散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

戦争と革命~H・アーレント「革命について」

2015年02月26日 | 政治理論
ここのところ「イスラム国」問題に囚われて、表題の「戦争と革命」に関する永井陽之助の諸著作と関連の文献を読み返すのに精一杯で本ブログの更新が疎かになっている。

何か書こうとのアイデアは浮かぶのだが、何かまとまらず、どこかで筆が止まってしまう。勿論、筆者の未熟と致す処であり、判っているのだが、1年間程度の時間をフルに使って認識を新たにする必要があるな、との感想を禁じ得ない。

直ぐにはできないから、学び直したことから少しずつ、自分に明らかにすることを念頭において、書いていきたい。このブログも2011年5月2日に始めて、4年経過しているので、乗り換えて気分一新を図るか?考えてみよう。

さて、民族自決を際限なく進めていけば、世界が“バルカン化”する。更に、それに伴って、“確信者”の人間類型が見られる。様々な形で、少数者であるが、確認者を生みだし、それと共にバルカン化が進む。
 『イスラム国による人質事件~世界の“バルカン化”150121』

報道によれば、イスラム国には、欧米諸国からも若者が集まるということだ。彼らは確信者なのだ。かつて、大学紛争の時代は、日本及び欧米諸国の国内において、確信者の群れが作られた。その中から、過激派集団が生み出され、日本国内の集団において、中核対革マル等の過激派内ゲバが始まった。その後、更にテロ、ハイジャックに及ぶことになった。

19世紀初頭、イベリア半島におけるナポレオンの侵略に対するスペインのパルチザンが、現代の「戦争と革命」におけるゲリラ戦の嚆矢であったことをC・シュミットは「パルチザンの理論」(1963)で指摘した。その闘いは、二つの大戦、レーニン革命、毛沢東革命、アルジェリア戦争、ベトナム戦争を通し、1978年のイラン革命以降のイスラム原理主義の対応に至るまで、継続している。
 『現代ゲリラ戦の起源、19世紀初頭の半島戦争150205』

現代革命の政治哲学的理解を通して戦争と革命の関連を論じたのがH・アーレント「革命について」(中央公論社1975)であった。永井陽之助は『政治的人間』(「柔構造社会と暴力」所収)のエピグラムに「今日、世界を二分し、そこに多くが賭けられているコンテストにおいて、おそらく革命を理解するものが勝利を収めるだろう」とのアーレントとの言葉を掲げた。
 『ハンナ・アーレント(3)~「革命論」についての永井コメント131125』

更に、永井は続けて以下の様に述べた。
「核兵器の出現によって、戦争を正当化する理由付けが一切不可能になった以上、逆に大国間の恐怖の均衡が、権力政治の手詰まりを生み出すに至った。そのため、暴力行使の内政化を生み、過去二十世紀を通じてよりも、もっと革命が重大なものになるという、女史の鋭い洞察とやや悲観的な危機意識のなかに、「革命について」の真価があるように思われる」。

永井はこれを約50年前の1968年に書いた(永井編「政治的人間」所収)。アーレントの「革命論」の原著は、その5年前の1963年に出版された。革命の重大性に対する両者の問題意識の「射程の長さ」は、今日のイスラム国の出現で明らかだ。
更に永井は次の様に述べる。

「今年(1978年―筆者注)始め、『フォーリン・アフェアーズ』がその56年にわたる長い歴史上初めて「号外」特集号を出した。「米国と世界―1978年」を特集したことが示す様に、スタンレー・ホフマン教授を含めて多くの論者が、1978年こそが戦後世界政治の一大転換期であることを認め、特に米中国交正常化とイラン革命の重要性を挙げている…」(「時間の政治学」(中央公論社1979)あとがき)。

動向の予測が、直ちに対応策に結びつくわけではない。しかし、深い理解によるに基づく予測はベターな政策に結びとけられることは確かだ。そうだとすれば、深い理解とは何であり、どのような見方が優れた予測の基盤になるのか、それを獲得する様に、優れた先人の努力の軌跡を辿ることが一つの方法になるはずだ。

      
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「だれ」と「いつ」の重要性~政治と経済との違い

2015年02月18日 | 政治理論
「経済学者のサミュエルソンは、教科書『経済学』の冒頭で、経済とは、以下の問題であると指摘している。
 『何を』(What)、
 『いかにして』(How)、
 『誰のために』(For Whom)」
 
「政治学者のラスウェルの著書題名『政治―だれが、何を、いつ、いかにして得るか』が示す様に、政治・外交の世界では、以下の契機が重要性を持つ。
 『だれが』(Who)―行動主体
 『いつ』(When)―タイミング」
 (永井陽之助『“世界秩序”の時間的構造』「時間の政治学」所収)

従って、国際社会において、「近代化の地球化」によって生じた新たな諸問題―環境、資源、エネルギー、海洋、世界貿易、人権、南北問題等―のグローバルな課題は、誰にでも共通な普遍主義的な技術・経済の社会工学的な側面を重視する議論に繋がり易い。

しかし、これらの争点はTTP交渉に典型的に表れる様に、依然として国家間の「交渉」「協議」「対話」といった政治的活動によって、「政治的」に解決する他に無い問題なのだ。

国内問題も、国際的課題ほどではないが、然りである。また、国際問題とリンクして課題が提起されれば、その複雑化は一国を越える問題ともなる。この場合、“時間”の要因が強く働く。

最近、原発再稼働の課題が、漸く政治課題として取り上げられてきている。地震・津波による福島原発事故後、約4年、経済問題が政治問題として取り上げるまでの時間が必要だったのだ。

報道によれば、安倍首相は18日、参院本会議での代表質問で「国民生活や産業活動を守る責任あるエネルギー政策を実現するには、世論調査の結果だけをみて安易に原発ゼロというわけにはいかない」と述べ、政府方針通り原発再稼働を進める考えを示したとのことだ。

ご同慶の至りであるが、再稼働の必要性に関しての判断は今に始まったことではなく、福島原発事故がある程度の収束をみた後には、問題になっていたはずだ。特に、原油価格が今のように下落する前である。

今頃、大見得を切るが、首相として勇気を出さなければ行けない時期はとっくに過ぎている様に思える。行政が引いた路線を追認しただけで、政治的リーダーシップを発揮したわけではない。

また、再稼働の前提になる地元同意の対象範囲について、首相は「各地の事情がさまざまなので、国が一律に決めるのではなく、各地とよく相談して対応することが重要だ」と述べた。これも行政の書いた答弁書の棒読みの様だ。

これが日本の政治の象徴的側面になる。そこには、「行動主体」と「タイミング」の軌跡が刻まれているわけではなく、行政という執行機構の無名性と見えざる手による既成事実の積み重ねがあるだけだ。

ハンナ・アーレントの言葉を借りれば、“Ruled by Nobody”の世界なのだ。

     
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「絶対の敵」の必要性~現代の革命的ゲリラ戦

2015年02月15日 | 政治理論
スペイン半島戦争でのゲリラ戦を嚆矢として、現代の革命的ゲリラ戦へと繋がることは、カール・シュミット「パルチザンの理論」(1963)の指摘である。
 『現代ゲリラ戦の起源、19世紀初頭の半島戦争150205』

この著作は4年前弱に「敵概念」の枠組、特に絶対の敵の説明で紹介した。
「絶対の敵」は、侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージとして現れた。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となり、「在来の敵」「現実の敵」と区別される文明の敵、人類の敵、階級の敵、民族の敵になる。
 『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~110618』

上記の著作は、永井陽之助が編集した『政治的人間』(平凡社1968)の第二論文として取り上げた。この本には、氏による「解説 政治的人間」が付けられ、そのなかで、次のように云う。

「パルチザンの存在様式の仕様は、以下の4点で、
1)非正規性
2)高度の遊撃性
3)政治的関与の深さ
4)土着性・防御的性格」
更に敵概念の新しさ、「絶対の敵」が加わる。」

「敵への無条件降伏要求という形で終結する第二次世界大戦の様な全面戦争では、平和条約は、敗者に対する勝者からの有罪判決という性格を帯びる。そこでは東京裁判で明らかな様に「犯罪者としての敵」概念が登場する」。

「19世紀の唯一の全面戦争であった米国南北戦争が敗者たる南部に対する無条件降伏で終わったことに象徴される様に、伝統的な在来型戦争の中に「内戦」の論理が無制限に浸入し始めてくる」。

これを逆に言えば、「絶対の敵」と規定すれば、どのような残酷なことでも、行って良いとの論理を作ることもできる。
政治的イデオロギーの終焉という説は、確か、ダニエル・ベルが1960年代に言い出したことで、現代では、フランシス・フクマヤが後を継いでいるかのようだ。しかし、代わって民族的・宗教的な主張が「絶対の敵」を生み出している。

4機の飛行機をハイジャックし、うち2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入、見ず知らずの市民約3千人を死に至らしめた2001/9/11の同時テロのすさまじさは、「絶対の敵」概念によってのみ説明可能である。

更に、問題は残虐性を帯びた人間がその組織の中で浮かび上がらせることだ。ナチスドイツは精神異常者まがいの人物が多くいたのも、故無しとしないのだ。

しかし、これはパルチザンの様式である「4)土着性・防御的性格」から著しく逸脱する。何故なら、「絶対の敵」とは極めて抽象的な概念であり、現代の通信・交通を駆使すれば、どこにでも攻撃可能になるからだ。

かくて、「絶対の敵」の象徴的な心臓部を攻撃することによって、ビンラディン個人がアメリカの“正義の戦争”の対象になった。オバマ大統領の『正義はなされた』は、その間の経緯を「正確に、かつ、冷徹に」一言で表している。

イスラム国に関しても、内部での組織的決定はつまびらかにされていないが、強硬派が主導権を握っているように思える。おそらく、「4)土着性・防御的性格」を考える人たちもいるはずである。オバマ大統領は、その絶滅を公言しているが、それと共に、内部分裂を誘う作戦も必要に思われる。

      
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西欧の平和は「政教分離」と「政経分離」で~「平和の代償」永井陽之助

2015年02月12日 | 永井陽之助
「…16-17世紀の長いヨーロッパの宗教戦争の中から宗教的寛容の精神が次第に芽生え、成長していったが、当時、この信仰と神学上の原則は、すべて妥協の余地無く、反対派の絶滅以外に、一方の勝利を確保する道がないと思われていた…」、昨日の記事に引用した部分に続く、永井陽之助「平和の代償」からの引用だ。
 『カトリック教会、信仰の自由を承認1965年150212』

「ヨーロッパは自殺しなかった。やがて、融和しがたい原則上の葛藤が、現実の上で妥協に成功したからだ。その秘密は政教分離と政経分離であった。宗教的、イデオロギー的次元と経済・外交・政治の世俗的次元が、それぞれ多次元的に分化し、それぞれの役割学習の過程を通じて、平和共存が可能となった」。

しかし、宗教と民族が絡んだ争いは決して死火山ではないことは、ユーゴ紛争から現在のウクライナ紛争に至るまで、ヨーロッパにおいても明らかである。更に、イスラムにおいては、1978年のイラン革命以降、政教分離だけでも容易ではなく、また原油に依存する経済も政治との切り離しは大きな課題である。

「…その信仰上の敵対感をイデオロギー的、政治的次元に噴出するのを抑止したのは、現実の「政治家」の力であり、「平和」を心から願い、「平和」を宗教上の「正義」の価値より上位におく一般民衆の素朴な願望と努力の所産であった…」

「…日本では、まだ、“平和”と“正義”が一致すると考える知識人が多いが、核兵器の出現ということの尤も深刻な意味は、革命的正義は消滅したということである…」。

ここで、「平和」と「正義」を対置することが重要だ。命あっての物種であって、素朴に紛争を回避するのが一般庶民なのだ。この辺りの考え方は、終戦直後、坂口安吾「堕落論」に衝撃を受けた永井らしい発想だ。

「…重要な点は、この宗教的妥協の成功した現実的基礎には、近代国家の成立という重大な契機があった。それが民族統一の政治的凝集力として働き、新旧両イデオロギーの対立を緩和したのである。この歴史のアナロジーは明らかである…」

近代国家が成立し、1684年のウエストファリア条約によって、ドイツ三十年戦争は終結をみるが、その平和は1776年のフランス革命と、その後のナポレオン戦争によって打ち破られる。

そこでは、ナショナリズム、人権宣言に基づく自由・平等が新たなイデオロギーとして登場した。宗教の上に更に、ナショナリズムが噛み合わされ、自由・平等の政治的イデオロギーも活発に用いるようになった。それでも1814年のウィーン会議によって、平和の構造は取り戻された。

永井の指摘の様に、近代国家の出現によって、ヨーロッパは戦争を制御し、戦争が勃発しても、それを平和へ変換することを可能にしていた。それは稀な時代だったのだ。その意味で現代の紛争と対立においても、示唆を投げかける例となっている。

      
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カトリック教会、信仰の自由を承認1965年~「平和の代償」永井陽之助

2015年02月11日 | 永井陽之助
カトリック教会が信仰の自由を認めたのは、1965年11月19日のバチカン公会議での宣言の承認によってである。これは非カトリック教徒が良心に基づいてそれぞれの信仰を持つ権利を認めたもので、その歴史的意義はカトリック教会だけのものではなく、少なくともキリスト教全体の統一にも関わるものだ。

筆者がこれを知ったのは、永井陽之助「平和の代償」(中公クラシックス)の中の『日本外交における拘束と選択』(初出「中央公論」1966/3月号)である。この記述は論文の最後に、歴史認識に基づく氏の平和への方法論として書かれたものだ。

続いて氏は次の様に云う。
「ベトナム戦争や日韓国会の影に隠れて、このニュースは日本ではあまり注目を引かなかったようだが、私には、今更の様に、キリスト教の持つ不寛容性、妥協しない西欧的イデオロギーの強靱さを却って思い知らされた。
現代という一種の“宗教戦争”の時代に生きる、我々にそれは無限の歴史的教訓を与えているようである。」

これは1965年当時の認識だ。それも日本の中で注目を引かなかったなかでのことだ。50年後の2015年の今、私たちは無限の歴史的教訓を与えているものとして、受け取らなければならないとの認識にようやく達する処なのだ。

それにしても、一つのニュースからキリスト教の不寛容性を嗅ぎつけるには、それ相応の問題意識とアンテナの感度の良さを必要とする。その感受性は、次に述べる認識にも到達するのだ。
「しかし、バチカン公会議が、今更の様に、我々に想起させたことは、新旧両派の宗教上の争点は、今日、なお、死火山では無い、ということであった。むしろ、いつ活動するかわからぬ危険性を常に持っている。」

イスラム原理主義が台頭し、イスラム国が忽然として出現したからだけではなく、ロシアが絡んだウクライナ紛争もカトリック対正教の宗教上の対立も含んだ文明の衝突に他ならないと思えるからだ。

筆者は大学2年生のときに「政治学」を受講し、特に教科書ではなかったが、関心に任せて「平和の代償」を読んだ、1968年の夏休み頃だと思う。何で今頃になって、「信仰の自由」なのか。随分と前に新旧宗教は平和共存に向かって妥協したはずなのに…、他の宗教に対する信仰の自由を公に認めたのは、つい最近のことなのか、と思ったのを覚えている。

改めて、50年前へ時計の針を戻すのではなく、タイムスリップしてみると、永井の認識をどのように受け止めるのだろうか。

時まさに、独ワイツゼッカー元大統領の国葬が営まれ、日本の報道では「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」ということばで、ナチス・ドイツの罪を直視するよう呼びかけ、周辺国との和解に貢献した」と力説していた。これもまた、強靱な西欧イデオロギーを想い起こす言葉になるだろう。

      

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首都圏及び地方の中心都市へ人口移動~住民基本台帳(2014年)

2015年02月07日 | 現代社会
住民基本台帳による2014年人口移動報告」全体概要
首都圏は23区及び横浜、川崎、さいたま、千葉の政令市に人口が集まり、更に川口、流山、藤沢等の衛星市が人口増地方も中心都市への人口移動が進む。
 http://www.stat.go.jp/data/idou/2014np/kihon/youyaku/index.htm

1.全国の移動状況(移動人口980万人、11年連続減少)


 
市区町村間移動者数は490万8千人、11年連続減少
都道府県間移動者数は225万9千人、3年連続減少
都道府県内移動者数は264万8千人、2年ぶり減少

2.都道府県別の転入・転出超過数(転入超過は7都県)


 
首都圏:東京+1.3万、神奈川+0.1万、埼玉+0.4万、千葉+0.6万
    (前年9万5千人増、2014年11万9千人増)
他に人口増加の都道府県は愛知、福岡、宮城

3.大都市圏の転出入(首都圏だけ増加)


 
3大都市圏全体:9万7千人転入超、前年比で7千人増加
首都圏:10万9千人増加、前年比:1万3千人増加、19年連続増加
名古屋圏:千人減少、2年連続減少
大阪圏:1万2千人減少、2年連続減少

4.市町村の上位転出入(上位8位まで政令市)


 
 23区に続いて、札幌、福岡、大阪と地方が2-4位に続き、名古屋も昨年同様に8位、仙台11位と地方の中心都市に人口が集まる。他は吹田を除いて13市が首都圏のベッドタウンとして人口が増加。

      
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イスラム国を考える~Foreign Affairs Japan News Letter(1/30)

2015年02月06日 | 国際政治
イスラム国を考える」を特集している(1/26)。欧米の専門家・有識者がどのように考えるのか。多様な意見は問題の深さを垣間見ることができる。

イスラム国に参加するトルコの若者たち
        ―過激化するトルコ社会」
 (フォーリン・アフェアーズ リポート 2014年12月号)
ギュネス・ムラット・テズクール ロヨラ大学准教授(政治学)
サブリ・シフチー カンサス州立大学助教(政治学)

約千人のトルコ市民がイスラム国に、数百人がシリアのアルカイダ系組織・ヌスラ戦線に参加しているとメディアは伝えている。だが、トルコとシリアの国境管理がずさんであることを考慮すれば、こうした数字はトルコへのジハード主義の浸透、そしてリクルートの実態を過小評価している。

驚くべきは、トルコからシリアへ向かったジハードの戦士の多くは、貧困に苦しむ、社会から隔絶された若者たちではないことだ。彼らは安定した家族のなかで育まれ、力強い共同体のネットワークのなかで暮らしてきた。

どう考えても、トルコでは非常に特異的な何かが進行している。これは、公正発展党(AKP)が中核的な支持基盤にアピールし、より敬虔な社会を実現しようと、イスラム組織を資金援助したことと関係がある。イスラム主義の社会的活動が盛んになっただけでなく、そのなかで、過激主義も育まれてしまったのだ。・・・

イスラム国のアジアへの拡大
ジョセフ・リョー・チンヨン ブルッキングズ研究所 シニアフェロー
 (フォーリン・アフェアーズ リポート 2014年11月号)
東南アジア諸国がもっとも警戒しているのは、国内のイスラム教徒がイスラム国のイデオロギーに感化されて中東に渡り、イスラム国の一員として戦い、最終的にその過激思想をアジアに持ち帰ることだ。

すでに、世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア政府は、50人以上がシリアとイラクで戦闘に参加していることを確認している。マレーシアからは30―40人がイスラム国に参加しているとみられる。しかも実際の数はこれよりもはるかに多い可能性がある。

なぜイスラム国に魅了されるのか。一つには、イスラム国の活動に「終末のカリフの国」が誕生するというコーランの予言とのつながりを彼らが見いだしているからだ。「イマーム・マフディ(黒い旗を掲げて戦うとされるイスラムの救世主)の勢力と、ダッジャール(偽預言者)の間で終末戦争」が起きるという予言に彼らは現実味を感じている。

イスラム国と中東の未来
エド・フサイン 米外交問題評議会シニアフェロー(中東問題担当)
ジャニーヌ・デビッドソン 米外交問題評議会シニアフェロー(国防政策担当)
 (フォーリン・アフェアーズ リポート 2014年10月号)
空爆でイスラム国の勢いは止められるかもしれないが、粉砕することは不可能だ。イスラム国がシリアに聖域をもっていることも考えなければならない。イスラム国の問題を簡単に解決する方法はなく、長期的なアプローチをとるしかない。これまでの経験からみて、10-15年という時間が必要になるだろう。
 (J・デビッドソン)

われわれはイスラム過激主義に魅了されるのは愚かで、社会から孤立したアブノーマルな人物だと考えがちだが、彼らは自分のことを過激派とは自覚していなし、アブノーマルだとも考えていない。むしろ「自分はいたってノーマルだ」と考えている。神の期待に即した活動をしていると信じているからだ。
 (E・フサイン)

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現代ゲリラ戦の起源、19世紀初頭の半島戦争~イスラム国から遡る

2015年02月05日 | 政治理論
日本ではスペイン独立戦争またはスペイン反乱とも云われるが、ここでは、半島戦争(1801-14年)とする。遡って、ナポレオン戦争の最中、イベリア半島でスペイン、ポルトガル、英国の連合軍と仏帝国軍との間で戦われた。

この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはアーサー・ウェルズリーに率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである

戦争はイベリア半島の性質に左右された。土地が貧しく、大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りない。痛がって、軍を養うのが難しく、フランス軍はピーク時で3万を数えたが、軍を集結できなかった。小部隊による限定の地域、期間での戦闘となり、決定的な結果を出すのには困難であった。
(以上、ウキ参照)。

この半島戦争でのゲリラ戦を嚆矢として、現代の「戦争と革命」への繋がりを指摘したのは、カール・シュミット「パルチザンの理論」(1963)であり、1962年の2件の講演をまとめたものだ。

ヨーロッパにおいて、フランス革命とナポレオン戦争を契機に、民族主義をエネルギー源にした対立・紛争が沸き上がるようになった。それは従来型の限定された戦争ではなく、民族主義の情動を組織化して行われる対立となり、容易に収束が利かなくなった戦争へと発展した。

ポイントはスペインの背後に英国がいて、「英ースペイン対仏」の構造になっていたことだ。例えば、ベトナム戦争においては「北ベトナムーベトコン対南ベトナムー米国」の構図と類似である。北ベトナムの背後には更に中ソがいた。

シュミットは、その序論で次の様に云う。
「パルチザンの問題について、我々の考察の出発点は、スペイン人民が1808年から1813年までの間において、外国の征服者の軍隊に対して行ったゲリラ戦である。この戦争において、初めて人民はー市民以前の、工業化以前の、在来型の軍隊以前の人民ー近代的な、フランス革命の経験から生まれ、良く組織された、正規の軍隊と衝突した。」

「それによって、戦争の新しい空間が開かれ、戦争追考の新しい概念が開発され、戦争と政治についての新しい理論が発生した。パルチザンは非正規的に戦う。しかし、正規な闘争と非正規な闘争との区別は、正規なものを性格に規定することに依存する。」

そう考えれば、日本の歴史においても、一向一揆に代表される宗教的なるもの、日本武尊対熊襲、八幡太郎義家対蝦夷の対決は敗者のほうにパルチザン的なものが認められる。近代中国における毛沢東の出現も梁山泊の伝統を引き継いでいるとも解釈できる。

即ち、ゲリラ戦的なるものは、混乱期、支配の脆弱地域において、いつ、いかなる状況においても表れうるものなのだ。

シュミットは世界史的視野から「クラウゼビッツからレーニンへ」「レーニンから毛沢東へ」「毛沢東からラウール・サランへ」と展開する。これが現代的形態の継続だからだ。
それは、現代のイスラム原理主義を掲げるゲリラ・テロ勢力に繋がってゆくのだ。世界的人口から見れば、少数であっても、根の深い問題なのだ。

      
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