散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「Gの世界」と「Lの世界」~産業・仕事・教育のパラダイムシフト

2014年10月25日 | 教育
「まち・ひと・しごと創生会議」における冨山和彦氏のプレゼン「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性」が注目されている。Gはグローバル、Lはローカルで、既に「日経グローカル」という雑誌がある位だ。

上記の「会議」は、人口急減・超高齢化という我が国が直面する大きな課題に対し政府一体となって取り組み、各地域がそれぞれの特徴を活かした自律的で持続的な社会を創生できるよう提言する9/3に設置された本部直下の諮問機関だ。魅力あふれる地方を創生し、地方への人の流れをつくることを謳っている。

冨山氏によれば、下記の如く、グローバル化の中で、経済圏としてローカルな世界も存在し、それはグローバル経済圏と異なる経済圏を構成している。日本の製造業や情報産業などのG型産業はグローバル化する。従って、雇用を支えるのはL型産業、流通・外食・介護等だ。


 
当然、産業構造の変化に応じて雇用、教育も変化が必須になる。雇用は長期的にG型が漸減傾向であるのに対し、L型は増加傾向・労働力不足が深刻化する。L型の労働力不足を解消するためには、「労働生産性≒賃金」の持続的上昇が必須となる。しかし、日本の生産性は、欧米諸国と比較しても低水準なのだ。

L型の世界の生産性を向上させるためには、L型大学における「職業訓練の展開」が必要となる。職業訓練の高度化を専門学校、専修学校の看板の架け替えに矮小化すべきではない!ごく一部のTop Tier校・学部以外はL型大学と位置づけ、職業訓練校化する議論も射程に入れることは必須なのだ。

L型大学には、従来の文系学部はほとんど不要で、辞めるか、職業訓練教員としての訓練、再教育を受ける。理系でもG型世界で通用しない教授も同様だ。
英文学の先生は全員、TOEICの点数獲得教育能力、
経営学の先生は簿記会計2級合格弥生会計ソフトで財務三表を作る訓練能力、
法学部の先生は宅建合格やビジネス法務合格の受験指導能力、
工学部の先生はトップメーカーで最新鋭の工作機械の使い方を勉強する。

L型大学(含む専修・専門学校)では、「学問」よりも、「実践力」を。
L型大学で学ぶべき内容(例)
英文学部 シェイクスピア、文学概論ではなく、
     観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力
経済・経営学部 マイケルポーター、戦略論ではなく、
        簿記・会計、弥生会計ソフトの 使い方
法学部 憲法、刑法ではなく、
    道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得
工学部 機械力学、流体力学ではなく、
    TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方

具体的な点については議論があるだろうが、大筋は、冨山氏を文部科学大臣にすべきだと言いたい内容だ。
それにしても、永井陽之助が「柔構造社会における学生の反逆」(1968)における『情報革命と大学教育』で議論した中間指導者を養成する部分を極めて中途半端にし、膨大に膨れあがった文系の一般大学生を単に遊ばせておくことによって、教養のもなく、実践知識もない大量の卒業生を世の中に送り出したツケが回っている様に見える。

これは地方創生という無茶苦茶な日本語で表現されている政策ではなく、日本の将来に向けて、第1に取り組むべき最重要の課題なのだ。

      
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道徳の授業は万人に必要か~「心」へ還元・閉鎖される短絡反応

2013年11月28日 | 教育
文科省の「道徳教育の充実に関する懇談会」の報告骨子案は『道徳教育は、万人に必須、教育活動の根本に据えるべき、諸外国の教育でも大切にされている。』しかし、『道徳教育は機能していないとの指摘もある』と述べる。

だれでも必要なことは、睡眠・食事・排泄に始まって個人・家庭・社会で身につけるものであるが、学校の授業として特別に身につけるのはどんなものだろうか。俗に「読み書きソロバン」と言われていることがそれに相当するだろう。では、「道徳」もその範疇だろうか?

上記の骨子案には「道徳教育は万人に必須」と述べていた。しかし、仮にそうだとしても、学校での「道徳の授業」が必要であると言えるわけでもない。「教育=学校の授業」ではないのだ。その点、骨子案は最初から教育を学校の授業にすり替えて議論している。文科省の懇談会であるから官僚主導であることは間違いないが。

文科省が道徳教育にしゃしゃり出る理由として、諸外国には宗教教育が広く道徳教育を担っているが、日本はそれがなく、学校教育が代替しているとの説だ。例えば、「トムソーヤの冒険」で教会の日曜学校へ行く場面を想い出した。

しかし、そこでは近くの人たちが集まって祈りを捧げるのであって、牧師さんの説教の一つもあるかもしれないが、学校の授業が代替機能を果たすのか、いささか疑問ではあるのだ。

宗教は個人と神、あるいは信者による集団での一体感、また、キリスト教の教会の様に、音楽、建築、絵画を含めて全体の醸し出す雰囲気のなかでの宗教感覚、これらのものが基盤にあり、それが生活基盤の一部をなして、その教義の中に道徳的なるものが含まれる。

これが無味乾燥な学校の授業で代替できるかというと疑問とならざるを得ない。翻って考えると『(学校での授業としての)道徳教育は機能していない』とも言われて、課題として『道徳の時間に何を学んだのかが印象に残るものになっていない』とも報告していることを、今更、どうしようとするのだ。

骨子案では「心のノート」を全面改訂する案が提起されており、用意の良いことに文科省の官僚はその案も一例として資料配付する準備の良さだ。中味を見たが、特に論評もない。それは「心」という言葉に象徴されているからだ。

「道徳=心の問題」であり、個人・家族・社会の問題がすべて「心」に還元され、そこで周囲から閉鎖されるのだ。戦前の「修身」はそれでも「身」という実体があった。それは「自身を修める」ことを意味する。個々の人間に戻る。

しかし、「心」には個の実体が感じられない。「心を一つにして」ということは、閉鎖的な集団の中にいる人々がすべて溶け合い、個々の区別ができない状態になることだ。それは空気(山本七平)が支配する状態とも言える。「心のノート」を聖書のように読ませようというのが、文科官僚、それを取り巻く有識者、保守右派の政治家たちの狙いなのだ。

価値の多様化が進む現在、「心を一つにする」道徳教育は時代錯誤との指摘をする人も多い。しかし、それは道徳教育を推進しようとする人たちにとっては逆なのだ。価値が多様化するが故に、自らの存在基盤を犯されると感じているのだ。

しかし、問題は自らの価値を説得によって広めようとするのではなく、「万人に必須」として公権力を用い、学校の授業で教え込もうとする姿勢だ。この方法は短絡した近道反応と言うべきことであって、より良い社会を形成するアプローチとしては間違っているのだ。時間は掛かるが、説得と納得が必須だ。

      
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