散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

形骸化した決議による意思表示~橋下氏の慰安婦発言を本当に考えた?

2013年08月30日 | 政治
地方自治体議会は、意見書・決議という方法で意思表示を行うことが出来る。意見書は主として国の政策に関する意見を述べるときに使われる。しかし、その書類は霞ヶ関の官庁の机の上に、重ねられているだけだ、との噂もある。

「橋下氏の慰安婦発言、30地方議会が抗議 海外でも決議」との報道(13/06/29)を読んで、直ちに頭に浮かんだことは、この連中は本当に慰安婦問題を調査し、自らの頭で考えたのか、との疑問だ。
 
おそらく大多数はマスメディア報道に接しただけだと推察する。朝日新聞はその内容と共にその30地方議会の議員が何を考えたのか、調べてみた方が良い。地方議会とそれを構成する議員の実態が少しは判るだろう。

大阪市財政総務委員会の質疑で市の調査結果が示された。議会事務局によれば、沖縄県議会や東京都国立市議会、京都市議会、堺市議会、北九州市議会など30の地方議会が橋下氏の発言に対し抗議や非難の決議をした。一方、市に寄せられた意見は、1カ月間で計9千件。批判的な内容が大半だった。

また、米サンフランシスコ市の市議会も今月18日、議員11人の全会一致で発言を非難する決議をしたという。決議は橋下氏について「日本が戦時中に国家権力の意思に基づいて女性や少女を誘拐し人身売買したことを否定した」などと批判している、とも記事には書かれている。

橋下氏は「強制連行の証拠はない」と強調しており、「サンフランシスコ市議会の決議に列挙している事実は受け入れ難い。事実と異なるところはしっかりと異議を出さなければならない」と主張した。当然であろう。

問題は地方議会が決議という集団的行為でしか発言できていないということだ。議員であり、議会として決議しなければならないほどの問題に対して、個人として堂々と橋下氏に論戦を挑む人間はひとりもいないようだ。

これこそが今回の事案で橋下氏が批判した最も大切な論点のはずだ。閉鎖的な議会というタコツボの中で集団に埋もれて存在している議員達の姿を単に象徴しているだけのことだと、批判する眼をもつ記者はいないのだろうか。

      
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日本政治における「聖」なるもの~終戦「聖断」からTTP「聖域」へ

2013年08月29日 | 政治理論
「終戦の日」を決めたのは一般国民(サイレントマジョリティ)の黙示的反応が基盤にあった。しかし、それは天皇の「聖断」という決断と「玉音放送」という情報経路があったからだ、と考えた。
 『敗戦の日と終戦の日の違い~権力から社会への「情報」の循環20130820』
 
即ち、敗戦の受入を天皇による終戦の聖断という形をとった。敗戦は日本の問題である。一方、終戦とは世界全体の問題である。日本の統治者ではなく、その上位にいる天(伝統)の判断とせざるを得なかった。ここにおいて、明治維新での薩長政権によって復興した“天皇制政治”は崩壊した。

それを更に復興したのが戦後の日本国憲法による“象徴天皇制”である。それは天皇の活動を、1)非政治的2)社会的見守り3)自然探求の領域に限定したからだ。皇居という場は日本の中心における広大な敷地であるが、象徴的な意味で非日常の存在から日常の場へと転換した。

なお、昭和天皇の聖断を調べると、1945年8月ポツダム宣言受諾は、その受諾を巡って御前会議が紛糾した際に、天皇自ら受諾の決断を下したとされる。「聖断」といえばほとんどこの例を指す。一方、二・二六事件では昭和天皇は反乱将校に激怒、徹底した武力鎮圧を命じた。天皇自ら近衛師団を率いて鎮圧すると述べた。
 
しかし、これは権力機構内部の出来事であり、「天皇―国民」の情報経路が働いたわけではない。したがって、「天」の判断との形ではなく、統治者としての個人的な行為と考えて良い。天皇の発言を即聖断とするのは問題の性格を曖昧にすると考える。

最近のTPP交渉参加は、「聖域無き関税撤廃はない(関税に聖域はある)」との米国・オバマ大統領の回答で決めている。交渉であるから、決めるのは参加各国の意思であって、それ以外のものではない。

この「二重否定」の回りくどさは、“聖域=誰も手を付けられない”との表現によって主体を消し去り、自らの判断を他者の発言に押しつける処にその特徴が有る。現代においても日本の政治では「聖」なるものは生きているのだ。

 
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最低投票率が話題の横浜市長選~争点・論点・課題は無いのか?

2013年08月26日 | 地方自治
日頃、身近な問題に関心があれば、基礎自治体の首長選挙は衆院選挙戦よりも白熱するはずだ。しかし、基礎自治体と言うには余りにも図体がデカイ横浜市にとっては、住民にとって何が市特有の政治的問題なのか、判らないらしい。

前回の市長選は、衆院選挙と同じ日に行われた。民主党政権誕生選挙である。今回の投票率は、前回(68.7%)を大幅に下回る(29.0%)結果となり、過去最低を記録した。前回の選挙が国政選挙にオンブされ、投票率が上がったのだ。

これで自治体なのか?特別自治市として県から独立した大都市になるべき数字か?役所の役人が自らの権限を増やすのでは無く、住民自治を展開していく、その基礎となる数値か?即ち、住民総体は何を意思表示したのか?

有権者数は296万人、林市長の得票数は69万票、全体の僅か23%だ。一方、投票数の比率は82%に上り、圧勝と表現される。この比率の落差を整合性が取れるように解釈すれば、圧倒的な無関心の中で市政の継続を支持する人が圧倒的に多いというべきか。

待機児童は、前年度に大幅削減されたことから、多くの市民に周知された。更に今回の選挙前に国が「横浜方式」として全国展開の方針を示し、計算方法の曖昧さを縫ってゼロにできたことから、大いにPR効果があった。

林市長は、小学校での児童支援専任教諭の配置、国際戦略総合特区など三つの特区指定など、4年間の実績をアピールした。更に2期目の施策に骨太なまちづくり戦略、切れ目ない子育て支援、高齢者ケアの拡充などを掲げた。横浜市の予算規模からは幅広い政策は可能であろうから、バラマキの種はいくらでも出せる。

一方、二兆円の借金がある市財政においては、全ての公約の実現は難しく、実際は「選択と集中」が必要で、優先順位を付けていくことになる。これを鮮明にするだけの胆力があるか。政治家の本性が見えるときでもある。

更に、低迷した投票率については「全力で戦ったが結果を受け止めたい。市民の声を聞くこと、私の声がじかに届くような場をつくりたい」と述べた。しかし、大阪市が試みようとする特別区制度などは見向きもしない。両者の自治に対する取組の差が投票率に反映するのか?私たちも良く観察する必要がある。

      
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メキシコ五輪のサッカー銅メダル~45年後の今と比べると

2013年08月25日 | スポーツ
お誂え向きのタイミングでNHKが昨日の午後に放映した。当時、筆者は大学2年生で関東大学リーグの下部組織である京都リーグ第1部のチームに所属していた。日本が銅メダルを取った試合は最後のほうを見た記憶がある。しかし、得点シーンはビデオの再生でしか見ていない。

その大学でのOB戦が8月の上旬に行われ、筆者も最年長の部類でゲームを楽しみ、終了後、前後の学年の方とビールを呑みながら歓談した。その席で、当時の我々のレベルでみると、現在の現役は、年齢を離れても、とてつもなく上手く、どの程度のレベルだろうか?との話題となった。結論的には、現在、東京都リーグ第3部(最下部)のチームが、「日本代表クラス」ではないか、となった。

そんなことがあって、対メキシコ戦を興味深く観戦した。選手は懐かしく、すでに亡くなられた方もいる。布陣は「3-3-4-1」であり、スイーパーを置く。「GK横山/BK片山、鎌田(SW)、小城、山口/HB宮本、森、渡辺/FW松本、釜本、杉山」のメンバー構成である。HBは森がボランチの位置だ。

日本の戦術は中盤の省略、守備陣は森を入れた5名でバイタルエリアではマンツーマンで鎌田はSWとしてカバーに入る。クリアーという言葉が生きていて、競り勝てば大きく蹴り、バックラインでパスを繋ぐ発想はない。両FBの片山、山口の粘着力、競り合った処でのスライディングタックルの深さは見事だ。

メキシコは攻撃でひとりかわしても、二人目は余裕がない。そこまでの戦術・技術までには至っていない。かといって、走り込んでスルーパスを受ける試みにも乏しい。日本の術中に嵌まってボールを奪われるか、こぼれ球になるかだ。

こぼれ球を中盤で競り合うのは渡辺、宮本に加えて両サイドの松本、杉山も入る。渡辺はトップ、ウィングの選手だが、この大会ではHBをこなしている。ボールタッチ、フェイントの巧さで、ボールを支配下に置くことができる。

トップの釜本はポストプレーで味方からのパスを繋ぎ、サイドへ供給する。また、DF陣、HFは長いパスを再度の奥深くフィードする。杉山、松本の両ウィングが突破あるいはかわしてからフィードを中へ入れる。

この作戦はカウンターとしてスペースがある処へパスを出せると有効である。日本の2得点はこのパターンで左サイドの杉山から中央の釜本へとパスが通った結果から生まれている。試合はこの2点で決まったが、前半終了間際に、杉山―釜本とロビングを通して、ヘッドで落とした処をフリーで飛び込んだ宮本が外したのが試合を決め損ねた。

しかし、後半開始早々に取られたPKを横山がセーブしたことによって、逆にメキシコが自ら試合を決めてしまった。その後は疲れもあってか凡戦に終始し、メキシコ観衆が苛立って日本の応援の回る場面もでてきた。

総じて、技術・戦術共に大味で、現代サッカーからすれば、間延びしており、スピード感に乏しく、シュートパス、ロングパスの精度もイマイチだ。次のプレーを予測した動きあるいはボールのトラップ、タイミングを計った細かい動き直し、などは戦術的に取られていない。

そこからすれば、現在の東京都リーグ第3部(最下部)のチームであっても体力が同等であれば充分に対応できるかもしれない。日本サッカーの45年にわたる長期の進歩に改めて感心させられた。

      

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消費税増税の政治学~安倍対野田、どちらが歴史に残るか?

2013年08月24日 | 経済
安部首相が消費税増税の三党合意に慎重な姿勢を見せている。先の参院選挙では、自民、民主、公明、維新が増税を公約に掲げている。また、安倍政権は景気回復の方向性を認め、アベノミクスの効果を宣伝している。

従って、問題なく消費増税は法律にそって粛々と実行されるはずだ。しかし、政治の世界では、そうはいかない。法律は、消費税を従来5%から2014/4/1に8%、2015/10/1に10%とあるが、但し、附則として景気弾力条項もあるのだ。

経済成長率が「名目3%、実質2%程度」という具体的な目標値を定め、「経済状況等を総合的に勘案し、施行の停止を含め所要の措置を講ずる。」としている。この合意に基づいて、6月に衆院可決、8月に参院で可決して、成立した。

しかし、上記の附則を持ち出したのはそれ以外の政治的理由があるからだ。その合意当時は民主党政権・野田首相、自民党は谷垣総裁であったからだ。安倍首相・自民党総裁としては、全く関わっていないのだ。

増税分が福祉目的税として機能し、今後の社会保障費の全体的見直しに繋がり、日本の財政が安定方向へ向かうとすれば、あるいは外国から信認されれば、それは安倍現首相ではなく、野田前首相の功績になるのだ。安部首相は単なる露払いに過ぎないことになる(太刀持ちは山口公明党代表)。

一方、アベノミクスが「所得1.4倍」計画として、今後10年間に一人当たりの名目GDPを150万円増加することに失敗する兆を示したならば、後世に名を残すのは、野田前首相であり、安倍首相は中途半端で埋もれるであろう。
 『線型成長に支配されるアベノミクス~20130606』
 
以上の様に考えれば、安倍首相は自らの判断で消費税増税の判断をしたことにしたいはずだ。そこで有識者50名から意見を聴くという前代未聞の試みを行うことになった。例えば、この会議をベースに何らかの変更・追加措置をすれば、実質的決定は自分だと言えないこともない。

安倍首相のアドバイザーと言われる浜田、本多両氏が増税に懸念を示しているのも、その演出と見れば可愛げがあるとも言えるのだ。しかし、逆に見れば、内心の不安を天下に晒している。どの道、思惑通りには行かないであろう。

      
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日銀の当座預金への単なる積上げ~異次元金融緩和の結果

2013年08月23日 | 経済
異次元金融緩和の際に、日銀から民間銀行を経て民間企業へ資金を回す、そのために日銀はマネタリーベースを増やす。との説明がされていた。それが三本目の矢である成長戦略の設備投資へ回ることが期待されていた。
しかし、最近の報道(2013/8/16)では「金融緩和は銀行融資への波及見えず、預貸率は最低を更新」している。
 
国内銀行の預金に対する貸出金の比率(預貸率)は6月に70.4%と四半期ベースで過去最低を更新した。中小企業の取引先が中心の信用金庫は初めて50%を割った。それでも、企業の現金・預金残高は3月末に過去最高の225兆円に増えた。それでも、マネタリーベースが大きく増えているから、率は最低であっても分母は増え、分子の銀行融資は多少増えているかもしれないが。

企業の設備投資が上向いても、手元資金で設備投資を賄える企業が多く、銀行の貸し出し増には直結しない可能性が大きい。大企業は手元資金が豊富で貸し出しが伸びにくい。成長分野への融資拡大が求められるのだが、企業にとっても簡単には新規参入ともいかないであろう。

齋藤誠・一橋大教授は「民間銀行が政府から買入れた長期国債を日銀は買入れる。民間銀行はそれを日銀当座預金に預け、資金は家計・企業→民間銀行→日銀へと一方通行で流れるだけ」「資金が全体に行き渡り、経済活動を刺激するわけではない」と指摘していた。お札を刷るだけでは政策にならないのだ。
 『黒田バズーカ砲は華麗なる空砲か(4) 2013049』
 
斉藤氏の指摘通りだが、その時、安倍政権のアドバイザーである本多佑三・関大教授は単にデフレ対策の一点張りで論理的な説明はなかった。現在、消費増税の可否の問題で「否」側の急先鋒のようだが、そこでも「景気減衰」の一点張りらしい。

更に、異次元金融緩和は円安・株高を引き出したとはいえ、輸出企業の従業員でもなく、株と無縁の住民の眼からは、将に単なる空砲なのだ。最近は円安の負の効果も見え始め、生活に直結する物品の物価は上昇しているようだ。
即効薬がないことが漸く明らかになってきた。政策の再考の時期にきたのだ。
 『黒田バズーカ砲は華麗なる空砲か(1) 20130424』
       
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ナチズムと大衆社会~民衆生活史の視点

2013年08月22日 | 現代史
歴史と言えばすべて巨視的な視点から位置づけを決めることに馴れている人間にとって、民衆生活史とは過ぎ去った過去を探る民俗学のイメージを持つかも知れない。「三丁目の夕日」を見れば、1950年代は今と違った生活だったと何となく納得する。そこに残るのは郷愁の念だけだ。

「ナチズムと大衆社会」(村瀬興雄(有斐閣)1987)の『はしがき』は朝日新聞の記事(1987/1/5)の引用から始まる。
「近頃の若者たちは…ひとりで自分の好きなことをしたがる、残業をやらない、貴族意識が薄い。…いわゆる新人類に対する職場の中堅層の戸惑いである。」

しかし、これは現代的事象ではなく、ワイマール共和政時代からも報告されナチス時代にも更に増え、経営者、政府当局者を仰天させている。このような「反国家的」な行動に背後関係があるわけではなく、「しらけ気分」がそうさせたのだ。

ナチス体制を全面的に理解するためには、ナチスの犯罪、蛮行を徹底的に暴露するだけでなく、民衆生活史の視点から過去、現在に繋がる事象をその変化、時代・地域の違いを含めて理解することが必要だ。当然ながら、理性、民主主義では割り切れない泥臭さ、非合理性、偏見があり、一方には、したたかさがある。それらは現代高度工業社会そのものに繋がる性格を示し、政治・社会体制を越えて研究すべき課題にもなる。これが著者の研究に対する姿勢だ。

上記の問題意識から本書は、先ず「ナチズムをどうみるか」において、ナチス第三帝国は多元的な社会であったこと、大衆社会的現象が深刻化していたことを、挙げ、これまでのナチス社会に対する建前的見方から距離を置く。

続いて、「労働者の日常生活とナチスに対する態度」「労働者の反対行動と闘争」、
「青年の生活と反抗」「学校における日常生活」、
「第三帝国における大衆文化と大衆消費」、「ナチス治下の農村生活(1)及び(2)」と労働者、青少年、都市の大衆、農民の生活をそれぞれ記述し、最後にナチス社会における民衆生活をまとめている。

翻って、日本での研究はどうだろうか?民衆生活史でググってみてもほとんど何も当たりがないのが現状だ。この本も発行されてから既に30年弱の経過だ。歴史研究もタコツボ化しているのだろうか。

      
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敗戦の日と終戦の日の違い~権力から社会への「情報」の循環

2013年08月20日 | 歴史
8/15は終戦の日と呼ばれる。何故、敗戦の日ではないのだろうか?この疑問は多くの人に共有され、マスメディアでも時に浮上するが、大きな話題になることはない。どこかで抑制が効いている感じだ。これも「空気の支配」なのだろうか。

勝利を祝うことはあっても敗戦を記念する必要はない。これは敗戦の日と呼ばない明快な理由だ。スポーツ大会でも負けたものは単に帰るだけだ。「終戦」は勝者/敗者の共通する事象であるが、問題は勝敗だ。しかし、直接に戦ったのではないが、その中で被害を被ったものたちにとって「終戦」は切実だ。

やっと終わったか!これが玉音放送に対する一般人が感じたことではないか。太平洋戦争末期、東京大空襲を始めとした各地の空襲、一般人が巻き込まれた沖縄上陸戦、広島・長崎への投下、ソ連の参戦、この時期の何かのときに「いつ終わるのか」との思いを抱いたとしても、当然のことだ。

天皇を始め、戦争指導者層はポッツダム宣言の「無条件降伏」が出された時、戦後処理を覚悟したはずだ。この時、近いうちに「敗戦の日」になることは共通の認識になったはずだ。それ故、「一億玉砕」を主張する人間もいたのだ。しかし、それは権力集団内部の戦いで、一般社会からは閉ざされた世界のことだった。

その社会から隔離された権力を、情報経路として再び社会へ開放したのが玉音放送であった。それを聴いた一般人の様相がメディアを通じて権力側にも伝達されたはずだ。ここで天皇と一般国民の間に「情報の循環」が生じる。指導者層、中間層もまた、同じ情報に接したはずだ。

一般国民の圧倒的な支持、何も言わずに黙認という形であるが、これが聴く側の態度だと、権力側は感じたに違いない。サイレントマジョリティという言葉を使うには、この時が一番適切で、後にも先にもこれに及ぶものはないだろう。

後に60年安保闘争の中で当時の岸首相が「後楽園で野球を見ている人」と国会で答弁したが、その象徴性は玉音放送と比べようがなく小さいのだ。

その意味で「終戦の日」を決めたのは一般国民の黙示的反応が基盤にあったからだ。従って、それは決して「敗戦の日」にはならない。召集され戦った人たちも含めて戦後はここから始まるのだ。


      
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日本近代史における歴史家の役割~“終戦の日”の視点から

2013年08月18日 | 歴史
戦前の歴史に関して安部首相は「歴史認識について歴史家に任せるべき」と国会で答弁した。この5月に韓国、中国、更に米国から日本の軍国主義復活に対する警戒感が報道される中で、モグラが首を引っ込める黙殺の態度を示したのだ。

批判に対してまともに反論するわけではなく、いつものように批判を黙殺する態度であった。これを受ける形で、歴史家・加藤陽子氏は8/15の「NHK 視点論点」において、歴史家の役割を次の様に語った。
 
日本の近代史、特に戦争において、
1)歴史家の最も重要な役割の一つは、死者と生者とをつなぐ仲介者にある。
2)戦争の原因と、国家が国民に行った説明が異なることを伝える。

近代史は近い過去であるが故に、亡くなった人と、生きている人間の社会との時間的距離が近い。従って、歴史家は死者と生者とをつなぐ仲介者になれる。「戦没者を追悼する」場合、生きる者の都合によって戦没者の思いを忖度する態度ではなく、多様な戦没者の声の中味それ自体を知ろうとする態度が大切だ。

それには、NHKがネットで提供する「戦争証言アーカイブズ」が最も参考になりそうだ。日本兵だけでなく、開拓団員、従軍看護婦、引揚者、朝鮮半島出身軍属、台湾高砂族、満州国兵等900名以上の人が語っている。
 
以上が1)に相当し、次が2)になる。
ここで1936年の満州事変に関する計画者・石原莞爾がその計画理由を例にとって説明されている。

軍及び在郷軍人会は、満州事変を中国ナショナリズムの昂揚に対する危機感から日本の満蒙権益を擁護するために起こしたと説明する。しかし、事変の計画者の念頭には中国の姿はなく、将来的に予想されるアメリカとの戦争の際の基地、また、ソ連の脅威に対抗するための全満州の軍事占領だけがあったのだ。

現在を捉え、将来を予測する際に、過去の事例と対比しつつ判断をするが、そのファイルは良質で豊かである必要があり、これこそが歴史家の務めだ。

以上の加藤氏の態度は、具体的な日本近代史を踏まえて、有意義な論点・争点を提起するものと考えられる。

      
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花火は音を腹で受ける~川崎市多摩川花火大会

2013年08月17日 | 文化
7/18(土)、やや涼しさをもたらす風が誘う、恒例の大会も72回を迎え、今年のパンフレットには有料協賛席のPRを全面に押し出している。「場所取り不要・全席指定」とある。素朴な花火も庶民の娯楽をよそに金持ちの楽しみになったみたいだ。

しかし、花火大会は席取りの醍醐味から始まる。ベテランの方が打ち上げ間近の河川敷のややスロープが付いている処を確保する。何故、間近なのか?音と共に楽しむためである。

 「花火は音を腹で受ける」のだ!一つの花火はドーン!複数の花火はドドーン!あるいはドーン!ドーン!である。では堪能しよう。

   

パンフレットにもあるように、対岸の東京都世田谷区が打ち上げる花火を見ることも出来る。そちらは、カラフルで、空間の配置も高さを含めてバリエーションを持たせ、見せる花火としては川崎市よりも趣向をこらしている。しかし、何と言ってもドーン!という音と花火が開くタイミングがリズムを持たせる処に醍醐味を感じる。



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