。僕が見ていた限りでは「行政 vs 市民」の戦いだったと思っています。」

そうであるなら、何故、市長は住民投票に掛けたのだろうか?市長が勝つ自信を持っていたとしても、それでも住民投票を実施したことは、反対住民を説得するために取った処置になる。

「夢物語だけが書かれた市と推進派が発信するチラシを読んだ市民は、新駅設置を反対したわけではありません。その計画が絶対にうまくいくという「成功のストーリー」が、そこには書かれていなかったから反対したのです。」
これが勝負の別れ道とも言うのだが、「成功のストーリー」があるのか?

「「子育て日本一」や「セーフコミュニティ」の施策とからめて、それぞれの施策が相乗効果を生むようなアイディアをどうして前面に出してアピールできなかったのか?」

「高齢化世帯と子育て世代を融合させた「新しい街」を、新駅を中心にデザインしました!くらいのことは言って欲しかったなぁ。」
おそらく、市長の掲げた幾つかのスローガンが、いずれかでも具現化されていれば、新駅構想も認知された可能性はある。しかし、おそらくそうではなかったであろう。問題は「言葉」が空気を振動させるだけではなく、実体として機能していることが重要なのだ。

結局、住民投票が機能する前提条件は、これまでの実績を市民がどの様に評価するのか、その態度に掛かっている。もし、市長が単独で新駅設置と判断すれば、長期的に見て南北対立は深まったはずだ。従って、住民投票は結果がいずれであれ、対立を緩和する-様に思える。
 『北本市、住民投票の是非131218』

      
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対話の精神と肉体文学~映画「ハンナ・アーレント」を観て(2)

2013年12月21日 | 現代社会

映画を観ているさなかに、ふと想い出したのは、いくつもあるのだが、「肉体文学」という言葉だ。勿論、丸山眞男の論文である。先の記事で「判断の早さ、ためらいの無さ、これが強靱な精神を表現」と書いたが、これが対話の精神を支えている。自らの主張に関し、常に考えを巡らし、素早く反応する。しかし、相手に隙を見せる表現は避ける。これが欧米的なのだ。
 『強靱なヨーロッパ精神の発露131211』

一方、日本はと云えば、依然として『肉体文学から肉体政治まで』(「現代政治の思想と行動」所収)の世界なのだ。この中で、丸山はコクトーの映画『恐るべき親達』を評しながら「社交的精神とは…我々相互の会話を出来るだけ普遍性があって、しかも豊饒なものするための心構えを各人が不断に持っていることだと思う」と述べる。今でも通じる問題意識なのだ。

映画の中ではメアリー・マッカーシーとの会話の場面が何度か出てくる。それが見事なのだ。冒頭、映画全体の中でアーレントを紹介する場面、メアリーとの互いの夫婦間の話題、両者の見方の違いからアーレントの人間観が顔を覗かせる。メアリーの性的奔放さは見る人に判っていると織り込んでいるのだ。

イスラエルへ」行くアーレントを壮行会、独語での会話が白熱する中で、メアリーは話がわからずついていけない。それでも会話は互いの主張による緊張の中で続く。互いに譲れないのだ。メアリーの割込も見事だ。「どんな意見でも私は賛成よ」と英語で話す。これで会話は英語に戻るのだ。

メアリーをアーレントと対等に描くことが出来るのは、対話の精神によって支えられているからだ。従って、アーレントの人間観も際だって描かれる。これはメアリーだけでなく、あらゆる人間関係において、表現されている。

対話が進むほど、それぞれの考え方が明確になり、その違いが明らかになるのだ。アイヒマン裁判を巡る論争を映画化したことによって、日常での緊迫した論争を物語として表現したことによる。

アーレントの思考という「活動」を映像として表現したM・F・トロッタ監督の手腕は、対立の極限へ行っても対話の精神を崩さないヨーロッパ的行動様式によるものだろう。
丸山は云う、「人間精神の積極的な参与によって、現実が直接的でなく、媒介された現実として表れてこそそれは「作品」(フィクション)と云えるわけだ。…決定的なのは精神の統合力にある。

これが崩れれば、個人にとっては決闘であり、国家では戦争になるのだが。しかし、決闘形式の戦争は軍隊間の決戦として表れ、民間人を巻き込まない様に行われた。それが、日露戦争だ。

話はずれたが、丸山は更に、次の様に云う。
「日本のように精神が感性的自然―自然というのはむろん人間の身体も含めていうのだがーから分化独立していないところではそれだけ精神の媒介力が弱いからフィクションそれ自体の内面的統一性を持たず、個々バラバラな感覚的経験に引き摺り回される結果になる。」

この丸山の論文は「展望S24年10月号」に掲載された。それから65年以上経過した現在、なお、通用する指摘の様に思われる。





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都知事候補の大穴は小泉進次郎議員~若き「政治家」による舵取りを

2013年12月19日 | 政治
猪瀬直樹都知事の辞任表明に伴って、話題は次期都知事選挙に移った。筆者が先ず思い浮かべた人物は小泉進次郎衆院議員だ。しかし、マスメディアは、自民党の動きとその周辺でちらつくタレント(議員)を先ず取り上げている。相変わらずの発想だ。一方、筆者が考えることは、以下の三点だ。

 1)政治家…タレント、学者、行政マンではなく
 2)伸びしろ…比較的若い世代を牽引する
 3)知名度…有象無象の機会主義者を抑える

歴代の都知事を振り返ってみよう。美濃部亮吉(1967-1979)は学者、鈴木俊一(1979-1995)は行政マン、青島幸夫(1995-1999)はタレント、石原慎太郎(1999-2012)はタレント(作家)、猪瀬直樹(2012-2013)はタレント(作家)。

とかく著名人であることが必要条件だ。石原は国会議員であったが、1975年東京都知事選挙において、自民党推薦で出馬、美濃部に挑戦したが落選した。また、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰を受けたが、突如議員辞職を表明した。ともかく、外観はタレントと呼ぶほうが相応しい。

政治家が東京都知事になりにくいのは、首都であり、人口規模が大きいことによって、知名度を必要とすることと、その一方で、外交・防衛問題にようにメディアで大きく取り扱われる政策に乏しい。また、経済については国家規模・個別業種/企業の問題になるため、地方自治体における政策の中核に入らない。勢い、オリンピック・万博に代表されるイベントが注目される所以である。

しかし、高度経済成長以降は国家的経済規模の拡大、国を超えた都市の成長と競争が重なり、交通・通信のインフラ施策の展開が広がる。国内的には地方自治の拡大による権限の増加、対外的には都市競争も盛んになり、政治家としての仕事も拡大していく。

従って、地方自治体の首長へチャレンジする政治家が増え、結果として行財政改革なども進むようになった。逆に言えば、自治体の住民にとっても優れた手腕を持つ政治家が必要となっていることを自覚する契機にもなっている。

この状況の中で、地方自治体の首長は若い政治家の登竜門となり、自らの手腕を試すことによって実力を伸ばす格好の場になる。首都圏では、熊谷俊人・千葉市長は第二期目で35歳、最近、川崎市長になった福田紀彦氏は41歳である。首都圏の首長の平均年齢を更に下げ、若い人たちを引っ張っていくのを期待したい。

何故なら、選挙投票において、若い層の投票率は低く、特に地方選挙において顕著だ。一つには、若者特有の考えとして、自らの個人的問題と国家間の問題に関心が強く、その中間にある地方自治体の問題に関心が薄いことが挙げられる。

この傾向を改めていくのには回りからの地道な働きかけが必要である。それは小規模の地域から始まり、それが大規模な地域に繋がっていく。以上から、若き政治家の登場が待たれているのだ。

そして、最後に改めて知名度の問題に戻る。新聞報道で都知事候補として取りざたされているのは、例えば、小池百合子元防衛相、橋本聖子参院議員、下村博文文科相、萩生田光一首相補佐、桝添要一元厚労相、東国原英夫元厚労相、蓮舫元行政刷新相などである。

しかし、どう足?いても決定打を持つ人材いない。その中で機会主義者は虎視眈々と出番が回るのを待っている。場合によると保守乱立の可能性も出てくる。従って、国民的支持を背景とした人物を出来るだけ早く候補者にし、有象無象を抑えることが有効だ。その意味では、小泉進次郎が相対的に相応しく感じる。

若い世代の進出なるか!注目したい。


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北本市住民投票の是非~住民の対立を回避すべきか

2013年12月18日 | 地方自治
一昨日の記事において、埼玉県北本市の「高崎線新駅」設置計画は「市民間の対立になる点で、住民自治が試されるのだ。」書いた。これに対して、争点が住民投票に馴染まない、という意見も珍しいものではない。北本市全体の問題ではないという理由からだ。
 『住民投票、「市長案」を否決~20131218』

今回の北本新駅は隣の桶川市に近い位置で、その近くの住民あるいは駅を利用する人は賛成、遠方で利用しない人たちは反対になり、北本市全体の課題としての共通意識が成り立たないとの議論だ。

川崎市においても、地下鉄建設計画で同じ様な議論があった。そのため、その計画では最終的に川崎市の丘陵部から臨海部に至るまで、地下鉄が南北に走る計画であった。結局、川崎市では住民投票条例は制定されたが、地下鉄建設計画それ自体は自然消滅の形になって住民投票の対象にはならなかった。即ち、その条例は一度も使われたことがないのだ。

戻って、北本市の場合、住民の対立を励起する住民投票ではなく、市長がその権限において、自ら判断すれば良い、というのが結果論も含めて賛成派の言い分になる。所謂、政治的判断への期待だ。

しかし、その場合も反対する人たちを説得することが必要だ。では、今回の投票時に展開された理由で説得可能だろうか。また、議会は議論を尽くして市民を説得する行動を取っただろうか。

北本市のHPを見る限り、筆者として以下のような疑問を感じる。

1)「50年後、100年後の市民に残す貴重な財産」との議論は、将来に関する問題であって、見通せる人はいない。特に超高齢化社会の到来では尚更である。レトリックとしては稚拙と感じる。

2)政策の優先順位に対して明確な考え方が打ち出されていない。住民福祉及び各地域の計画を如何に進めるのか、情報に乏しい。

3)請願駅建設をしなければ、財政的に何を進めることができるのか?情報が提起されていない。

結局、バラ色の未来のみが説明されており、課題、問題点が充分に考えられているとは思えない。従って、巨額の資金を使う計画としてリスクに対する不安が消えないのだ。一般の市民が素朴に問題点を指摘できるほど、隙の大きい計画になっている。

本腰を入れて市民を説得しようとする情熱が、この“情熱市長”には欠けていたという他はなさそうだ。

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