散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ビンラディン氏のジハートと“絶対の敵”

2011年05月28日 | 政治
 ビンラディン氏は、1979年の旧ソ連によるアフガニスタン侵攻の際、アフガン側にゲリラとして参加し、旧ソ連を退却に追い込んだ立役者のひとりである。
 このときの戦いは、侵攻に抵抗する土着の住民を支援するイスラム教徒としての聖戦(ジハート)であった。目の前にいる旧ソ連軍が“現実の敵”であった。

 郷土への侵略に対する抵抗軍としての“ゲリラ活動”が、いかにして“国際テロ”として2001年9月11日のアメリカへの同時テロに至ったのか?その内在的な理由は何か。それは未だに解かれていないように思われる。

 池内恵・東大准教授はインタビューに答え、ビンラディン氏をデッサンする。
 『ビンラディンは“タレント政治家”だった』(日経BPオンライン 2011/5/12)
 「…政治指導者として支持されていたとも、宗教指導者として尊敬されていたとも言えない。日本でいうタレント政治家のような枠に入る。…」
 「…一貫してサウジ王制を批判…アラビア半島のローカルな排外意識が、彼の反米思想の核心…異教徒に守られることでイスラム教徒の名誉が傷つくという、プライドの問題に焦点を当てた。」
 「…この感情に訴える批判の分かりやすさが、思想に基づき体系的に欧米の支配を批判した従来のイスラム指導者と、決定的に異なるところで、その大衆受けするカッコ良さが、若者の心をつかんだ。…」

 いわゆるタレント候補にとって、ビンラディン氏と同じ枠に入れられるのは、迷惑このうえないことであろう。芸能活動等で活躍し、政治へと転身したタレント候補と、ゲリラ戦を戦い、戦闘勢力を拡大しようと企画したビンラディン氏の活動とは比較しようもないはずだ。
 「感情に訴える批判の分かりやすさ」は、特にタレント候補のオハコではあるまい。その辺りふつうの政治家も似たようなところはある。
 更に、「ローカルな排外意識が、彼の反米思想の核心」であれば、アフガンでのゲリラのように、アメリカを“現実の敵”としてサウジという土地から追い出せば良いので、“国際テロ”までは行きつかない。タレント候補論ではビンラディン氏の核心は理解できないのではないだろうか。

 そこで問題はジハートとビンラディン氏の行動との関連になる。
 先に述べたように、彼はサウジを越えてアフガンに赴き、その地のイスラム教徒と共に、ジハートとして旧ソ連軍と戦った。アルカイダを結成したのは、1989年2月の旧ソ連軍の敗退の少し前らしい。このころからビンラディン氏は反米活動に転じている。1991年の「湾岸戦争」では、サウジに駐留するアメリカ軍に「不信心者の軍はムハンマドの地を去れ」と言った。しかし、これは「反ソ」が「反米」へ転換したという問題ではない。

 “現実の敵”は排除できれば、それで終わる。しかし、ジハートはイスラム教にとって、教義の戦いである。郷土を守るだけでは、防御的であり、常に異教徒の攻撃に晒される危険をもつ。ジハートを突き詰めていけば、必然的に異教徒の教義を滅ぼす方向へ向かう。

 それは、その異教徒をすべて滅ぼすか、回心させることに他ならず、それは終わりなき戦いである。回心させるにしてもあらゆる手段を使うことが許される。無差別テロにより異教徒に恐怖を与えることも当然、その一つである。無関係の一般市民であっても、異教徒である以上は、殺すに値するになる。

 アメリカこそは、アラブ地域のなかでイスラエルを擁護し、また、世界政治を動かすキリスト教世界での最大の敵である。アメリカを“絶対の敵”の対象とすることによって、外からの侵略に対抗するジハートから、異教徒に対抗するジハートへと、ジハートそのものが質的に変貌した。いや、ビンラディン氏にとって、これこそが真のジハートだと感じたのであろう。

 しかし、アメリカ軍はサウジの味方として、サウジに駐留した。日米安保条約下でのアメリカと日本との関係に似ている。そこで、ビンラディン氏とアルカイダは、さしずめ、反ベーテイ(米帝)を掲げ、大学紛争も含めてゲバルト闘争を行ってきた「新左翼の指導者」に相当するであろう。その帰結は、赤軍派による幾多のテロ事件に示されていることは周知である。

 赤軍派の行動が、一般市民を戦慄させたのは、その無差別的攻撃性である。殺傷しても余りある、宗教の敵、人民の敵…などの“絶対の敵”との規定がない限り、自己の中で、その残虐性を正当化できるものではない。

 しかし、4機の飛行機をハイジャックし、うち2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入、約3千人を死に至らしめた2001/9/11の同時テロのすさまじさは、赤軍派のアナロジーをはるかに超えることも確かである。

 かくて、 “絶対の敵”の象徴的な心臓部を攻撃することによって、ビンラディン氏個人がアメリカの“正義の戦争”の対象になった。オバマ大統領の『正義はなされた』は、その間の経緯を「正確に、かつ、冷徹に」一言で表している。

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「米国の戦争観」と「正義の戦争」

2011年05月07日 | 国際政治
 永井陽之助氏は米国の戦争=平和観に「正義の戦争」という思想がひそむことを『平和の代償』(P167)で指摘している(「ビンラーディン氏の死」参照)。

 この著作は中央公論に発表した三つの論文から構成されている。
 第一論文「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」
 第二論文「日本外交における拘束と選択」
 第三論文「国家目標としての安全と独立」

 「日本外交における拘束と選択」が発表当時の主要な論争になった処であり、本の題名となった“平和の代償”も、ここで使われている。更に、今でもクローズアップされる現実主義(菅首相)、力の均衡理論(渡辺喜美みんなの党党首)が議論されている。この点については別途述べることにする。

 実は、第一論文で明らかにされた「米国の戦争観」は、日本国憲法第9条の問題を議論の導入(P8)にし、それが第三論文の「Ⅱ戦後平和思想における密教と顕教」、特に米国リベラリズムの“村落者の平和哲学”と日本の“自然村平和哲学”との内面での一致、との指摘に繋がっている(P171)。「正義の戦争」はこの文脈のなかで現れてくるから、日本人として思想的に無縁であるわけではない。

 ここが私たちにとって、再度認識を新たにしておくべき問題点であり、自己認識の政治学でもある。以下、『平和の代償』の関係する部分を辿ってみよう。

 第一論文のなかで、ルイス・ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』をベースにしながら、アメリカは自由に生まれついた国であり、自由・平等が自然であって、それが当たり前の民主社会であることを指摘する。
 『…アメリカの国体の精神そのものが、われわれ日本人が想像する以上にラディカルで、進歩的…』と述べながら、
『しかし、内に否定と対立の契機を含まないイデオロギーは何によらず危険である』(P10)とも言う。

 これが永井氏の基本的な立脚点なのだ。

 その自己イメージが国際関係へ投射され、特殊米国的な機構型の戦争=平和観が生まれる。
(1)平和と戦争は明確に区別される別領域。
   平和…正常、性善な人の自然の調和  戦争…異常、外からの悪しき妨害

(2)平時にはほとんど外国への関心がない。
   外からの脅威を受け、反射的に力の行使にふみきる。
   戦争に巻き込まれたと思うと、無制限の拡大になりやすく、
   戦争は道徳的な十字軍になり、敵を“駆逐”して平和を回復させる。
   従って、政治的配慮を無視した“効率”万能の工学的戦争観になる。

 このような米国的戦争観=平和観が国際社会で認知されたのが不戦条約(1928年)であり、憲法9条はその思想を引き継ぐことを、第三論文において跡づける。続いて、ロバート・タッカー教授の『正義の戦争』を引用しながら、

『その根底には、自衛戦争は「正義の戦争」であるとの信念がひそんでいる』(P167)

と述べ、更に憲法第9条の特徴を意図だけでなく、能力(軍備)の点で戦力保持を禁止した、その徹底性にあるとした。
『新憲法は、…その精神において、米国リベラリズムの、伝統的な平和思想の特異性を共有しており、あの軍国主義日本が何故、一夜にして、徹底した平和国家になりえたのかの、カルチュアの共有性を問題にしなければならない。』

 ド・トックビル『アメリカの民主主義』、ジョージ・ケナン“Democracy fights in anger”、を引用し、『「戦争への激しい憎悪」のパッションが、激しい「好戦性」と矛盾なく、同居しているところにアメリカ人の素朴な“正義感”がある。』(P168)。

 この素朴な平和思想は“草の根”に基礎をおくポピュリスト的な「村落者の哲学」(ウォルター・リップマン)との指摘を読めば、多くの方は、最近の「ティーパーティ」に関するニュースを想い起すのではないだろうか。

 そこで、最初に書いたように、日本人の「自然村」秩序観が「村落者の哲学」と内面で一致する。ここで注意すべきは、単に法的な規定の一致ではなく、その基盤となる思想まで分析し、その共通性を求めたところである。その政治理論的背景は取りあえず、次の言葉を引用しておく。

 『現代の政治学は、「制度の融解」という現代的状況の直視から出発しなければならない以上、制度論も下からの状況との関数関係においてとらえなおさなければならない。いいかえれば、人間の秩序とか制度とかいうものは、反エントロピカルなもの、つまり無秩序と混沌の負として観るとの発想に立たざるを得ないのではないか。個人状況ないし個人の行動というものは、エントロピカルなもので、本来、混沌と無秩序をその実存の中核としている。』
(『現代政治学の基礎概念』「政治意識の研究」所収 P350)。 

 話を戻し、2003年3月の米国を中心にしたイラク侵攻に始まったイラク戦争は、大量破壊兵器保有の疑惑を名目とした「予防戦争」の発露と解釈でき、「正義の戦争」の思想が基底に存在する。これと共に、ビンラーディン氏殺害もまた、敵は“絶対の悪”であり、この世界から一掃されることによって、オバマ大統領の言葉に示されるように、“正義は達成”されるとの考え方に基づいている。

 なお、このような考え方が外交過程に反映されると、第二論文の冒頭に書かれたように「無為の蓄積」と「全能の幻想」の悪循環がもたらされる(P72)。ここでは、“平和哲学”が内面で一致するとされた日本の外交も同じ傾向をもつことが指摘され、そこから、現代日本外交を拘束する要因の分析と選択のマージンを見出す議論が展開される。

 ここが先に述べたように、主要な論争になった処であり、現実主義、力の均衡という言葉も、その後、今に至るまで外交・国際問題を語るうえで、不可欠の概念として根付いてきている。
 沖縄基地(対米)、尖閣諸島(対中)、北方四島(対露)、これら日本外交の中心課題は単なる二ヶ国の問題ではなく、東アジアから東南アジアに連なる国際問題であり、この地域に平和の構造を築く戦略のなかに組み込んでいく必要がある。その意味で『平和の代償』は今でも学びうる内容を含んでいる。

                                 以上
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ビンラーディン氏の死-「ジハート対正義」の根源

2011年05月03日 | 国際政治
報道によれば、
『オバマ米大統領は1日夜(日本時間2日午後)、テレビで緊急演説し、2001年9月11日の米同時多発テロ事件の首謀者として手配していた国際テロ組織アルカイダの最高指導者、ウサマ・ビンラディン容疑者(54)を殺害し、遺体を収容したと発表した。
ビンラディン容疑者はパキスタン・イスラマバード郊外の住居に家族と滞在中だったという。』

米大統領は“正義”を達成と強調した。

一方、ビンラーディン氏は映像や音声テープを発表しては世界に“ジハード”(聖戦)を呼びかけていた。
氏は79年の旧ソ連のアフガン侵攻に反発し、ムジャヒディン(イスラム聖戦士)としてアフガン入り、その後、反米に転じ、「いかなる時も米国人とユダヤ人を殺害するのがイスラム教徒の義務」と宣言、9.11テロの実行犯を「真のイスラム教徒」とたたえた。

抽出されるのは米国の“正義”対イスラム過激派の“ジハード”である。その根源は何であり、私たち一般人はこの対決の結末からどんな教訓を導きだすのか?そこが大切だ。

米国の“正義”から思い起こすのは、米国の戦争=平和観にひそむ「正義の戦争」という思想である(『平和の代償』(永井陽之助著 中央公論社 P167)。
この中で永井氏はロバート・タッカー教授の『正義の戦争』(1960)を引用して、日本国憲法9条と禁酒法との思想的な類似性とその弱点を鋭く分析している。(続く)
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序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ  

2011年05月02日 | 永井陽之助
永井陽之助氏は“自己認識の政治学”を目指したひとりの学徒であった。既に2008年12月30日に亡くなられている。

丸山真男氏を筆頭として、岡義達氏、京極純一氏、升味準之助氏らと共に戦後「政治学」を日本において構築した「東大学派」のひとりである。
 「巨星落ちる!」、改めてご冥福を祈る。

氏が亡くなられたとのニュースに接したのは2年前、2009年8月22日である。氏の入った座談会が潮出版「講座 日本の将来 世界の中の日本」にあったと思ったからである。その中味を思い出す必要にかられて、グーグルで名前を入れて検索したところ、2チャネルにぶつかった。

どんなことが書かれているのだろうと思って「最新」を覗いてみたら、何と
『<訃報>永井陽之助さん84歳=国際政治学者、冷戦を研究
3月18日2時32分配信 毎日新聞
 現実主義の論客として活躍した国際政治学者で東京工業大、青山学院大名誉教授の永井陽之助(ながい・ようのすけ)さんが昨年12月30日に亡くなっていたことが分かった。84歳だった。』
 ハッとして「毎日新聞2009年3月18日」を確かめようと検索したがぶつからず、他紙も検索したところ、「朝日新聞2009年3月17日」に記事が残っていた。
『国際政治学者の永井陽之助さん死去 現実主義の論客』
 「フッー、本当だったんだ」と納得せざるを得なかった。

以前にも2チャンネルを覗いたことがあり、具合が悪いように書いてあったので残念に思っていた。それにしても思い立って検索し、それも少し寄り道したから知ったのである。グーグルから2チャンネルへ、そこで知った情報とはいかにも現代的である。授業を受けていた学生であって、特に親しくして頂いたわけではないので、知ったのも幸運と思わなければいけないのであろうが。

筆者は「団塊の世代=大学紛争の世代」の人間であり、1967年4月、東工大に入学した。当時の東工大は、今も同じだと思うが、MITを真似たとする一般教養を重視する体制をとっていた。入学時、人文・社会科学系の教官が総出で「総合講義第一」を分担する。これを40名程度のクラス分けと重ねておこなうので、必然的に全員必修になる。
 心理学・宮城音弥氏、
 教育社会学・永井道雄氏、
 文化人類学・川喜田二郎氏らと共に、
 政治学者・永井陽之助氏も著名な人文・社会科学系教授のひとりであった。

それは三島由紀夫氏の感性にショックを与えたと言われている『平和の代償』(中央公論社)をひっさげて、『現実主義者の平和論』の高坂正堯氏(京大)と共に国際政治における現実主義者の論客として名乗りをあげた後だったからだ。

通常の理工系と同じように一般教養科目を取る仕組も、もちろん1年生からあった。筆者は2年生のときに「政治学」をとった。試験は無く、単位は「政治について」(D.リースマン著 みすず書房)に関するレポートだったと思う。この年度末からいよいよ東工大も大学紛争へ突入、3年生前期(1970年9月)まで授業は無かったはずである。

 ちなみに、学内で現代問題研究会を主宰していた管直人氏(現内閣総理大臣)は、この東工大紛争の過程で一般学生を糾合して「全学改革推進会議」を立上げた。全学集会で並み居る闘争派学生に対し、真っ向から論陣を張って立ち向かい、「バリケード撤去」の可決に成功した。気力と勇気に秀でて弁舌も立ち、大学紛争が生んだ市民派政治家の出発点であった。

さて、東工大紛争が終わって授業が再開され、3年生として「総合講義第二」という題目で少人数(10名程度)のゼミ形式授業があり、永井教授の授業をとった。単位の面からは他の通常の講義をとれば問題ない。この講義は特に関心をもつ学生に門戸を開放する試みであろう。

4年生でも続けて出席した。どちらの学年で単位をとったのか覚えていないが。このゼミ形式授業で「永井政治学」に親しみ、多くの話を聴くことができた。また、セミナーハウスでの合宿などで議論もできた。ここで学んだことが、政治をみる眼の“起点”になっている。

 3年生では「In Defense of Politics」(Bernard Click)
 4年生では「Reflection on Violence」(Hannah Arendt)
 をテキストとして使ったが、その内容よりは雑談のほうが圧倒的に面白く、いまでも覚えていることが多い。そんなもんだと思う。

特に4年生では社会人、慶大・神谷不二研究室の学生などもきていて数名は外部からの贋学生であったと思う。現在は大学間交流、社会人入学などでこれも制度化されているが当時は珍しかったかもしれない。専門家の卵に自らの研究をバックグランドとした話を展開されると、チョットそこまではと思いつつ聞き役に回ってしまうのが、工学部学生の「趣味の限界」か、とも感じた。

さて、永井氏は毎日、朝日共に国際政治学者として扱われている。そして「現実主義の論客」とも書かれている。これは間違いないし、確か国際政治学会会長も務められていたはずだから当然ともいえる。

しかし、永井政治学の神髄はそこではない。いや、そこも神髄ではあるのだが、本当の神髄は“政治意識論をベースにした政治理論”にあるのだ。これが永井政治学について筆者がこれから書こうとする強い動機である。

それは有斐閣による現代社会科学入門シリーズの『現代政治学入門』に関し、篠原一氏と共に編者になっており、更にその「第1章・政治学とは何か、第2章・政治意識」を執筆していることから判る。なお、手元にあるのは昭和40年初版発行、しかし、数年前に改訂版が出されており、若干、変わっているかもしれない。

筆者が大学に入学して初めて買った本、それは大学本館地下の生協書店で平積みにされていた「学問と読書・現代科学入門」」(大河内一男編・東大出版会)である。東大総長として卒業式で「…太った豚より痩せたソクラテスになれ…」と訓辞したと新聞に出ていたので大河内氏の名前を覚えていた。後になって何かの本に、実際は新聞記者に渡して原稿にはあったが、実際は話さなかった、とのことが書かれていたが…。

大学で学ぶ学問とは何だろうか、との新入生の疑問に答え、学問分野ごとに自然・人文社会科学全般にわたって専門家によって書かれた本である。そのとき印象にのこったのが、自然科学系では「実験方法」について書かれたもの、社会科学系では、冒頭、ヘンリー・ミラー「北回帰線」からわけのわからない原文を引用していた永井陽之助氏『政治状況の認識』であった。
 そのなかに以下の文章があり、「政治学」が他の学問と全く違う知的努力を求めている「学」だと思ってしまった。ここが一つの分かれ目だった…。

『われわれが深い自己観察の能力と誠実さを失わない人であればあるほど、自己の内面に無意識的に蓄積、滲透している“時代風潮”とか、“イデオロギー”や“偏見”の拘束を見出さざるを得ないであろう。その固定観念からの自己解放の知的努力の軌跡こそが政治学的認識そのものといっていいだろう。』

これが“自己認識の学としての政治学”である。

                              以上
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