散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

政治資金の問題について

2024年05月29日 | 政治


自民党の政治資金騒動に関し、中北浩璽・中央大学教授は日経新聞(24年5月23日)に以降の論評『政治不信を超えて 個人献金の促進策が必要』を寄稿する。

ポイントとして、氏は以下三点を挙げる。
 (1)「政治とカネ」の問題の中心は派閥ではない
 (2)政党全体として市民社会の基盤が脆弱化
 (3)中抜き政治が強まれば、ポピュリズムの懸念

(1)について氏は次の様に述べる。
「1994年の政治改革」、によって、「小選挙区比例代表並列法」と共に新たに「政党交付金」制度が導入された。即ち、年間315億円程度の資金が国会を構成する議員集団(政党)へ配布されることになった。

国民的視点からは「お手盛り」と言わざるを得ないのだが…!
その内、自民党は160億円程度を得る。一方、それに伴い、従来の企業・団体献金は該当団体より、年間72億円(1994年)から22億円(2022年)へと減額された(論文内にグラフ有り)。

氏はこれによって上記(1)「政治とカネ」の問題の中心は派閥ではない、との主張をしている。しかし、その「お手盛り資金(前期の交付金)」の使い道及び成果を明らかにしなければ、国民の納得を得られないはずだ。自民党の“政治資金問題”は依然として残されたままである。なお、共産党は上記「政党交付金」の受取りは拒否しているとのこと。

(2)「政党衰退論(政党全体として、市民社会の基盤が脆弱化)」が語られ始めてから半世紀が経つ」。2024年から遡ると1974年、田中角栄内閣の終りから三木、大平内閣へと繋がる時期から始まり、1989年に「昭和」が終わり「平成」(竹下内閣)となる。…その後も周知の政治状況が続き…現在の自民党政権へと到る。

但し、「市民社会の基盤脆弱化」に関して、氏は回復の試みを幾つか例示するが、評価は曖昧としている。更に、ポピュリズムへ向う傾向も憂慮する。

現状で行き着いた処は『個人の政治献金』である。

 

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リベラルの行方?~内部からの反乱に対して

2023年05月05日 | 政治

『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ著)は冷戦を終えた時期に出版され、世界的なベストセラーとなる。30年後、氏は『リベラリズムへの不満』を書き、会田雄次氏の翻訳で日本からも出版、当然の如く注目されている。
その中で筆者は政治学者の待鳥聡史氏の解説(フォーサイト23/4/22)よって「目から鱗が落ちる」気持ちになる。その内容を以下に記す。

「ポスト冷戦時代」だが、根底の理念は、自由主義(リベラリズム)だ。
即ち、自由で開放的な国際秩序が望ましい基本原理、具体的な方向性は、国際的・グローバル化、国内的・民主化をそれぞれ追求する。

これまでのフクヤマの主要著作に比べれば分量的にコンパクトであり、訳文の明快さも手伝い読みやすいが、古今の政治思想に関する深い造詣と世界を見渡すような視野の広さ、そして今日的課題への鋭敏さなど、彼の知的営為のエッセンスが随所に現れている。

私たちにできることは何か
リベラリズムにとって、現状は極めて苦しいものといわねばならない。今日直面する課題は、従来の共産主義や権威主義との対抗とは性質が大きく異なるためである。
共産主義や権威主義、さらに遡れば宗教権力による支配などは、いずれもリベラリズムとは異なる要素からもっぱら成り立っている。

リベラリズムの側は自らの優位性を主張することで対抗できた。
だが、ネオリベラリズム、アイデンティティ政治、そして情報技術の進展に伴う個々人の自由の侵害は、リベラリズムの主要な構成要素の一部が過剰に強まったことによって生じており、いずれもリベラリズムにとっては獅子身中の虫である。

この状況を打開する方策はないのだろうか。
フクヤマが提唱するのは、古典的リベラリズムへの回帰、より具体的には、古典的リベラリズムを構成する諸要素のバランスをとることである。
彼は『リベラリズムへの不満』の末尾において、古代ギリシア哲学の用語を引きつつ「中庸」の必要性を説く。グレイによる定義は、リベラリズムが個人主義、平等主義、普遍主義、改革主義という特徴を持つとしていたが、これらのバランスを巧みにとり、特定の要素が突出しないようにすることが、最も大切になるというわけである。
中庸あるいは適切なバランスが確保されれば、確かにその効果は大きいであろう。

しかし、フクヤマが認識していながら論じ切っていない問題がある。
いかにしてバランスを確保するか、である。

もちろん彼らしく、個人レヴェルで中庸の精神を養うための教養の復権、といった議論には向かわない。政治制度を通じた権力の抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が役立つことは端々に示唆されている。実際にもアメリカ連邦最高裁判所がリベラリズムに基づく国家の運営に果たしてきた役割は大きい。今日の場合にも、ネオリベラリズムやアイデンティティ政治の過剰、あるいはプライヴァシーの侵害などに対して、一定の役割を果たす余地はあるに違いない。

しかし、それで十分だといえるだろうか。
フクヤマが言及していないこととして、古典的リベラリズムの成功の鍵は、政治、経済、文化、宗教といった社会生活の領域ごとの自律性が高い。ある領域でその構成要素の一つが過剰になっても、影響が他の領域には及びにくかったと指摘されている。

グローバル化以前では、地域ごとの自律性を加えても良いかもしれない。領域ごとの差異が価値基準の多元性を生み出し、それがリベラリズムを構成する特定の要素の突出を抑止していた。
今日、ネオリベラリズム、キャンセル・カルチャーが社会生活のすべてを覆っている。領域ごとの自律性に基づく多元性は著しく後退した。公共部門のチェック・アンド・バランスの仕組みは、このような意味でのリベラリズムの変容に対抗できるだろうか。

待鳥氏は言う。フクヤマだけでなく…、
ある特定領域での多様性、中庸の確保だけではなく、数多くの領域から成り立つ社会が総体として多元性を確保するための構想、リベラリズムの基本原則を共有しつつも領域ごとの自律性を回復させる構想等が、求められる時代になっていると。

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政治的保守主義の典型的発想(2)

2023年02月06日 | 政治

3日付けの表題(1)の続きを書くつもりは無かったが、荒井首相秘書官が首相に対する忖度か、「同性婚によって、社会が変わる」との発想のもと、松野博一官房長官に続いて保守主義者の本音を記者団にオフレコで話した。

報道によれば、荒井勝喜首相秘書官が3日夜、オフレコを前提とした記者団の取材で性的少数者に関して述べた。

主な発言は、(同性婚制度の導入について)社会が変わる。社会に与える影響が大きい

 ・マイナスだ。秘書官室もみんな反対する

 ・隣に住んでいるのもちょっと嫌だ

 ・同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる

3日付けの本文で筆者は、以下を典型的な保守主義者の発想として示した。

松野「日本の家族のあり方の根幹にかかわる問題」

岸田「制度を改正…家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」

続いて、筆者の感想を述べた。

極小数の例に対して、「根幹にかかわる」、「社会が変わってしまう」とは!認めたとしても社会が変わるわけでもなく、他の価値観も含めて共生は可能であろう。

3名の発言を並べると、岸田の発言を松野、荒井が重ねて解説しているように思える。

その根っこには戦後高度成長時代の農村から都市への人口移動、サラリーマン社会の成立による家族構成に起因していると思える。その行き詰まりに対する保守流の抵抗が政治の上層を支配しているかのようである。

 

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政治的保守主義の典型的発想

2023年02月03日 | 政治

日本の「政治的保守主義」の典型的発想が以下の日経新聞2月3日朝刊記事に出ていた。

松野博一官房長官は2日の記者会見で、

同性婚制度の導入を巡り「親族の範囲など国民生活の基本にかかわり、社会全体に影響を与えうる」と述べた。「日本の家族のあり方の根幹にかかわる問題で、極めて慎重な検討を要する」とも語った。

日本に同性婚の制度はないが自治体レベルでは性的少数者(LGBTQ)カップルの家族関係を公的に認める動きがある。

岸田文雄首相は1日の衆院予算委員会で「制度を改正するとなると、家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だ」と指摘した。「社会全体の雰囲気のありようにしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」とも強調した。

以下が典型的な発想と言える。

松野「日本の家族のあり方の根幹にかかわる問題」

岸田「制度を改正…家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」

極小数の例に対して、「根幹にかかわる」、「社会が変わってしまう」とは!認めたとしても社会が変わるわけでもなく、他の価値観も含めて共生は可能であろう。

なお、川崎市は性的少数者(LGBT)が抱える生きづらさを解消する目的で、当事者自身がお互いをパートナーであると宣誓し、市が宣誓の事実を公的に認める「川崎市パートナーシップ宣誓制度」の運用をしている。全国で約50の自治体が同様の制度を導入とのことだ。

日経新聞2月3日朝刊記事

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA028OK0S3A200C2000000/

 

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保守主義における「政治意識」―2

2023年01月27日 | 政治

前回(保守主義における「政治意識(01月26日付け)からの続きになる。

宇野重規教授は「今後も保守主義に意味を持たせ続けるには、一人ひとりが「本当に大切なもの」「保守したいもの」を自発的に問い直し、他者と共有して行動することが必要だ。地域社会に目を向ければ、祭りや芸能、自然と密着した暮らしが受け継がれている。こうした財産が、守るべき歴史や伝統だと考えることもできる。」

若者の政治離れも指摘されるが、政治や社会との関わり方は古典的な選挙運動やデモ活動に限定しない方がよい。SNS(交流サイト)などのデジタル空間を活用し、「守りたいもの」を共有する他者と関わり、それに向けて議論することも一つの社会参加ではないか。とも指摘する。

尤もだと思うが、しかし、
(1)それ自体は社会的課題であって、政治的意見を抜きにして考えるべきだ。

(2)また前回指摘したように、<思想>は深く考えるスロー思考から生まれるが、間断なくインプトされるニュース等への<反応>は、反射的なファースト思考によるものだ。即ち、一般人の政治意識は専門家が作り上げた政治思想とは異なる代物なのだ。

(3)それは「大衆民主主義」と共に一般人の発想として形成され、マスメディアと共に発展したものと考えられる。

そこで筆者は「政治的保守主義」とは区別して考え、宇野教授に『保守主義』の続編、『近代日本における保守思想の生成と展開』を期待したい。

そのなかで、教授が言う様に、「今後も保守主義に意味を持たせ続けるには、一人ひとりが「本当に大切なもの」「保守したいもの」を自発的に問い直し、他者と共有して行動することが必要だ。地域社会に目を向ければ、祭りや芸能、自然と密着した暮らしが受け継がれている。こうした財産が、守るべき歴史や伝統だと考えることもできる。

今後はオタク文化や特定の商品や人物に熱狂した人同士の集団(ファンダム)を取り込むことが保守にとっても重要になりそうだ。現代的な通信手段を前提に「保守」をよりダイナミックに捉えることが求められている。

 

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保守主義における「政治意識」

2023年01月26日 | 政治

安倍晋三銃撃事件に発し、統一教会問題がクローズアップされる中で、メディアの報道だけでなく、SNSによる様々な情報を否応なく耳にする機会は今でも減っていないようだ。その間に話題となった自民党議員も多く、辞職に至った方も何人かいる。
それらの報道に接し、保守政党における政治的主張としての「保守主義」とは何を意味するのか?疑問が自然と湧き出てきた!

さて、少し前のことになるが、東京大学教授・宇野重規は『「シン・保守」の時代(中) あふれる「思想なき保守」』との論考を朝日新聞(2022年7月27日)に寄稿していた。
その冒頭、『現代は「曖昧な保守論がインフレした時代」と定義できる』と強く批判する。教授は『保守主義とは何か』(中公新書:2016年)において反フランス革命から現代日本に至る保守主義の系譜を議論している。

批判の内容は以下である。
「保守主義」は政治的な立場を論じる際に用いられるが、真意を理解して使われる例は昨今ほとんど見られない。男女平等や外国人との共生に抵抗するネット右翼的言説、古いものを無批判に賛美する言説が流布している。

 教授の批判は当たっていると思うが、ここでは別の視点から指摘を試みる。即ち、「思想なき保守」とは政治的主義・主張とは異なり、それ以前の漠然とした「政治意識」の問題であることを筆者は指摘したい。練られた「主義」と反射的「意識」は異なることを!

「政治意識」とは政治に対する信念、態度、判断、思考、感情などの心理的事象および行動様式のことである。一方、情報の刺激による反応は、内面化されたイメージに対する刺激となる(『現代政治学入門』(有斐閣:Ⅱ政治意識)。従って、当人が自覚的に構築した「政治思想=主義」とは異なると筆者は考える。
その視点から考えると、政治における「主義」は「政治意識」を自覚的にまとめた考え方と言える。それは米国の心理学者であり、行動経済学者でもあるダニエル・カーネマンにより提唱された人間の脳には2つの思考モード、ファスト思考(意識に相当)とスロー思考(主義に相当)との区別とも似ている(早川書房)。

現代は様々な情報が間断なく人々に届く。
最近、NHK会長に就任した稲葉氏はその就任直前の記者会見において「正確な情報を“間断なく提供”…」と述べていた。この言葉は現代のマスメディアを象徴的に表現している。また、政治に関心を持つ市民にとっても共通の情報環境だと考えられる。
私たちは考える余裕もなく、次から次へと情報を受けることを強いられている。NHKだけでなく、SNSも含めて!これがごく普通なのだ。従って、宇野教授には、是非、スロー思考から得られる政治的知見を存分に展開して頂きたい。

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中山俊宏教授を再度、追悼する~ファッションとは隠れること

2022年07月07日 | 政治

中山教授が亡くなられた際に、学者を中心に様々な方がTwitter上で氏を追悼された。その中でひとりの方が氏のダンディさを『リーダーの仕事の装い』(日経新聞2021/11/29)掲載の氏のスタイル「ファッションとは隠れること」を引用されていた。

実は自分も引用したかった。だが、ファイルを残しておらず、何も書けず、残念な思いを残していた…ところが、今になってファイルを発見!単に整理が悪く、ファイルが積みあがって埋もれていたのだった。気を取り直して読み直すと、現代の国際的知識人のポジションが導くスタイルと、中山の個人的ダンディズムの見事な結合と読めた。お目にかかったのは一度だけだったが、特に目立った服装ではなく、それを受取る感性が筆者には乏しかったと言う他ない。…という分けで、以下、本文を引用する。

国際政治学者、慶応義塾大学総合政策学部教授の中山俊宏さんが好むのは、「際立たない」装いだ。周囲にすっと溶け込む、ダークスーツと無地のネクタイ。ディテールやカットが個性的なテーラー仕立てのスーツを、実にさりげなく着こなす。アンダーステートメント(控えめな表現)な装いに徹し、「ダンディー」「おしゃれ」などと言われることは嫌い――。「こだわらないことが、こだわり」と語る中山さんの服装に対する考え方の原点は、1980年代半ば、青山学院高等部時代にあった。

「スーツの着方ということに限定すると、私にとっての一番は国連事務総長だったコフィー・アナン氏。私は96、97、98年とニューヨークの国連日本政府代表部で働いていて、当時はまだスーツのことをよく知らなかったのですが、アナンさんのスーツは一目見て、すごくきれいだなと感じていました。しわ1つなく、お尻にかかる上着のラインもネクタイも完璧。ブリオーニの仕立てでした。最近知ったのは、事務総長になるからにはブリオーニぐらい着てください、と周囲に言われて作っていたそうです。私が見た時はテーラーにアドバイスされるままに着ていた、最初のころだったのでしょう」

「でも、私はどちらかというと、たかが服というスタンスなんです。服を下に見ているわけでもないし、服が好きなのも明らかなのですが、自分にとって装いは、大きい男は小さい服は着ない、小さい男は大きい服を着ないという、その一言に集約される。サイズが適度に合ったものを適度にきちんと着る。そこを押さえていれば人が何を着ていようが自由」

――たかが服、されど、という部分はどうですか。エグゼクティブになればその人の格に合う服が必要ではないかとも思うのですが。
「その場合はまさに、際立つ、のではなく、あえて何も気づかせない、ということが大切なのではないでしょうか。『すれ違った時に振り返られたらだめ。それは何かスタイルで失敗している』という話がありますよね。さりげなさに執拗なまでにこだわること。社会的な地位が高くなればなるほど、過剰な装飾などせずに際立たない。ただ、すっと、スタイルや体形に合ったものを着る、ということが非常に重要になってくる気がします」

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岐路に立つ、住宅政策~戦後持家政策と格差

2022年01月23日 | 政治

岸田首相は新しい資本主義を標榜する。しかし、具体的な新施策は未だ出てきていない。そこであるだろうか。この数年に議論がなされている問題点にについて過去も振り返りながら議論を紹介する。先ずは住宅問題から…。
戦後の住宅政策は一本道(持家へ)であった。この先は如何にあるべきか?平山洋介・神戸大教授は朝日新聞のインタビューに答える(21年12月18日)。

コロナ禍は、人々の意識を「住まい」へ向けさせた。感染対策でのステイホーム、テレワークで在宅時間が増す。感染リスクの高い都市部を離れて郊外へ移住、収入減で家を失う不安を持つ。「住まいをめぐる課題の背景に「持ち家促進」に傾いた戦後の住宅政策がある。

コロナ禍の下、住まいのセーフティーネットとしての住宅政策が、日本にはほとんどなかった。国の家賃補助は、欧州では一般的な住宅政策、日本も平時から制度化が必要だった。 戦後日本の住宅政策は持ち家を重んじ、借家の改善を軽視してきた。

これに対して、政府は失業対策だった「住居確保給付金」の条件を緩め、離職していない減収世帯でも利用可能にした。2020年度だけで13万件を超える利用があり、実質的な家賃補助となっている。しかし、「目的外使用」の不安定な措置に過ぎない。

 戦前、都市部では借家暮らしが一般的。しかし、戦争中に多くの家が焼け、終戦直後には約420万戸の住宅が不足した。さらには戦後のベビーブームと、農村から都市への人口移動で、世界でもまれに見る大きな住宅需要が生まれた。

 住宅を増やす必要に迫られた政府は、人々の「持ち家」取得を促しました。国の財政だけではとても住宅需要に対応できず、国民の家計や民間資金を動員して家を増やした。


 その政策では「家族・中間層・持ち家」が重点となる。経済成長時代、人々は借家から持ち家への「はしご」を登る。雇用と収入の安定化、持ち家をゴールに、中間層の膨らみで社会の安定化を図った。政策の柱は住宅金融公庫のローン、低金利で長期に供給、購入層を広げる。

特に石油ショックの後、政府は住宅建設で景気の刺激を図り、公庫ローンの供給を拡大、住まいの「金融化」を図る。即ち、個人の借金を経済対策に用いた。それでもインフレのなか、給料上昇の時代、ローンの負担も相対的に軽くなる見通しもあった。

しかし、金融化の行き着く先が、バブル経済だった。景気刺激のため、住宅ローンの規制緩和で多くの人が借金、住宅価格の上昇がローン借入れ条件緩和へと結びつく。このサイクルの果てにバブルが発生する。

バブル崩壊後、政府は金融公庫を廃止、ローン供給の主体は民間金融機関へと移る。巨大な住宅金融市場、銀行間の競争、少ない頭金、低金利のローン商品が開発・販売される。そのローンの「市場化」によって、重い返済負担で家を購入する人も増加する。住宅ローン減税も、住宅購入を後押しする。

一方、『持ち家重視政策』は、住まいのはしごから外れた人々、「単身者・低所得者・借家人」に対する住宅政策を置去りにしていた。

日本には公営住宅が全住宅の3.6%程度(2018年)、欧州諸国と比べて著しく低い。一方、90年代の地方分権化で、地方自治体も住宅政策のあり方を決めるようになる。しかし、公営住宅の拡充は低所得者を呼び寄せると考え、その供給に消極的であった。

国家に代わって、そうした人々を支えてきたのは家族だった。過去30年に渡り、親の家に住み続ける非正規雇用の若い人たちの増加が続く。親の家が公営住宅の代わりになっていく。高齢者とその子ども家族の3世代同居を誘導する政策も続く。国家ではなく家族に福祉を担わせる「日本型福祉社会」を反映する形だ。

経済成長が終わった今、非正規労働者、未婚の人が増える。長引くデフレのなかで、住宅ローンという借金を背負うリスクは大きい。インフレ時代にあった住宅資産の含み益も消え、住まいのはしごを登れない人々は更に増える。

 その一方、経済的に豊かな層では、親の持ち家の相続、購入資金を親が支援等の子世代も増える。経済成長期に働けば誰もが持ち家に手が届く「出自を問わない社会」が生まれると考えられていた。成長後の時代に入った今、資産となる住宅を持つ家族がさらに豊かになる「再階層化」が進む。

また、住宅価格が上昇する「ホットスポット」と、下降が続く「コールドスポット」の分化が進む。東京都心、湾岸部、大都市中心部では住宅需要が増え、タワーマンションが次々に建つ。大企業に勤める共働き世帯は立地を重視、都心の住宅を買い、タワーマンション建設を支える一因になる。一方、郊外、地方では資産にならない持ち家が増える。

格差が広がるなか、何が求められるのか。

新築持ち家以外の施策を充実させ、幅広い政策手段を用意する必要がある。少ない公営住宅を増やす。家賃補助制度も実現するべきだ。中古住宅市場を拡大、既存住宅のストックの流動化も必要になる。空き家を活用した、低所得者向けの賃貸住宅供給も期待される。

「マイホームへの一本道」の価値観は、特に若い世代の間で薄れている。多くの人が結婚、所得増、家を持ち、資産を増やす、との想定は成立しない。新築持ち家を重んじるのではなく、多くの選択肢を準備し、多様な人生のあり方に対応する住宅政策が、政府に求められる。

 

 

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憲政、憲法に基づく政治~改めて細谷論稿を考える

2021年06月09日 | 政治

先の記事(6月3日付)において、細谷慶大教授の論稿から「コンスティチューション(憲政)」との言葉が日本では使われていないことを引用した。
 しかし、「憲政の常道」との言葉は今でも使われている。また、尾崎顎堂は「憲政の神様」とも呼ばれ、国会には「憲政記念館」も存在する。一方、日本では「コンスティチューション(Constitution)」を憲法と呼び、そこで、憲政は「憲法に基づく政治」となる。

但し、氏は単に憲法だけでなく、「その精神、伝統、構造などを包摂する抽象的な概念」を英国では含んでいると述べていた。或る部分の誤解は翻訳の問題として理解できたが、それでも、「国体」はおおよそ「Constitution」と重なる言葉で、天皇制のもとでは「国体=天皇」との氏の指摘は、納得できないものが筆者に残る。

憲法に基づくとは、近代ヨーロッパ社会では議会制度による政治になるはずだ。また、日本における「憲政の常道」とは、明治憲法下の日本において一時期運用されていた政党政治における政界の慣例のこと、との説明が幾つかの解説から妥当だと考える。
すると、伊藤博文、大隈重信から大正デモクラシーを経た時期辺りまでは機能していたのであろう。その後、昭和恐慌以降、軍部が政治に口を出し、天皇機関説批判、国体明徴等から五・一五事件へと向かう中で機能不全になる。

逆に言えば、賛否はともかく、「その精神、伝統、構造などを包摂する抽象的な概念」もそこには含まれており、それが軍部によって捻じ曲げられていったのが五・一五事件以降だった。そんな感覚で改めて理解できる。

 

 

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戦後における「国体」の行方~コンスティチューションの問題

2021年06月03日 | 政治

先の秋田氏の論考に国際政治学者・細谷雄一教授が反応する。

論稿『統治をめぐる思考の欠如 日本を滅ぼす宿痾』において氏は「コンスティチューション(憲政)」との言葉が日本では使われていないことを指摘する。更に日本国憲法には統治機構の規定があるが、それに止まらず、その精神、伝統、構造などを包摂する抽象的な概念、と述べる。更に、国家がどのような「コンスティチューション」であるべきか。これは最重要の課題と指摘する。

 戦前に使われた「国体」は同義語ではないが、おおよそ重なる言葉で、天皇制のもとでは「国体=天皇」と指摘する。また、戦後の「象徴天皇制」によって主体的に「コンスティチューション」を考える必要を捨てたのでは?とも指摘する。

そこから、日本は急転する状況の変化の中で、危機に直面したときに適切な対応ができないのか?との疑問に至る。太平洋戦争勃発に至る時代だけでなく、湾岸戦争、オウムの地下鉄サリン事件、阪神大震災、東日本大震災、そして現在のコロナ危機も同様。変化というよりは、戦前から戦後まで続く、日本で持続している問題とも指摘する。

但し、ここでの細谷氏の指摘は戦前との連続性を指摘しており、また、秋田論稿では将に戦前と戦後を貫く課題であることを強調しているから、「象徴天皇制」だけの問題ではないことは明らかである。

また、「コンスティチューション=国体=天皇」だとしても、天皇機関説の問題、戦前、戦後における「顕教と密教」の構造(『平和の代償』永井陽之助)等を含めて「国体」を単純にコンスティチューションとして良いのか?疑問が湧く。

後半の「全体を俯瞰する重要性」「情緒へのアピールではなく、冷静で強靭な論理と戦略を備えよ」は傾聴に値する指摘を含む。後日に考えてみたい。

 

 

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