散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

政治問題と社会問題の区別-政治への不信と過信~橋下徹・状況型リーダーシップの研究

2012年03月24日 | 国内政治
大阪都問題は市長選後の橋下市長の動きと地方制度調査会での大都市制度のプレゼン及び討論によって、国政トップでの課題ともなり、一段落がついた。

 一方、マスメディア向きの話題は大阪市役所の選挙活動、教育基本条例、職員の日の丸・君が代に対する態度等、行政機構へのチャレンジとして最近は提起されている。更に、それが職員の入れ墨の是非という私的な問題にまで及び、橋下市長の「入れ墨は首、それが駄目なら消させよ」の発言が報道されている。

これについて、北村隆司氏が『それはないよ、橋下さん!』と発言している。「市長個人の価値観を、公権力を使って他人に強制するに等しく、民主国家の基本中の基本を無視した暴言」、と批判し、更に、「現行法では「入れ墨」は法的に何ら問題なく、「入れ墨」問題の様な表現の自由に関連するものは、条例を含む公権力の圧力行使には馴染まず、教育、広報活動を通じて社会的通念を変えるしか道はない」と述べる。

 社会的通念に関わる問題とは広く「社会問題」に属する。これを、条例を含む公権力によって強制するとの解決方法は、その「政治問題」化に他ならないことを北村氏は指摘しているのだ。

 この「政治問題と社会問題の区別」について筆者は、「永井陽之助の政治的人間論~政治への不信は、過信の裏返し」の中で、40年前に発表された『解説 政治的人間』(「政治的人間」所収(平凡社))から引用している。政治への不信がなぜ過信の裏返しか。それは、すべての社会問題が政治的手段によって解決できるという暗黙の期待が私たちにあるからだ。そこで、

『政治問題と社会問題の区別を廃棄し、本来の政治的解決と処理にゆだねるべき領域がますます社会化されていくことは、逆から言うと、社会問題がますます政治化され、…権力による問題解決に短絡されやすい傾向を意味している。』

大阪市民の政治への過信の裏返しとしての“政治不信”を基底にして選ばれた橋下市長が、市役所職員の政治活動を規制するという「政治問題」を、入れ墨という「社会問題」へ転化し、「政治化」することによって、権力による解決を図っているのだ。氏にとって、“社会的通念”を変えるという迂回的なアプローチは、物事を早く決めるには全くもどかしい。「クビ」にできるような条例制定によってのみ“最終的解決”が図られる、と考えているようにも思える。

再び、永井陽之助の言葉を借りれば、
『近代の合理主義が確実性と完全性を問題解決のめやすとするかぎり、不可避的に生じる危険な傾向なのである。それは制度より機構を、政治より行政を、指導より管理を、権威より操作を、伝統より技術を、説得より実力を尊重する傾向をもつ。』

しかし、権力による問題解決を、ある意味で北村氏も望んでいるところに問題の本質がある。氏は次のように言う。
橋下市長が「市民が立ち帰るべき原点」を示した事、他の政治家と根本的に異なる点です。その原点とは、透明性を維持し、公権力の横暴を抑えて基本的人権を守り、決定権を出来る限り市民に近い処に移し、物事を早く決められる「新しい統治機構」の確立でした。

すなわち、政治不信の巨大な圧力の前で、最終的な評価を“物事を早く決められる「新しい統治機構」の確立”に与えている。その前の「原点」の部分は、政治的表現の視点からは単なる美辞麗句の修辞的表現しか過ぎない。独裁も可なり、とも言う橋下氏に対し、「物事を早く決める」ことを評価する姿勢は単なるオマージュであって、権力者に対する距離感は感じられない。更に、橋下市長の政治的行動は政治への「不信と過信の関数」でもあるから、走り出したら主体的に止められないことも当然ある。

以上のように『社会問題への介入が有り得ること』と『物事を早く決める機構の確立』とは、相関関係があることは明らかである。特に橋下市政においては、首長・法律家と顧問・行政マンの組合せで運営にあたる体制であり、“制度”(政治学的な意味での)に対する理解に疎く、機構の確立のみに傾斜する可能性をもっている。

この場合、行政が政治機構の命ずるままに“効率的”行動を起こさざるを得ない。最近の「君が代」斉唱における「口元チェック」問題にも示されるように、細部への規則の徹底によって、職員の行動の可測性と制御を得ようとの試みに結びつき、不可避的に、管理・操作・技術・実力を重視することになる。

これは一つの懸念点である。国政進出を表明した橋下氏は塾を開講し、新たな方向を模索している。しかし、進んでいく方向は様々に分かれるから、予断を許さない。私たちも主体的な判断と選択が迫られる。

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吉本隆明の詩めぐって~斎藤誠教授とのTwitter上でのやりとり~

2012年03月20日 | 吉本隆明
吉本隆明氏への追悼を書いたあと、斉藤教授の追悼をTwitter上で読んだ。吉本が引用している芥川龍之介の詩を引用しており、筆者が引用した詩「佃渡し」と響き合うものを感じた。高名な方に反応するのも、とも思ったが、返信したところ、やりとりを頂けた。深謝!

斉藤教授の「競争の作法」は大竹英雄・阪大教授の書評を介して読んでいた。慣れない経済学の本で、どこまで理解できたのか、甚だ心許ない限りではあるが、経済学的思考の一端を少しは理解できたと思っている。また、「原発危機の経済学」はネットに公開されている「はしがき」等を読み、その問題意識の深さ、的確さに認識を新たにさせられた。

吉本隆明氏の詩をめぐる斉藤教授とのやりとりは以下のようになる。
斉藤教授
追悼というわけでもないが、大学帰りがけ本屋で吉本の文庫本『真贋』を買って読んだ。少し驚いた。こんなにしなやかな文章に。あとがきの最後に芥川の詩を引いている。

  汝と住むべくは下町の
  水どろは青き溝づたひ
  汝が洗場の往き来には
  昼もなきつる蚊を聞かん
  合掌
筆者
このしなやかさが吉本隆明の特長だと思います。詩の「佃渡しで」がいいですね。
斉藤教授
学生時代に読んだ吉本があまりに自分の理解を超えていたので、ずっと敬遠していたのですが、この機会にじっくりと読んでみようかと思っています。
筆者
朝の返信は通勤電車の中で慌てて書きました。芥川の詩は随分昔に読んだ吉本の芥川論に書かれていた、あの詩だ、と直感したからです。その時、芥川のイメージが変わりました。
小生の吉本追悼はこちらです。
斉藤教授
確かに、吉本の「芥川龍之介の死」で引いていた芥川の詩です。「佃渡しで」、なかなかいいですね。自分は頭が決して性能のよくない散文構造で、それもかなり苦しむ方なので、詩人が切り取った、もしかすると、通り過ぎてしまうような風景の表現に、憧れをもっています。

このやりとりをここで書いた理由は、斉藤教授の詩的感受性の源泉を表現しているように感じたからだ。それは、「つぶやき」の短い文面にも、先の新書版の著作にも自ずと表れている。更に、以前の「つぶやき」を当たってみると、吉本に関する的確な発言がある。
吉本死去を伝える共同英文電に、
He reportedly continued to be supportive of reactors due to his belief in the progress of science.将来に向かって影響を残す彼の言葉の一つになるかも。
松岡正剛千夜千冊1458夜には、昨年8月5日・日経の吉本隆明談話のコピーがあるが、復興や原発について本当に真っ当な発言をしている。技術者で詩人であった吉本の真骨頂でないか。朝日で吉本隆明の経済学(?)を語っていた中沢を含めて反原発論者の面々は、吉本との距離感をどうとるのだろうか。

             
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吉本隆明氏を追悼する~都市における民家の消滅と共に~ 

2012年03月18日 | 吉本隆明
手元に残した氏の著作は『評論集 詩的乾坤』(国文社(1974年)だけであった。読んで印象に残った本は他にも沢山あるはずだ。『詩集』『高村光太郎』『宮沢賢治』『西行』『源実朝』『共同幻想論』『評論集』…しかし、押入捜索はムダであった。そこで、残された一冊の評論集のどこが?と言えば、
「都市はなぜ都市であるかー都市に残る民家覚え書」(P312-321)なのだ。

この本の口絵として、手製の「谷中地帯変形略図」がカラー版の絵(表)とモノクロの手書き地図(裏)、として掲載され、続いて、<格子>戸、<格子>窓付きの民家の写真が4ページにわたって掲載されている。写真付きとは氏の諸作には珍しい。それ故、写真を示すことによってしか表現できないこだわりがあったはずだ。それは、この<格子>戸や窓付きの民家こそが、氏にとっての“都市”の原像だからだ[上掲書、口絵より]。

本文での締めくくりの言葉、「みずからは何ものも意味しないのに、存在すること自体が価値であるといったものがこの世界にたしかにありうる」(P321)。
これが「手製の略図」と「<格子>戸や窓の写真」と響きあっている。

<格子>戸や窓は、住人が自らと戸外とを連絡する意識を持っていることを象徴する。しかし、今、<格子>戸は開閉扉にとって代わられ、家族が孤立空間を欲していることを示している。これが民家の破壊度の尺度になる。
<格子>から始まり、<低い二階>、<袋小路>、<イエ・ヤシキ>をたどり、玄関先、軒端に置かれたみかん箱の<植込み>を<庭>と見なす知恵をいわゆる<名園>と拮抗せしめるべき、と指摘する。これが民家の様式である。

筆者の勤務先はJR浜松町駅から大門側へ少し入った近くにある。大小のビルが並ぶ合間に、旧い建屋の店なども細々と残っているが、個々に孤立して存在する程度である。また、とあるビルの脇に小学校があった旨の碑が建っていたりする。

ともあれ、当時も都市の膨張と機能が民家の様式を押し潰すことは止められない。それでも、「都市の民家が、高層ビルの窓の一個または数個に転化してしまうことをきみは肯定するか?」(P317)と問いかける。何故なら、氏がそれを愛惜するのは、懐古、伝統再発見の理念ではないからである。

「近代の展開がもとらした諸悪と諸善が、これらの民家とその住人の真うえをとおりすぎたにもかかわらず、いかなる意味でも爪跡をのこすことができなかったという証拠を、これらの民家が提供しているからである。」
「そこには不羈の貌と慰安と、ある意味でわたしが思想の基底とみなしているものとの合致する構えが存在している。」(P321)
ここには、氏が“大衆の原像”と表現した幻想の住人がいるのだ。「改めて近代という考え方を紹介した」という冷泉彰彦氏の解釈は、あったとしても、派生的なことである。

川崎市にはJR登戸駅近くの生田緑地に「民家園」がある。但し、ここには農村的風景にマッチする民家が並ぶ。土間があり、その一角に馬の居場所もある。薄暗く、藁の匂いが漂う。ここは生活・労働そのものが家の構えと合致しており、およそ都市の民家とは異なる。そこからみれば、<格子>の存在は文化的であり、生活の匂いは希薄である。吉本氏が描く都市の民家は、当然ながら氏にとっての生活の場であり、子ども時代の記憶に結びつくものである。

この巨大都市に残された民家に関する論考は、昭和44年(1969年)の年末近くに雑誌『都市 創刊号』に掲載された。高度経済成長のさなか、大学紛争の時期である。氏の生まれ育った月島、佃島辺りは、その時、遙かに変貌をとげていたはずである。

東京が巨大都市へ変貌した、その第一歩は昭和39年(1964年)の「東京オリンピック」である。筆者は神宮外苑にある高校へ入学した年で、新幹線が開通しただけでなく、京王線が新宿駅近くで路面電車から地下鉄に変わり、あるいは、明治神宮と隣り合わせていたワシントンハイツ(米軍家族宿舎)が、選手村に変貌した。

佃大橋ができて佃渡しが廃止になったのが昭和39年8月(東京さまよい記)。詩「佃渡しで」が作られたのはそのころだ(「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房))。以下、上記ブログから「佃渡しで」を転載させて頂きます。

佃渡しで娘がいった
<水がきれいね 夏に行った海岸のように>
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れているのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
<これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう>
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行った
そして泥沼に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
<あの鳥はなに?>
<かもめだよ>
<ちがうあの黒い方の鳥よ>
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
<これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう>
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

<あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう>
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる

「佃渡しで娘がいった〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉…」から始まるなんとも言えない書き出しに、氏の叙情豊かな感性が柔らかく表現されている。娘の言葉から過去が蘇り、回想の叙情が、河、蟹、泥沼、堀割、橋、欄干…と展開される。しかし、回想の中で過去と現実の距離は縮まり、「…わたしが生きてきた道を娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる」。

通りすぎたあとの5年後に、谷中にみた現実の姿を都市民家論として描いているのだ。ここでは、回想のなかからではなく、現実に残された姿から自らの思想の基底を探り当て、都市と共に生き続けた民家の様式を位置づけている。
巨大都市・東京は新たなオリンピック開催に名乗りを上げ、リニア中央新幹線の計画も進めている。その中で、僅かに残る民家も壊される運命にあるが、それが吉本隆明という語り部を失った今、本当に消滅したと言えるのかも知れない。

    
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『スイミー』としての橋下徹(3)~状況型リーダーシップの登場~

2012年03月05日 | 政治理論
この2回、過去のスイミー論を振り返った。
4年前の改革知事集団「せんたく」も、2年半前の「首長連合」も、複数人もの一国一城の主が集まっては無理があったのだ。

結局、橋下氏が大阪都構想をまとめ、大阪維新の会を立上げて『スイミー』が誕生した。このモデルのポイントは「同じ領域に集まり、同じ方向を目指し、同時に行動する」こと、“集合・指向・同時”と指摘したことを振り返れば、この“統合力”が、小さい集団であっても大きな効果を発揮し、停滞した感のある政治状況に風穴を開けたことになる。

橋下氏が他の首長(経験者)と異なるのは、自治体のみならず、国の機構も改革すべきことを積極的に発言し、行動していることだ。これまでは、地方分権、国への批判を主張しても、現状の制度的安定を前提に代表的リーダーシップとして国へ要望するスタイルから脱していなかった。これに対し、橋下氏のスタイルは現状打破を目指す状況型リーダーシップになる(「現代政治学入門」(有斐閣)P76)。

状況型リーダーの持つ基本的な政治イメージは「動乱」である。制度が不安定化し、社会的な不安、不満が高まるなかで登場するのであるから、流動的な政治状況に主体的に対応する柔軟な構えが必要である。

当然、手段を最終的な政治目的に従属させるから、革命のリーダーシップと似てくる。明確な敵づくりと激しい言葉による攻撃などである。また、法体系の枠組のなかで、統治機構の変革を革命ならざる維新として進めることから、そのシステムに対して目一杯の解釈をして自らに優位な戦略を冷徹に遂行する。

これらのことは、従来の地方自治体政治家のスタイルに慣れた人には奇異に映り、批判を生むことにもなる。しかし、これは橋下氏の状況認識とアプローチの枠組が従来の方法と異なることを意味しているに過ぎない。

状況型リーダーは創造型と投機型に分かれる。橋下氏はビジョンを持ち、ヒットラーのような投機型とは対極的な創造型である。とは言っても、創造型と投機型はメダルの表裏のような関係にもある。政治学と精神分析学の素養があれば容易に理解できるであろう。

小説「ジキル博士とハイド氏」に描かれるように、揺れ動く状況のなかで判断を迫られる現実の人間としてのリーダーには、両方の型が共存しているであろう。どちらと決めつけるわけにはいかず、問題はその“両義性”を処理する仕方にかかる。

従って、ハシズム論争は仕掛ける方も、受ける本人にも実りはなく、マスメディアも含めて不毛の増幅による疲労だけが残る。政治学者・山口二郎氏と精神科医・香山リカ氏が一緒になっても、橋下氏に対する冷静な理解ができなかった。イデオロギーが先行したのか、自らの学問分野だけに関心が向いているのか…両方のように見えるのだが。

ともあれ、橋下氏と大阪維新の会は、大阪の政治的権力を掌握した。大阪都構想の実現は必達であり、また、真の成果は成長戦略も含めた経済政策に尽きるが、一朝一夕にいくとは思われず、行き詰まりも有り得る。更に、橋下氏は国政への参加を表明し、憲法問題も含めて政策も公表、世論調査においても全国的に期待が高まっている。

これら政治課題の全体像を考えれば、前例のない状況に今後も遭遇することが予測される。このとき、創造性を働かせ、投機性向を抑止することが必要だ。この視点から、次の点を指摘しておきたい。

1)急速に膨張する集団には政治的オポチュニストも存在する。従って、その発露を抑えることが必要になる。小泉・小沢両チルドレン、減税日本の例もある。「市職員からの維新市議団への苦言」との報道も一例かもしれない。

2)討論を越えた過剰な言語による攻撃は、橋下氏にとって計算済であろうが、そのやりとりを情報として受けとる不特定多数の有権者に対し、ネガティブな攻撃性を助長することが想像できる。これが1)にフィードバックされると悪循環になる。

最後に、大きな機構改革を目指すことに伴い、そのプロセスとして、政治学者・京極純一氏、永井陽之助氏の言う“機構信仰” (『平和の代償』(中央公論社)P176))を抑え、将来を構想する議論を起動させられるのか、注目したい。

ここで、機構信仰とは、憲法あるいは基本法体系を国家機構の規定に止まらず、個人の内心の基準とすることである。冷泉彰彦氏が「from 911/USAレポート2/12号」において、国旗へ礼をすることなどを批判している。筆者は機構信仰の形式化した表現かと考えているが、政治のトップが公式の仕事の一環としてやることに、ある種の不気味さも感じている。

顧みれば、小泉改革、民主党旋風、そして橋下氏への期待と、私たち有権者は、政治的判断を揺れ動かしてきた。判断を固定させず、都度、浮動させることは必要だ。しかし、進化と安定を両立させた政治を可能にするには、私たちは自ら情報を検証し、考え、選択する“主体的浮動層”として政治的に成熟していくことが、更に大切であろう。



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