昨日の記事でNHK番組において、吉田茂が日本独立の際の防衛構想として、憲法九条を盾に、「日本の防衛を国連軍に委ねる」「北太平洋地域の非武装化」を提案として用意したことが明らかにされた。
『冷戦下における「運命・選択・決断」140828』
番組では、前者は1951年、米国のフォーリンアフェアーズ(FF)誌に発表されたとされた。偶々かどうか、FFリポート誌7月号に「
特集 吉田とケナンは日米同盟をどう考えたか」が組まれ「冷戦と日本の安全保障」と題したその論文の一部が掲載されている。
折角の機会だから紹介しよう。公開されたのは、以下の「冷戦と日本の安全保障」の部分である。
(論文構成は以下の順:「講和の見通し」「冷戦と日本の安全保障」「日本における共産主義」「経済復興の布石としての講和」「講和と日本の精神について」)
その論理に吉田の苦心が滲んでいるが、言っていることは極めて単純だ。
「講和条約締結に伴う最大の問題は日本の安全保障である。…日本を完全に非武装化したことにより、連合国の日本に対する安全保障上の懸念は取り払われている。…日本は戦争を放棄し、あらゆる武力を否定する新憲法を制定した。
…日本は天然資源に乏しく…鉄鉱や鋼鉄、石炭、石油等の必需品の供給を止めれば、行く手を阻まれる。…日本が脅威となることは決してない。一方で、日本が懸念すべき脅威が存在する。…ヨーロッパ、アジアでの冷戦に伴う醜い現実、特に共産主義軍事勢力の台頭だ。…朝鮮戦争が雄弁に物語っている。
…占領軍が撤退すれば、非武装の日本はどうなるか。…侵略された韓国に対して国連軍が迅速に救援にかけつけ…激しく戦っていることに感銘を受けている。
…国連の強い希望と意志がこの派兵によって示された。…日本の自由と独立のために我々は国連を頼みとしていく。…我々も国連による極東の安全保障の枠組の構築に参加できるようになることを期待している。」
一方、ケナンも吉田に続いて寄稿し、次のように述べている。
「マッカーサーは、少なくとも1948年当時は、米国、日本の安全保障のために、日本に米軍を恒常的に駐屯させる必要は必ずしもないと考えていた。彼が考えていたもっとも好ましい方策とは、日本が国連の監視下に入り、米国の利益に反しない形で、非軍事化、中立化されることだったようだ。」
この方が重要な指摘だ。番組では1948年当時の状況まで及んでいないからだ。
先に記事で、永井陽之助「平和の代償」の中の「日本は、敗戦後、選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編み込まれたのである。これは米国も同様である」という言葉を紹介した。それは本の中核部分『日本外交における拘束と選択』での「国際政治の基本構造」の冒頭に書かれていた。
しかし、1945年のヤルタ会談では戦後世界における基本構想を8日間に亘って話し合った経過があり、これはウィーン会議の多角的交渉に擬せられる内容を含んでいる。その内容とは、五つの争点、ドイツ賠償、ドイツ分割、フランスの役割、ポーランド、国連の各問題に対して争点毎の交叉連合が形成されて、交渉は可能だった。冷戦二極構造に至るまでには、終戦から少し時間があった。
また、ケナンがソ連封じ込め政策のもとになったと云われる有名なX論文をFF誌に発表したのは1947/7であったから、米国内での戦後政策は冷戦に収束するまでには揺れ動いていたのだ。
更に永井は次の様に云う。
「米国は、極東での日本の軍事力が解体した後、そこに生じた力の真空を埋めるものについて、明確な考察を欠いていた。…その当時、日本を共産主義の膨張に対する防壁にするという考え方は、必ずしも文武一般の意見ではなかった。
「…マッカーサー元帥は次の大戦で「日本が戦うことを欲しない」と常に主張していたし、米国の防衛戦略での日本の役割は「日本が中立に止まることだ」と「太平洋のスイス」としての日本の中立化が米、ソ、英の三国によって確保されると楽観的に考えていた。…憲法第九条は、かかる蜜月時代の残像を反映している」。
当時の日本に対する米国の構想は、あったとすれば、「
中立冬眠国家」だ!
しかし、日本人は吉田ならずとも、それは拒否したのだ。破壊されたその只中で眠るように生きることはできない。ともかく、国家として不満であっても、
社会として復興することだ、米国的生活を目指して…そこで、国家を守る軍備など不要なものは出来るだけ持たない、と意思したのだ。