散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

戦後日本政治における顕教と密教

2011年09月23日 | 政治理論
永井陽之助氏は表題に掲げた“顕教と密教”という政治思想を久野収氏、鶴見俊輔氏『現代日本の政治思想』(岩波新書)から引き継ぎ、戦後政治体制における憲法の二重構造を『平和の代償』(中央公論社 1967年)で展開している。

経済学者・池田信夫氏は2011年09月23日付けのブログ「朱子学と日本軍と反原発派」において興味深い指摘をしている。
日本の政治体制は、もともと「現人神」がその権力を官僚に委任していると考えると、むしろ官僚が政治家であり、国会議員はそれにたかる大衆の代表にすぎない。

そこで、儒教の影響がいまだに強い理由を、山本七平氏が『現人神の創作者たち〈上〉』 (ちくま文庫) において一つの答を出している、と述べている。

山本氏の解釈は卓抜という他はない。
一方、永井氏は山本氏とアプローチは異なるが、問題意識に共通する処が感じられる。

思い出すと、永井氏が40年ほど前の授業において、『最近面白かった本はイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」』と言い、それにつられて筆者はそれを読み、その後も山本氏の著作に親しんでいる。
また、『ベンダサン氏は山本氏だ』と、授業ではなかったが、どこかで言われて、そうなのかと驚いたこと、『山本氏は戦後が生んだ天才』との言葉も記憶している。

さて、永井氏は、
『平和の代償』の最後の第三論文「国家目標としての安全と独立」の冒頭部分(P141)、「戦争と平和の問題についての戦後正教に内在する固定観念を分析し…」と論文の主要部分を紹介する。戦後正教とは“平和と民主主義”イデオロギーである。

続く「Ⅰ核時代における安全と独立」において、「安全」と「独立」のディレンマを指摘し、
革新は「独立=非武装中立」を欲しながら「安全=平和」に、保守は「安全=日米安保」を選択しながら「独立=民族威信」に問題をすり替えていると主張する。

そこから“憲法9条の精神構造”に入るのだが、既に『「米国の戦争観」と「正義の戦争」』で紹介している。
ここでは、その次の“新憲法の二重構造”が主題になる。

『現代日本の政治思想』では、明治日本の国家が顕教と密教の二様に解釈され、そのバランスの上に成り立っていたとする。
顕教とは通俗的な大衆向けの象徴体系であり、「天皇=現人神」になる。一方、密教とは内部エリート向けの象徴体系であり、「天皇機関説」になる。

永井氏は「天皇=現人神/機関」を二重構造と呼び、新憲法にも二重構造が存在することを新たに主張する。すなわち、一国の政治意識や精神構造は一夜でかわらないからである。
密教は吉田茂に代表されるサボタージュ平和論、憲法第9条を盾に経済復興を図ることであり、
顕教は非武装中立に代表される「戦争体験に根ざした」平和ムードである。

ここで、池田氏、山本氏の議論にミートする。
戦後、儒教的秩序の「本流」である霞ヶ関はほぼ無傷で残り、天皇機関説に近く、現実主義だ。
これに対して「非武装中立」などの理想主義を掲げたのが、社会党などの「革新勢力」だった。

戻って、この二重構造のアナロジーは当然、政治体制にも顕れる。
戦前の天皇制は、正統性の源泉である天皇を非政治的に価値づけた結果、政治は派閥抗争の政界に限定され、権力中枢に近づくほど、非政治的とみられた。

この伝統は、統治原理を「天皇」から「議会主義」へ転換した今日でも、まだ消えない。与党、官僚に近接するほど、政治的に中立であり、党利党略から離れることになる。ここでも政治は政局に限定され、政策決定は価値中立的に官僚が決めるという政治スタイルが通用する。

従って、池田氏の言うように、日本の政治体制では、以下の構図になりがちである。
 官僚(=権力)→政治家、大衆代表→国会議員
 国会議員→官僚(実際の価値配分)

その源泉は、権力=価値中立(その執行機関が官僚) 政治=党利党略 の考え方である。
 
また、地方自治体においては、次の構造になるのではないか。
権力=首長(直接選挙)=価値中立(その執行機関が役所)
議会=政治(党利党略としてのオール与党化)=水面下での価値配分機関

    以上
   
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『ゲームの規則』~ジャン・ルノアールにおける恋愛と政治

2011年09月14日 | 政治理論
世界の映画人による投票(イギリスの映画雑誌「サイト&サウンド」)で、世界映画ベストテンの第2位に選ばれた映画『ゲームの規則』。監督、脚本のジャン・ルノアールが主演もしている。1939年の作品。

リンドバーグの大西洋空路横断を借りた挿話、そこで熱狂する市民による飛行場での出迎え、インタヴューに駆けつけるラジオのアナウンサー、から始まる場面は、現代的な社会状況の本質を描写しているとも受け取れ、ルノアールの眼の確かさを示している。

美しい妻と愛人との三角関係を生きる侯爵、その妻を恋する横断した飛行士、侯爵と飛行士の両方の友人である<ジャン・ルノアール>が絡む恋愛関係、そのなかでの誘惑・脅迫・贈与・辞退の交渉術、広大な別荘での暴力の代替的発露としての狩猟、仮装パーティの饗宴。ブルジョア社会の偽善的断面をも見事に描写している。

この饗宴の世界が偽善的に見えることを、逆に言えば、人間の始原的世界に潜む「セックスと暴力」に対して、「恋愛と政治」というわざを提示していたことを意味する。それがブルジョワジーの文化であったのだ。

これが、大衆社会の到来と共に、偽悪的な露出の演出に代わっているように見える。

『心変わりは罪ですか、恋には羽があるものを」(『フィガロの結婚』ポーマルシェ)を冒頭に掲げ、めまぐるしく変わる恋愛感情を、その場に応じた身振りと言葉の自己表現へと自在に変換させる演出は見事という他はない。

お互いがお互いの意図を知りながら、更に他人を説得する政治的交渉術が男女の会話に含まれていることは言うまでもない。
しかし、その感情を維持するには、暴力のはけ口が必要であることを「狩猟の野」の場面で示唆すると共に、侯爵と飛行士との殴り合いと決闘の申込みに表現している。

更に、侯爵の妻の小間使いの夫である密猟監視人の存在である。密猟人が言い寄ると、ライバルとして自己表現ができず“絶対の敵”としてピストルで実弾を発射しながら密猟人を追い回す。最後は誤って飛行士を猟銃で射殺してしまう。

ここに、大衆の登場によって説得的自己表現ができず、もちろん、交渉術もなく、非合理的心理から暴力の世界へ突入する時代を描写しているのかもしれない。

        
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大山鳴動してドジョウ一匹

2011年09月03日 | 国内政治
民主党の大勝による政権交代が第一の大山鳴動であった。その前に、小泉政権の終焉が“予震”としてあったことは言うまでもない。これが基本的な構図である。

自民党のたらい回し政権が、小泉政権の規制緩和路線から格差是正路線へ軸足を移しつつあるとき、その姿勢に曖昧さを感じたに違いない。小泉流の明確な意思表示が見られなかった処による。このとき、私たちの中の自民党は烏合の衆の集まりに変じていた。

それが民主党の「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズに気持ちが流れていく基盤であった。しかし、沖縄問題に対する鳩山政権の「軽く、無責任な言動」と思わせる発言と行動が一気に民主党のメッキを剥がす契機となった。ここで鳩山ー小沢政権の失墜は決まった。

管直人政権は鳩山政権の継続として現れた。これは、菅直人氏に対する市民運動感覚に期待が集まって成立した。このことは、引き続く代表選挙での菅対小沢の党員票と国会議員票との大きな落差に現れている。

しかし、東日本大震災は、まさに大山鳴動であって、菅直人の市民運動感覚の限界をさらけ出させた。狭い経験から抜け出すことができず、トップリーダーとしての資質を磨いていない政治家が、津波・原発事故の国家的な緊急事態に対応できるわけがない。

民主党政権はネズミ一匹でてこないっまに、支持率が地に落ちた段階へ突入した。ここで、やっとドジョウが一匹、泥の中から顔を出したところである。

小沢氏主導のマニフェストがバラマキであることは、うすうす気が付きながらも、マスメディアによる「風」作りに押されて、私たちは淡い期待で民主党に投票してみた。圧倒的に多くの国民が“客体的浮動層”であったため、どうしたことか、民主党が圧勝してしまった。

民主党も国民も慌てて「事業仕分け」に飛びついたが、1億円にも満たない上がりで、あえなくバラマキは破産した。しかし、必ずしも日々の生活に響くわけではないから、問題を先送りし、マスメディア、野党、その取巻きを中心にした当事者への悪口に乗っていれば、私たちは自らの判断ミスを政治家の所為に転換して、責任回避できたのである。

ここで重大な問題は自民党・谷垣執行部も何ということはなしに、野党気分に浸って継続してきたことである。野党が仕掛けない限り、与党の落第点水準は下がるばかりであることはこれまでの自民党長期政権が証明済だからである。

管直人首相への不信任案を出した自民党・谷垣執行部は、完全に野党気分であった。

更に、民主党に新たに出現した“客体的議員層”の反応を決定的に見誤った。不信任案が否決されたとしても民主党・小沢派の造反がある程度あれば、菅直人内閣は瀕死の状態になると読んだ。しかし、小沢氏に追随するだけで、ゴキブリ数匹が這いずり回る程度に終わった。

菅直人首相は信任され息を吹き返した。

思惑が外れた谷垣執行部こそが全員辞任し、若手を起用して新たな自民党を民主党に先駆けて構築すべきであった。しかし、党内からも追及する声が出ず、河野太郎氏もパフォーマンスに気をとられ、その投票時に造反してしまった。ここぞと執行部に抑え込まれたのは当然であった。自民党執行部が責任を追及されずに、生き延びたことによって、自民党の行動の自由が著しく削がれた状態に放置されたままになっている。

これが野田政権の成立時の反応にも現れている。公明党は新政権に対して協力もあり得る姿勢を出すだけの余裕があるのに対し、自民党の硬直した姿勢は新たな政策も打ち出せずにいる。

一方、菅直人首相は、若手に道を譲るとして辞任を表明した。補正予算の成立を機に辞任を実行すれば、その後の主導権を握り、影響力を残すことも出来たかもしれない。しかし、市民運動家は実態としての対抗力しか知らず、政治的権威、中曽根氏は年をとるほどに元老的存在に格上げされている、が力の源泉になることを学んでいなかったため、徒に延命を図ったとしか周囲に受け取られなかった。

もともと、菅直人氏は小沢・鳩山両氏を道連れにしようと考え、世にいう増税路線を武器に自公との連携も図ったが、相手にされず、再度、四国へ旅立つことだけが残されているかのようである。

ここに権力の真空が生まれる。民主党、自民党共に権力の中枢を担う人間がいなくなった状態で、民主党代表が決まることになったのだ。

ここまできて、出てきたのが、ドジョウ一匹である。国民もこれを支持する以外に選択の余地がないことを悟ったはずである。ここで野田氏を突き放してしまえば、安倍ー福田ー麻生の自民党終末内閣の再現である。鳩山ー菅ー野田…。

 おそらく、私たちは政治に対する幻想的期待に飽きてきたと感じているのではないか。この間、アメリカ、EUでの巨大債務に起因する経済危機と受け取れる事件が発生している。これも起こるたびに、その地域特有な、1回限りの現象ではなく、先進国に共通した構造的課題であることを知らされつつある。

その効果も含め、震災復興予算も含めて増税路線に対する“アキラメ”が浸透してきた段階に入った!その時に、野田政権が新たに誕生したのだ!
これが、小泉政権終焉後に支配的であった空気からの変り目を象徴的に示している。

 これからは、
少しずつ民主党が国民の支持を回復する過程に入るのではないか。自ら没落の種をまかない限りでは。
一方、自民党は浮上のきっかけを掴めず、おそらく、ねじれ現象の代償を支払うようになるだろう。公明党の存在感が増大すると共にである。
みんなの党もメッキが剥がれつつある。おそらく、声高な主張は「まだ、同じことを言ってんの」と受け取られるに違いない。   

      
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