散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

太平洋戦争の呼び方~終戦記念日にあたって(2)

2022年08月31日 | 歴史/戦後日本

前回(8/15付け)は太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼ぶ或る細谷雄一慶応大学教授の文献「戦後77年、「大東亜戦争」を経て日本が失ったものとは」(『Voice22年9月号)の骨格を紹介した。そこでは天皇陛下だけでなく、日本国民もおそらく使い難いであろうことを述べた。間が経過したが、改めてその文献から細谷教授の考え方を追ってみよう。

先ずは、筆者の見解を先に書く(以下、三点)。
・天皇陛下の使う言葉として、国民に自明の「第二次世界大戦」を簡潔に述べた。
・「大東亜戦争」は占領行政において「太平洋戦争」に変えられた。
 日本も受け入れ、国民的呼称として使われている。
・戦前の軍部独裁体制も含めて、天皇陛下が積極的に使うとは考えにくい。

細谷教授は昨年に刊行された『決定版 大東亜戦争(上・下)』(新潮新書)を示し、波多野教授の言葉を引用する。大東亜戦争は「複合戦争」であり、カバーした幅広い領域における多様な営みや、その奥深さや豊かさを理解することが必要ではないか。

そして、「『先の大戦』は、評価を急ぐより、『大東亜戦争』がカバーした幅広い領域における多様な営みや、その奥深さや豊かさを理解することが必要ではなかろうか」と論じる。

歴史的事象においては、様々な発見、研究によってその評価が変わることは確かだ。従って、逆に複合戦争との表現が用いられるほどにこれまでの評価が、勝てば官軍側に優位に働くであろうことはあり得るであろう。但し、これは国家間の事象、解釈等の事柄であろうから、基本的な戦略の欠落、日本上位の大東亜共栄圏構想、国際連盟離脱の至る外交等の評価については覆る余地などは何もないと思われる。多様な営み、奥深さ、豊かさがどこにあったのか?知りたいと思う。

 ともあれ推薦されている本は是非読んでみたいのであるが。

 

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空襲による死亡者・被害者たちの象徴、トト姉ちゃん~花森安治の視座

2016年09月13日 | 歴史/戦後日本
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのにひどい目にあった」(「花森安治伝」津野海太郎(新潮社)P14)。大橋鎭子へいったという花森の言葉は、『序章』の〈百万部雑誌の始まり〉で紹介され、キーワードでもある。それは、朝ドラでも印象的なシーンの一つとして放映されたと思う。

第二次大戦に関して、それぞれがその言葉だけでは言い表せない事柄について、花森らしく、ズバリと「女の人」、「責任がない」、「ひどい目」と表現する、その意味するところは何であろうか。

筆者は花森の詩「戦場」を紹介し、空襲されたその場を〈戦場〉ではなく、〈焼け跡〉と、死者を〈戦死者〉ではなく〈罹災者〉と表現し、一篇の詩に仕立てたのは、花森の創造力のなせる技であると述べた。
 『米軍空襲による惨状を描いた 詩 「戦場」~花森安治の創造力130815』

そして、「戦場はいつでも海の向うにあった」と書き出し、続いて、今は、「ここが、みんなの町が戦場だった」との表現の中に、生活の場が戦場になることによって、「ひどい目にあった」一般人の姿を描き出したのだ。
 『〈戦場〉はいつでも海の向うにあった~戦後マイホーム思想の原点110815』

町にいるのは、兵士以外の人たちであって、女では必ずしもないが、女は戦争には行かなかった。戦争の責任は男すべてではないが、少なくとも責任ある人間は男だった。だから、「女の人」との言葉に象徴させて、戦場ではない生活空間において、空襲という戦争行為に晒された人たちの悲劇を、花森は自らの責任の中に織り込んだと筆者は想像する。
少なくとも花森は戦争を推進する立場から兵士として戦場へ赴き、大政翼賛会で仕事をしていたはずだ。
即ち、トト姉ちゃんは、その意味での被害者、いやそれ以上に亡くなった人たちを含めて象徴的存在であったのだ。

その当時、昔の仲間と仕事の企画を立てていたと上記の本には書かれている。しかし、それはある意味では戦前の延長線ではないか?ふと、花森は感じたかも知れない。

一方、大橋はどうだ!空襲による被害者が生活の場を築こうとし、それも女の人たちを対象とした雑誌作りなのだ。そこには、新たな展望に立った仕事がある、と考えたとしても不思議はない。

本は副題に「日本の暮らしをかえた男」とある。
確かに、ひとりの人間としてなしたことは、それに値するかも知れない。一方、戦後復興から高度経済成長へと、まっしぐらに進んだ社会において、その経済状況に同期して「暮らしの手帖」の内容が読まれた側面も強い。

そこで花森の仕事がどの程度に貢献したのか、必ずしも定かではない。確かに百万部まで発行数を伸ばしたことは、驚くべきことに違いはないが、多くのファンは上層階級からそれに近い中層の人たちのようにも思う。




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安倍談話がロシアを無視した理由~「有識者懇談会」の影の認識

2015年09月23日 | 歴史/戦後日本
日露戦争は、欧州の遅れてきた帝国主義国・ロシアと東アジアの新興国・日本との東北アジア、特に東アジアに架かる韓国を巡る闘いであった。欧州におけるロシアはドイツと共に海外帝国主義的進出の余地は無く、ハンナ・アーレントの言葉を借りれば、大陸帝国主義的展開しか、残されていなかった。

日本は、明治維新以降の北海道の植民的開拓、即ち、現地住民からみれば国内帝国主義とも云える展開から、日清戦争による台湾の領土化を経て、欧米列強に遅れることなく、中国大陸、特に満州への植民を目指して進出を図る企図を持って行動した。従って、欧州的な進出からすれば、帝国主義であったが、資源調達と共に植民による農業の展開という狙いも持っていた。韓国合併はその嚆矢であったが、安倍政権での認識では無視された形であった。
 『大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視 150817』

一方、多くのフォロアーを持つ「極東ブログ」によれば、安倍首相の戦後70年談話で欠落していた一番大切なものは、「ソ連であり、その継承国であるロシアである」、それは「日本が独立したのはサンフランシスコ条約の単独講和であり、ロシアとはいまだに平和条約が締結されていない」からだとの指摘である。
この指摘は鋭く、筆者も中韓米へ視点が固定されて、報告書及び談話を読んでいたことは確かだ。マスメディアもロシア無視であったことは、逆にこの一連の政府活動は、中韓米(及びアジア並びに国内)対策であって、ロシアは視野に入れなかったのであり、必ずしも出す必要がない談話であったことを吐露している。だが、そこを空かさず突いた「極東ブログ」は流石に、見事と云う他はない。

では、何故ロシア無視であったのか。その存在を忘れたのか。
先ず、第二次世界大戦でのソ連参戦はヤルタ協定によるものであり、その見返りとしての樺太・南千島を含む北方領土の獲得を企図したものだ。しかし、日本から見れば、ソ連は有効期間が残っていた日ソ中立条約を一方的に破棄して対日宣戦布告を行ったことになる。

即ち、領土問題をさておいても、日本は、ソ連に侵攻したのではなく、宣戦布告はあっても、突如にソ連に侵攻された被害者だ、との認識がある。従って、残る案件は北方四島を返還してもらうだけであって、後はロシアの出方だけだ、と考えても不思議ではない。別の見方からすれば、ロシアとの間では中韓との様な歴史認識の問題はない。

次にソ連とは1956年に国交を回復し、共同宣言も出した。このとき、領土問題を解決後、平和条約を結ぶこととしている。逆に云えば、領土問題を除き、国交回復は事実上の平和条約締結の機能を果たしている。

更に基本的な問題は、戦後70年の平和自体は国際環境の所在によるものであり、日本が努力をして選択したのではなく、米ソの冷戦と米国の世界戦略の一環として、その拘束が平和の継続の基礎にあったことだ。即ち、冷戦が「長い平和」(ジョン・L・ギャッディス)と呼ばれる所以である。
『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」への違和感 150809』

問題はロシアを無視した理由が、中韓米に対する歴史認識の重要性だけであったのか?それだけではなく、日本のロシアに対する認識が領土問題以外、非常に薄いことによるのか?その辺りだ。

日本は江戸時代まで、北海道に対する意識は薄かったはずだ。というよりも「国」とは諸藩のことであって、外国に対する「日本国」との認識は一部のエリート、地域的関係者を除いてなかったに違いない。

明治になって諸外国との関係から国境を確定し、日本国を支配する政府が確立したことになる。このとき、北海道は植民・開拓の対象であって、先にも述べた国内帝国主義とも云えるものであった。それは台湾、韓国、中国への進出の先駆けであったかも知れないが、樺太・南千島へは大きく広がることはなかった。むろん、満州を越えてシベリアを対象とすることもなかった。

従って、ロシアに関する日本及び日本国民の関心も限定されたもので続いている。シベリア開発の話も、政治的なことを含めて様々な理由で浮き沈みしている。ロシアが北方四島に肩入れして強硬姿勢を貫くと平和条約もデッドロックになる可能性は十分にありそうだ。

      


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20世紀以降を揺るがす“革命”の行方~「有識者懇談会」報告は無視

2015年08月19日 | 歴史/戦後日本
「21世紀構想有識者懇談会」報告書(H27/8/6)の中で諸外国に注目されたのは、過ぎ去った20世紀に対する日本の歴史認識であって、21世紀の中で日本が今後に向けて何を行うか、ではなかった。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

報告書では、日本は満州事変から太平洋戦争(1931-1945)の15年戦争の期間だけを侵略期間として無謀な戦争を遂行したと断罪する。しかし、奇妙なことに、それ以前の韓国を足掛かりにした大陸北方へ向けての植民地化政策は不問に付す判断を提示する。
 『大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視』

それに対して、「報告」はウィルソン流の「民族自決」に高い評価を与える。当初は欧州社会を念頭においての提唱であった。これを日露戦争での日本の勝利を背景に、この勝利がアジア諸国への勇気を与え、それが「民族自決」と共振して、戦後のアジア諸国の独立に導いたと位置づける。

しかし、報告書はロシア革命から中国革命と続く共産主義革命については何も触れていない。更にナチスドイツ、スターリンの背景にあった汎ゲルマン主義、汎スブ主義に代表される民族主義についても無視する。

共産主義革命は周知の通り、集団農場制度としてのコルホーズ(ソ連)、人民公社(中国)での失敗でその意義を失った。更に、ソ連での粛清、強制収容所政策、中国での大躍進政策、文化大革命等で数千万人に及ぶ死者を出したと云われる。
ソ連はベルリンの壁崩壊(1989/11)によって国自体が消滅し、中国は毛沢東の死後(1978)に小平が市場経済の導入により、実質的に共産主義を放棄した。

しかし、特に中国は1954年のネール・周恩来会談で平和五原則を示しAA会議にも積極的に関わることにより、新興のAA諸国の独立、第三勢力として結集に大きな影響を与えたことも紛れの無い事実である。筆者はAA諸国に影響を及ぼした周恩来外交を中国外交の正の側面として評価して、それをAIIBに繋げることで歴史的な道筋を示すことが大切だと考える。

尤も、毛沢東主義に基づく革命の輸出という負の側面もあったことは確かで有り、それが現在の東シナ海、南シナ海での軍事活動に結びついているとの歴史的見方も可能であろう。歴史的の両者を冷静に評価し、現在との関係を導き、今後の方向性を示唆することが対中国外交として必要であろう。

現代は先進社会だけではなく、開発途上国においても情報空間の拡大と民衆の政治的覚醒によって、容易に政治的運動が起きる。内戦の様相を帯びる紛争は、暴力行使の社会化・大衆化の中で、拡大し、多くの民衆を闘いに引きずり込む。それはある面で革命の大義が民衆に訴える側面を持つことにもよる。

従って、私たちは「報告」が無視した“革命”とも、21世紀において付き合っていく必要がある。

    
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大陸帝国主義の先駆け、韓国合併~「有識者懇談会」報告は無視

2015年08月17日 | 歴史/戦後日本
「安倍首相談話」のベースを造った有識者懇談会報告は、第一章「20世紀の世界と日本の歩みと教訓」において、帝国主義による植民地化に関する部分を次の様にまとめている。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

「近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利して台湾を植民地化(1895)…」
「しかし、二十世紀初め、植民地化にブレーキがかかる。
1.1905年、日露戦争での日本の勝利
 (1)ロシアの膨張を阻止…
 (2)非西洋の植民地の人々を勇気づけた。
2.第一次大戦で米・ウィルソン大統領が掲げた「民族自決」の理念」

ここでは、日露戦争はロシアの帝国主義的膨張を阻止すると共に、特にアジア諸国の民族自決に勇気を与えたとして二重の功績を与えている。しかし、日本は台湾植民地化に続いて、日露戦争によって韓国を実質的に植民地化する。

年表を紐解いてみると、
 1905 日露戦争ポ―ツマス条約
 1910 日韓併合      1911 辛亥革命
 1912 明治天皇逝去
 1915 対中国21ヵ条要求 1914 第一次世界大戦勃発
 1918 日本のシベリア出兵 1917 ロシア革命成立

日本は韓国を大陸への足掛かりとし、北方へ向けての植民地化政策を着々と続ける。一方、世界は戦争と革命の時代へ入る。このコントラストの中に、日本のその後の政策が大陸帝国主義(ハンナ・アーレント)として示されている。しかし、懇談会報告では、この部分は無視され、1931年満州事変以降、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えたとする。

しかし、日露戦争以降、日韓併合を嚆矢として満州事変、日中戦争までは陸軍主導の領土拡大戦略であり、その連続性に注目しなければ、歴史認識としては不十分のように筆者には見える。

特に、先の年表で
「日韓併合」、「日本の対中国21ヵ条要求」、「日本のシベリア出兵」と続く部分は、戦争と革命の時代に突入した世界史的変化を受け止めることが出来なかった、極めて閉鎖的な時代認識が窺われる。そして、戦後の民主的でいて、なおかつ、閉鎖的な環境のなかで、現在に至るまで、引き続いている。


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「お城のサンマ」になった戦後70年の安倍首相談話~小骨も脂身もない

2015年08月15日 | 歴史/戦後日本
報道によれば、安倍首相は談話の発表に先だち、父親の墓参りを行い、記者団に「平和の道を歩み、豊かな誇りある日本を作ると誓った」と述べた。もちろん、これは言ったとしても“独り言”であり、個人の私的な発言に過ぎない。しかし、その独り言が、談話にまで繋がっているような奇妙な違和感が残った。

その談話は、どこに区切りがあり、何がポイントか、分かり難い構成をとっていた。それでいて、キーワードと云われていた過去の首相の発言、「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「お詫び」は全て入っており、また、「歴代内閣の立場は揺るぎない」との表現も加えられている。

しかし、今回の談話は結局、「お城のサンマ」になってしまった。
落語「目黒の秋刀魚」では、殿様が欲した焼きたての脂の乗った秋刀魚に対して、家来達が身をほぐし、小骨を取り、脂身も除いて、旨くもなく、生身の形も無いものを出した。形だけが整った「お城のサンマ」は、全く不味いものだった。

談話は何ともソツがなくまとまっている。戦勝国の寛大さに感謝もしており、米国には歓迎され、中韓台からは正面から文句がでる文章ではない。
しかし、文章は長く、冗長だ。戦後50年「村山談話」、戦後60年「小泉談話」と比べて、2.5倍以上の長さになるだろう。表現は多少の変化はあっても、基本的に立場を継承している以上は、内容に変化があるわけではない。従って、筆者には訴求する部分もない。

安倍首相は、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」との部分を新たに強調したかったとの説がある。

しかし、そうであるなら、「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」に「村山段及び小泉談話を継承します。」とのコメントを発表し、十年刻みの「談話」を取りやめにする方法も取れたはずだ。

しかし、それができないとすれば、「自ら蒔いた種」の尻ぬぐいをしただけになる。戦後世代は第二次大戦に対して何も責任はない。それを謝罪し続けているならば、戦争世代が自らの後始末の責任を果たしていいないだけなのだ。


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戦後日本の米国依存から国際化への道~「有識者懇談会」の解釈

2015年08月13日 | 歴史/戦後日本
戦後日本は米国に全面的に占領されたのであるから、その政策に選択の余地は無かった。永井陽之助の言葉を借りれば「日本は…選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造の中に編み込まれた」(「平和の代償」P80)のである。
逆に言えば、様々な国際紛争、内戦にコミットする米国が、沖縄基地を代償として、日本を安保条約によって保護する以上、日本と事を構える国はないのだ。
 『戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」報告への違和感150809』

その歴史的経緯を「有識者懇談会」報告は簡潔に、要領よく記述している。その意味で非常に参考になる。勿論、この種の報告であるから、すべてが自ら選択したかのように「戦後の日本は、戦前の失敗に学び…」との表現を使うことは免れない。学ぶより先に、米国からの強制があったのだ。

そこで先ず、戦後のマッカーサー改革から高度経済成長への道、になるのだが、日本のODA(政府開発援助)が始められたのは1950年代前半のことだ。ここが一つのポイントになる。というのも、戦後70年での積極的役割を一言で言えば、開発途上国への経済援助、それと共に日本企業による現地への直接投資と云えそうだからだ。但し、ここでの米国の後押しが無ければできないことではあるが。

高度経済成長後の1960年代後半以降における米国との経済摩擦及び1970年代における東南アジアとの軋轢、特にジャカルタ及びバンコクでの反日デモは、日本の自国中心の経済政策に対する強い批判と受け止めることになる。上記の直接投資はそれへの対応も含めてのことだ。

報告では冷静に、日本は政治的にリーダーシップを発揮できなかったとする。しかし、その役割を発展途上国への経済援助に見出し、それが間接的に国際秩序の形成に寄与したと述べる。

日本のOADの総額は有償16.6兆円、無償16.3兆円、技術協力4.7億円、合計37.6兆円に登り、89年には世界第一位となる。その後は97年をピークに減少し、順位も5位に落ちる。

他方、国際経済において、アジア太平洋域内の自由貿易の促進に貢献する様になってくる。APEC、ASEANから現在のTPPに至る90年代から2000年代に向けて経済的連携の組織化に日本は寄与してきた。

これに対して、軍事面での国際貢献は90年代が転機となる。報告書の言葉では、「戦後国際秩序の受益者からそのコストを分担する責任ある国へ」、少しずつ行動を進める。これを安倍首相は“積極的平和主義”と表現するが、単なる言葉の綾であることは最初に引用した記事でも触れた。

報告書では、PKO活動等に反して、半歩遅れの行動と辛く評価し、国際社会の要望に完全に応える形での貢献になってはいない、との総括を与える。
結局の処、報告書が主張するのは、この部分であって、米国の要求とは云わず、国際社会の要求とのすり替えを基調としている。それまでの記述は客観的表現を与える様に、具体的事項を冷静に記載に終始しているからだ。

そこで、最後の評価においても、報告書は日本が平和を享受できたのは日米安保による抑止力によるとする。その一方で、防衛費の見直し、明治以来の民主主義の評価を入れ込む。

日米安保の抑止力を持ち上げるのは、日本が米国に依存していることを強調し、相対的な独立のためには防衛費の見直しが必要との論理を構築するためである。また、明治以来の民主主義の評価は、満州事変以降の軍だけに戦争責任を転嫁するものである。明治から現代までは実は連続性を有するのだが、軍部の一部がそれを中断させ、中国、東南アジア、米国への侵略を図ったとの歴史に書き換えようとするものだ。

そのうえで、日本のナショナリズムを、明治維新を始点として民主主義イデオロギーの下に復興させ、軍事的行動を含めた国際貢献を強化し、戦後レジームの転換を図る試みと解釈できる。

      
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戦後日本の「平和」は選択ではなく拘束であった~「有識者懇談会」への違和感

2015年08月09日 | 歴史/戦後日本
「21世紀構想有識者懇談会」の報告書(H27/8/6)は次の内容になっている。
1)20世紀の世界と日本の歩みと教訓
2)戦後70年間、日本の歩みと評価
3)戦後70年間、各国との和解の歩み
4)21世紀の世界的ビジョンと日本の具体的施策

上記の報告をベースに首相談話が出されるわけだ。
この中で各国から注目されるのは1)と3)の部分であり、安倍首相がポイントにしたいのは2)と4)の部分だろうと筆者は推測する。このコントラスト自身が、日本の第二次大戦における無条件降伏を象徴するかのようである。

2)の正式な表現は「日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか」だ。ここでも安倍首相の意を汲んでか、“平和主義”を唱えている。それにしても、この長たらしい表現は何だろう?官僚主導で持ち込んだものとしか思えない。全体も顔や主張が見えない内容になっている。

先の米国議会において、安倍首相は"proactive contribution to peace based on the principle of international cooperation"(国際協調の原則に基づく、平和への積極的貢献)と述べ、対応の和文は「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義という旗」とになっており、一言で云えば、国際協調主義なのであって、平和主義ではないのだ。
 『日米同盟における「ナルシシズム」の姿~安倍首相の米国議会演説150516』

そもそも、平和主義などという主義は政治的には存在しないはずだ。マックス・ウエーバーに倣えば、「(頬を打たれならば)もう一方の頬をも向けよ!」(職業としての政治)である。しかし、これは倫理であって、政治では無い。

こんなことは普通の人であれば、誰でも知っていることで、であるから、日常的な平和が大切だと感じるのだ。逆に安倍首相の云うことが、無意識のうちに軽く感じられ、結果として中味がないとの印象だけが残る。

最近の世論調査で、支持率が下がっているのも、安保法制を語る首相の言葉が、中味のない概念に終始し、聞き飽きたとの感覚を国民の間に残しているからだとも解釈できる。それは経済においても同じで、今や、アベノミクスという表現も使わなくなっている様に感じる。両方合わせて、飽き飽きしているのだ。

戦後日本は米国の占領体制から、日米安保のもとで、米国の核のカサに入る。自前の軍隊は自衛隊という軽武装集団であった。冷戦体制であっては、日本を軍事攻撃する国は考えられず、また、米と中ソとのフロントラインは韓国、台湾、南ベトナムで構成され、沖縄だけが米国の主要な軍事基地として機能していた。その意味で日本は平和を選択したわけではなく、平和に拘束されていただけだ。

勿論、本格的な再軍備を吉田首相が拒否し、経済発展に特化したことは、一つの選択的な要素ではあったが、米ソの対立と核兵器の発達は、日本の埒外の話なのだ。国際協調も経済発展による貿易の飛躍的増加、それに伴う日米経済摩擦を引き金の一つとしていることも確かだ。必ずしも、日本が積極的に国際協調に向かったとは云えない側面もあるのだ。

サクセスストーリーは悪くないが、幸運・偶然の契機を認識し、別の道も可能性があったことを胆に銘じて理解しておく必要もあるのではないか。

      
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米国知識人、「黒人奴隷制度」を謝罪~慰安婦問題に関連して

2014年11月02日 | 歴史/戦後日本
10月31の朝日新聞によれば、ハーバード大教授の知日派であるジョセフ・ナイ元国防次官補は都内でのシンポジウムに出席し、慰安婦問題をめぐる河野談話の見直しは中国、韓国に日本を叩く機会を与えると述べ、懸念を示した。

一方、同席した米国のリチャード・アーミテージ元国務副長官も「我々の国では、アフリカ系米国人の扱いを謝罪してきたし、続けるだろう。百年で十分だということにはならない」と語った。

しかし、再度政治問題の中に手を突っ込むことは日韓双方にとって得策ではないことは冷静にならずとも容易に判ることだから、日本政府が再三にわたって言明している様に、河野談話そのものを見直すことは有り得ないと思う。従って、ナイ氏の指摘は杞憂なのだ。

それよりも筆者はアーミテージ氏が、シンポジウムの席で、慰安婦問題に関連して、黒人奴隷制度の謝罪に言及したことに驚いた。というのも、韓国からの様々な指摘は、当事国であるから仕方ない面があると思っているのだが、欧米からの指摘には違和感があるからだ。

特に米国を含む相当数の国の議会での非難決議、米国内での従軍慰安婦碑・像設置には驚いた。無関係の国が、それも事実をどこまで精査したのか、あやふやな知識、それ以上に政治的宣伝に等しい、性に絡んだ対日イメージをもとに行動している姿は不思議であり、何ともレベルの低さを感じていた。
碑には「日本帝国政府の軍隊によって拉致された20万人以上の女性と少女たち…」と書かれているという。
 『米国での従軍慰安婦碑・像の設置130913』

更に、それに呼応するように、日本の国内において、朝日新聞の様に、虚偽の情報を意図的に流すマスメディア、それを利用する政治家とその取り巻きが問題を増幅している。これが単に国内問題であれば、政治的に忘れられることで済む。しかし、外交問題になると、拗れて収束しない。

従って、戦後の米国主導による日本の民主主義改革において、慰安婦問題は戦前における残された負の遺産として、対米問題になった感がある。ここに米国の尊大さを感じ、政治的に反発する層が励起する現象が日本の中で起こる。

「アンクル・トム」の話は小学生のときに読んだ。世界史の中でも南北戦争とリンカーンによる黒人奴隷の解放は米国民主主義の象徴的事象として教えられた。しかし、その後も黒人は人種差別問題で苦しみ、キング牧師の活動は日本の教科書にも載るレベルで知られている。そうだとすると、米国内で黒人奴隷碑・像設置がされたとしても不思議ではない。
 『米国での従軍慰安婦碑・像の設置(2)130914』

しかし、そうならないのは終わったことを掘り返し、様々な人たちの様々な感情を呼び覚ますことに対する自制であろう。これが常識の基づく態度だと思うからだ。常識とは、歴史を学ぶという一コマのなかで、冷静に認識を築くことに他ならない。その意味で、池田信夫氏が事実を広く知らせ、少しでも誤解を解くように努力していることは、質の高い仕事であると評価する。それは日本の「黙殺文化」を払拭し、外に対して自らの見解を明らかにすることに繋がるからだ。
 『外国に対する「黙殺文化」と直截な翻訳表現130618』

おそらく池田氏の発言(例えば)と、それを受けて虚報を認めざるを得なかった朝日新聞の報道が、「事実の圧力」として今回のアーミテージ氏の発言へ働いたと感じる。遅まきながら「米国の黒人奴隷問題」を持ち出すこと無しに、「日本の慰安婦問題」に触れることはできないとの自己認識にアーミテージ、ナイ両氏が到達したのであれば、日米間の対話の方法として、一歩前進が得られたと思う。

「アメリカの社会体制と価値体系の構造的矛盾は、「黒人」の存在様式そのものに凝結されている」。
(永井陽之助「なぜアメリカに社会主義があるか」「年報政治学」(1966))
この論文後、約50年が経過し、オバマ大統領が既に誕生した。米国は、感情的ではなく、冷静な歴史認識として黒人問題を振返ることができるか?

「1500万人の奴隷を「強制連行」して、その所有権を憲法で公認していたのだから、これはホロコーストにも比すべき大規模な国家犯罪である。」(池田信夫ブログ)のだから、慰安婦問題と比べ得る問題ではない。


           
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日本は中立冬眠国家~占領当初の米国構想

2014年08月30日 | 歴史/戦後日本
昨日の記事でNHK番組において、吉田茂が日本独立の際の防衛構想として、憲法九条を盾に、「日本の防衛を国連軍に委ねる」「北太平洋地域の非武装化」を提案として用意したことが明らかにされた。
 『冷戦下における「運命・選択・決断」140828』

番組では、前者は1951年、米国のフォーリンアフェアーズ(FF)誌に発表されたとされた。偶々かどうか、FFリポート誌7月号に「特集 吉田とケナンは日米同盟をどう考えたか」が組まれ「冷戦と日本の安全保障」と題したその論文の一部が掲載されている。

折角の機会だから紹介しよう。公開されたのは、以下の「冷戦と日本の安全保障」の部分である。
(論文構成は以下の順:「講和の見通し」「冷戦と日本の安全保障」「日本における共産主義」「経済復興の布石としての講和」「講和と日本の精神について」)

その論理に吉田の苦心が滲んでいるが、言っていることは極めて単純だ。
「講和条約締結に伴う最大の問題は日本の安全保障である。…日本を完全に非武装化したことにより、連合国の日本に対する安全保障上の懸念は取り払われている。…日本は戦争を放棄し、あらゆる武力を否定する新憲法を制定した。

…日本は天然資源に乏しく…鉄鉱や鋼鉄、石炭、石油等の必需品の供給を止めれば、行く手を阻まれる。…日本が脅威となることは決してない。一方で、日本が懸念すべき脅威が存在する。…ヨーロッパ、アジアでの冷戦に伴う醜い現実、特に共産主義軍事勢力の台頭だ。…朝鮮戦争が雄弁に物語っている。
…占領軍が撤退すれば、非武装の日本はどうなるか。…侵略された韓国に対して国連軍が迅速に救援にかけつけ…激しく戦っていることに感銘を受けている。

…国連の強い希望と意志がこの派兵によって示された。…日本の自由と独立のために我々は国連を頼みとしていく。…我々も国連による極東の安全保障の枠組の構築に参加できるようになることを期待している。」

一方、ケナンも吉田に続いて寄稿し、次のように述べている。
「マッカーサーは、少なくとも1948年当時は、米国、日本の安全保障のために、日本に米軍を恒常的に駐屯させる必要は必ずしもないと考えていた。彼が考えていたもっとも好ましい方策とは、日本が国連の監視下に入り、米国の利益に反しない形で、非軍事化、中立化されることだったようだ。」

この方が重要な指摘だ。番組では1948年当時の状況まで及んでいないからだ。

先に記事で、永井陽之助「平和の代償」の中の「日本は、敗戦後、選択によってではなく、運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編み込まれたのである。これは米国も同様である」という言葉を紹介した。それは本の中核部分『日本外交における拘束と選択』での「国際政治の基本構造」の冒頭に書かれていた。

しかし、1945年のヤルタ会談では戦後世界における基本構想を8日間に亘って話し合った経過があり、これはウィーン会議の多角的交渉に擬せられる内容を含んでいる。その内容とは、五つの争点、ドイツ賠償、ドイツ分割、フランスの役割、ポーランド、国連の各問題に対して争点毎の交叉連合が形成されて、交渉は可能だった。冷戦二極構造に至るまでには、終戦から少し時間があった。

また、ケナンがソ連封じ込め政策のもとになったと云われる有名なX論文をFF誌に発表したのは1947/7であったから、米国内での戦後政策は冷戦に収束するまでには揺れ動いていたのだ。

更に永井は次の様に云う。
「米国は、極東での日本の軍事力が解体した後、そこに生じた力の真空を埋めるものについて、明確な考察を欠いていた。…その当時、日本を共産主義の膨張に対する防壁にするという考え方は、必ずしも文武一般の意見ではなかった。

「…マッカーサー元帥は次の大戦で「日本が戦うことを欲しない」と常に主張していたし、米国の防衛戦略での日本の役割は「日本が中立に止まることだ」と「太平洋のスイス」としての日本の中立化が米、ソ、英の三国によって確保されると楽観的に考えていた。…憲法第九条は、かかる蜜月時代の残像を反映している」。

当時の日本に対する米国の構想は、あったとすれば、「中立冬眠国家」だ!

しかし、日本人は吉田ならずとも、それは拒否したのだ。破壊されたその只中で眠るように生きることはできない。ともかく、国家として不満であっても、社会として復興することだ、米国的生活を目指して…そこで、国家を守る軍備など不要なものは出来るだけ持たない、と意思したのだ。

      
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