筆者は『竹島・韓国との共同管理構想』を評して「橋下会長はいつから憲法第9条を上回る空想的平和主義者になったのか?」(@GHyoshii 9/24)とつぶやいた。更にいささか皮肉を込めて「竹島の韓国との共同管理構想は政治家としてライフワークの仕事になるだろう。」とも付け加えたが。
国際法とそれに基づく世界政府の樹立という空想ではなくても、両国の同意を支える国際的監視機構も必須であり、特使として世界を駈け巡る位のことは想定すべきで、大阪市長では出来ないはずだからだ。構想を政治家が出し、あとは官僚の仕事だ、という類いでは全くない。同じように、池田信夫氏が「軍事・外交では超ハト派に変身して驚いた」と書いている。
引用された9/28付けtwitterも読んだ覚えがあったのだが、筆者が注目したのは「法の支配という理想を抱きつつ、現実を直視する」という言葉だ。
やっぱり!筆者の感想だ。後述するが、内から行動規範を醸成する“制度型”よりも法律・組織を上から固める“機構型”のリーダーシップが橋下氏の特徴だ。筆者は“制度型”への転換を提案したが、現実の大阪はどうだろうか。
また、現実直視の具体的対応は「日本に必要な防衛力をしっかりと考える」「海防力強化が喫緊の課題」「集団的自衛権の行使も必要」「日米安保の強化も必要」だ。しかし、世界共通の理想へ向かって進む国が何の理由で上記の施策を必要とするのか?論理的に出てこない。即ち、防衛力、海防力、集団的自衛権、日米安保というが、すべては「力」であり「攻守」の区別などはない。自国にとって「守」を強化することは、他国からみれば「攻」の強化にしか見えない。
この現実直視論は自らのことだけを考える単独主義であり、対立する国も同じ考え方をすれば、果てしない軍拡競争の渦に互いに巻き込まれる。だが、「国際司法裁判所で法と正義に基づいて解決しようと言う姿勢は、国際社会で絶対に支持」「中国や韓国が嫌がっているのであれば、国際社会に強く訴えるべき」と氏は主張する。これについては、法(機構)の支配を説明した後、再考しよう。
国際政治における秩序観を機構型、制度型、状況型の三類型に整理して永井陽之助氏は説明した(「平和の代償」P6中央公論社)。機構型を『調和ある市民的秩序を、国際関係へ、直接、投射したアメリカ自由主義、法律万能の道議主義的アプローチ』『わが新憲法第9条の精神はこの最もラディカルな表現にほかならない』と指摘した。しかし、先の語録にあるように、永井氏は『憲法9条の規定は…「真理」でも「理想」でもなく…軍備コントロールを阻害する』とも喝破した。
弁護士としての経験を自己の政治活動に投射させている橋下氏の発想は、将に法律万能の機構型秩序観である。従って、「憲法第9条」と一致する部分が内面的にあるとしても不思議ではない。池田氏の超ハト派との指摘が的確である所以だ。しかし、超ハト派がひとたび、現実を直視すると、たちどころに軍拡競争に走る可能性が大きいのだ。当然、相手を邪悪なる存在として考える。これに国民感情が作用すれば、歯止めがきかない有り様になることも容易に予測できる。
永井氏は『村落者の平和哲学』と呼んで、禁酒法などの草の根に基盤をおくポピュリスト的な道徳哲学が「憲法第9条」の戦争放棄の哲学と思想的・イデオロギー系譜を同じくしていると指摘した。更に、『日本人の平和観が、等しく「自然村」秩序観の投射である点におもいをいたすならば、米国の「村落者の哲学」と内面で一致する理由も無理なく理解されるのだ。』と結ぶ。
ここまでくると、橋下氏において、先の単独主義的現実直視論は機構型秩序観と深く結びついていることが理解されよう。
ここから池田氏は、日本の過去に触れた橋下氏の論理を「日本教」と批判した。
しかし、9/28付け twitterを読むと、善悪二元論的に分け、悪を反省する態度であり、主張というよりは、説得的な記述と読み取れる。但し、反省すれば、相手が理解するとは書いていない。一方で、そう受け取られてもおかしくはない文章だ。それが自ずと日本教の考え方で展開されているとすれば、面白いことだ。
一つは、橋下氏が政治家として、読者層向けの論理として使った論法が、知らずのうちに日本教にはまったのかもしれない。あるいは、国際政治について素人である人間が、突然、大所高所から、既存政党を批判しつつ、自らの見解を急拵えする必要にかられ、これまで蓄積された固定観念が自然に出たのかも知れない。
それなら、今後も起こりうること、拡大された維新の会なら尚更だ。何故なら、「常識ある人間なら誰だって知っているとは言えない問題に関して自分の考えを述べずには、政治をすることはできない」(ポール・ヴァレリー)。
国際法とそれに基づく世界政府の樹立という空想ではなくても、両国の同意を支える国際的監視機構も必須であり、特使として世界を駈け巡る位のことは想定すべきで、大阪市長では出来ないはずだからだ。構想を政治家が出し、あとは官僚の仕事だ、という類いでは全くない。同じように、池田信夫氏が「軍事・外交では超ハト派に変身して驚いた」と書いている。
引用された9/28付けtwitterも読んだ覚えがあったのだが、筆者が注目したのは「法の支配という理想を抱きつつ、現実を直視する」という言葉だ。
やっぱり!筆者の感想だ。後述するが、内から行動規範を醸成する“制度型”よりも法律・組織を上から固める“機構型”のリーダーシップが橋下氏の特徴だ。筆者は“制度型”への転換を提案したが、現実の大阪はどうだろうか。
また、現実直視の具体的対応は「日本に必要な防衛力をしっかりと考える」「海防力強化が喫緊の課題」「集団的自衛権の行使も必要」「日米安保の強化も必要」だ。しかし、世界共通の理想へ向かって進む国が何の理由で上記の施策を必要とするのか?論理的に出てこない。即ち、防衛力、海防力、集団的自衛権、日米安保というが、すべては「力」であり「攻守」の区別などはない。自国にとって「守」を強化することは、他国からみれば「攻」の強化にしか見えない。
この現実直視論は自らのことだけを考える単独主義であり、対立する国も同じ考え方をすれば、果てしない軍拡競争の渦に互いに巻き込まれる。だが、「国際司法裁判所で法と正義に基づいて解決しようと言う姿勢は、国際社会で絶対に支持」「中国や韓国が嫌がっているのであれば、国際社会に強く訴えるべき」と氏は主張する。これについては、法(機構)の支配を説明した後、再考しよう。
国際政治における秩序観を機構型、制度型、状況型の三類型に整理して永井陽之助氏は説明した(「平和の代償」P6中央公論社)。機構型を『調和ある市民的秩序を、国際関係へ、直接、投射したアメリカ自由主義、法律万能の道議主義的アプローチ』『わが新憲法第9条の精神はこの最もラディカルな表現にほかならない』と指摘した。しかし、先の語録にあるように、永井氏は『憲法9条の規定は…「真理」でも「理想」でもなく…軍備コントロールを阻害する』とも喝破した。
弁護士としての経験を自己の政治活動に投射させている橋下氏の発想は、将に法律万能の機構型秩序観である。従って、「憲法第9条」と一致する部分が内面的にあるとしても不思議ではない。池田氏の超ハト派との指摘が的確である所以だ。しかし、超ハト派がひとたび、現実を直視すると、たちどころに軍拡競争に走る可能性が大きいのだ。当然、相手を邪悪なる存在として考える。これに国民感情が作用すれば、歯止めがきかない有り様になることも容易に予測できる。
永井氏は『村落者の平和哲学』と呼んで、禁酒法などの草の根に基盤をおくポピュリスト的な道徳哲学が「憲法第9条」の戦争放棄の哲学と思想的・イデオロギー系譜を同じくしていると指摘した。更に、『日本人の平和観が、等しく「自然村」秩序観の投射である点におもいをいたすならば、米国の「村落者の哲学」と内面で一致する理由も無理なく理解されるのだ。』と結ぶ。
ここまでくると、橋下氏において、先の単独主義的現実直視論は機構型秩序観と深く結びついていることが理解されよう。
ここから池田氏は、日本の過去に触れた橋下氏の論理を「日本教」と批判した。
しかし、9/28付け twitterを読むと、善悪二元論的に分け、悪を反省する態度であり、主張というよりは、説得的な記述と読み取れる。但し、反省すれば、相手が理解するとは書いていない。一方で、そう受け取られてもおかしくはない文章だ。それが自ずと日本教の考え方で展開されているとすれば、面白いことだ。
一つは、橋下氏が政治家として、読者層向けの論理として使った論法が、知らずのうちに日本教にはまったのかもしれない。あるいは、国際政治について素人である人間が、突然、大所高所から、既存政党を批判しつつ、自らの見解を急拵えする必要にかられ、これまで蓄積された固定観念が自然に出たのかも知れない。
それなら、今後も起こりうること、拡大された維新の会なら尚更だ。何故なら、「常識ある人間なら誰だって知っているとは言えない問題に関して自分の考えを述べずには、政治をすることはできない」(ポール・ヴァレリー)。