in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

Day8 ゴルフクラブ避難所

2010年02月28日 | Haiti
日曜日、被害の様子と仮設住宅で使える部材の参考に、市内の被災地を見回ることにした。
まずは、報道で有名となった避難所となったゴルフ場(写真)。集落ができていた。

この付近の周辺の様子をGoogle Earthの地図で表示するとひしめき合っている様子がすぐわかる。被災者数は2万人ほどで、想像を超える現実。マーケットエリアやテレビ観戦場所、散髪屋などが自然発生していた。これは解決するのに数年はかかるだろう。

Day7 停滞

2010年02月27日 | Haiti
緊急支援にかかせないのが物資や資材を保管する倉庫。地震で既存の倉庫はどれも使えないので、ご近所のWFP(国連世界食糧計画)の仮設倉庫を参考に見に行く。幅30mに奥行き100m、とてつもなくでかい(写真)。業者と構造の話をしていて、数値は忘れてしまったが突風にも耐えられるとのこと。フレームはドイツ製でアメリカで他の部品をそろえたらしい。いかにもアメリカ人が考えそうなテント倉庫だ。

スリランカから自分が手塩にかけて育ててきた技術スタッフが出張で応援に来てくれた。1を言ったら、4とか5まで先を考えて準備してくれるので、あまり周囲の協力が得られないこの状況での彼のサポートは百人力。言葉の不便さは昨日から手伝ってくれる学生君らの力を借りて何とか克服する。いまさらながら、スリランカの職場はなんと恵まれていたのかと再認識する。

で、サンプル仮設住宅の進み具合はゼロ。ハイチの技術職員が提案した金具が手に入らず、職人らはそれがないと何もできないの1点張り。学生も交渉ごとにはなれておらず、はいそうですか、で引き下がってしまう。明日は日曜日で、働かないとのこと。いったいどうなることやら。

Dekotra

2010年02月27日 | Haiti
ハイチのデコトラ(デコレーション・トラック)ならぬデコバス(写真)。自己主張しまくり。魚がモチーフになってるのは、海沿いなので魚が生活と密接に関わっているからか?
いろんなデザインのものが街中にわんさと走っている。

Day6 被災者第一

2010年02月26日 | Haiti
朝は、仮設住宅の動向を知るために他機関との調整会議に参加する。約50団体80名ほどの参加者で、デザインについて、需要について、土地のアセスメントについて、既存住宅の構造点検について、報告や話し合いがなされる。予想通りの内容で、土地と材料の確保が今後の一番の課題と確信できた。

それにしても政府代表の人には、個人的な意向ではなく、国の姿勢として発言してほしいものだ。上の方針が決まらないので意図的に避けているのか(だったらすごい)、単に復興支援や会議の本質がわかってないのか。また、会議では各機関の思い入れやプライド、資金提供団体(ドナー)の意向が渦巻いていた。被災者第一のはずが。

ハイチ復興の仮設住宅に関する資料は、議事録などの情報はWebsiteで管理されている。入手しやすいが、情報がありすぎて、調べたいことや本質に届くまで時間がかかる。
http://groups.google.com/group/shelterhaiti2010

サンプルの仮設住宅は、ようやく全材料が揃った。嬉しいことに昨日つてのつてを頼って声をかけハイチで工学を専攻する学生(最終年度)が2人手伝いにきてくれた。早速、通訳、現場の見張り、積算・部材表や図面の修正をお願いする。メモを取ったり資料に目を通す姿はとても真剣(写真左の2人)。自国の復興に携われることを誇りに感じてやってきたそうだ。彼らを通して私も学ぶことがある。英語が通じるのでとてもありがたい。日本人に初めて会ったというが、私でよかったのか。

Day5 ようやく始動

2010年02月25日 | Haiti
職場兼住居のある敷地はとても広い、ちょっとした大学構内よりも広い。もともとMINUSTAH(国際連合ハイチ安定化ミッション)のlog baseで、そこに地震で事務所の被害を被った国連機関が集まってきた。ミーティングをするには都合が良いし、併設された食堂への職場から約800mの道のりは運動にちょうど良い。トイレやシャワー施設が少ないので、毎回並ばないといけないのが難点。

そんな環境でスリランカの援助活動でかつて一緒だった人々と数年後に地球を半周して再会する不思議さ。まあ業界としてはよくあることらしいが、今日までに10名を超える知り合い(他機関所属)と出会った。

サンプルの仮設住宅の建設がようやく始まる(写真)。

Day4 被災地見学

2010年02月24日 | Haiti
これから1万棟の仮設住宅を建てるにあたり、サンプルをつくることとなった。ちょうど1年前の慣れない土地で苦労したサンプルの仮設住宅のことを思い出す。

発注した1棟分の材料が届くのを待つ間、被災キャンプで被災者の登録を行う同僚チームに同行し、被災地を見に行く。Port au Prince市内のChamp de Marsという約5千世帯が避難生活を送る地域に入る。5年前の津波後のスリランカにおける仮設暮らしの様子と、使う部材や料理スペースなどの生活感がすごく良く似ている。テント業界の5年間の進歩もあるのだろう、面白い構造のテント(アルミ材をたわませて、その張力でテント膜を吊るものが多い)やカラフルな材料が増えていた。もちろん文化や米国の多大な援助も関係しているのだろう。

被災者の登録作業(ほんまは政府がすべきもの)は、とても暑い中、スタッフも並んでいた被災者も耐えて作業をこなしていた。食料配布以外では、暴動が起こることはまずない。昨月の報道がハイチ住民のイメージを悪化させたり、平和維持軍を派遣する理由付けとなった。実際に来てみるとそこまで必要だったのか、考えさせられる。被災後1ヶ月以上過ぎ、状況が安定しているという考え方もあるが。

被災者は、悲しみや怒り、不満を多かれ少なかれ内に秘めていて、ふっとしたことでそれが外に出たり、援助関係者に八つ当たりする結果となることが多々ある。今日も職やお金を懇願されたり、泣きつかれたりしたが、彼らのエネルギーを交わす術を知らないうちに学んでいた。自分の与えられた仕事(仮設住宅建設)に邁進することで、彼らの力となると思えるようになった。ところで、本来、批判されるべきはずの政府関係者や政治家はどこにいるのだろう。

Day3 未だ現場に出られず

2010年02月23日 | Haiti
Shelterのデザインを早急に固めないといけないので、朝からずっと事務所に留まる。1ヶ月以上も経て、なんでまだデザインが決まっていないのか疑問は残るが、質問すると身内批判に取られかねないので、注意注意。

刑事ドラマじゃないが「このヤマは大きいので、県警さんにはここらで降りてもらって、あとは警視庁が管轄しますから」みたいな感じ。先月末から今月に入り本部から送られてきたスタッフが、重要ポジションを固めている。まあ、自分もその一人と捉えられているらしく、地震前からハイチにいた職員としては面白くないらしい。しかしながら、今後の活動規模や被災者のことを考えると職員交代も仕方ない。

政治的なしがらみは、ほっておいて実力のある現地スタッフ(フランス語と現地のクレオール語しか通じない)と、スケッチで意思疎通しながら各部材を決定。技術系じゃないスタッフの通訳よりも、うまくいくことも。フランス語はネイティブやけど英語はだめという現地職員が多く、何をするにも歯がゆい思いをする。ハイチで本格的に働くにはフランス語が必須のようだ。

ちなみに職場でフランス語の次に耳にするのが英語よりもスペイン語。隣国ドミニカ共和国を始め、中南米出身者のほとんどがスペイン語を話している。日本語は、PKOでハイチに入っている自衛隊の人と一瞬挨拶したのと、昔日本語を習っていた米国人と会話したぐらい。アジア人率かなり低そうだ。

写真は、同僚らからの朝ご飯の差し入れ。クロワッサンにジュースとコーヒー、あるところにはある。

Day2 ところ変われど

2010年02月22日 | Haiti
今日したこと。

- 身分証、携帯電話の受理
- これまでの経過把握
- 新規避難民キャンプの配置計画
- Shelterのデザインのスタディ
- Water Sanitation担当者の求人広告の下書き
- 新事務所兼倉庫予定地への訪問
- スリランカ事務所への仕事の指示
- 何十回もの自己紹介

と、場所が変わってもやってることはほとんど同じ。しかし、仕事をうまく進めるために、どのスタッフにどんな言い方でどの用件を伝えるかが、把握できていない。

テント事務所は、日中かなり暑い。

Day 1 職住近接

2010年02月21日 | Haiti
朝9時からサント・ドミンゴの某ホテルで朝食ミーティング(ブリーフィング)の後、陸路でハイチに向かう。地元スタッフの運転手なので、安心かつ飯が旨いところを案内してくれる。途中の昼食、国境越え、車両交換を含め、約6時間の小旅行。

ハイチの首都ポルトープランス(Port-au-Prince)に着いた。スタッフ紹介のあと、オフィス(写真左)と住居(写真右)の準備、そして始動開始。

サント・ドミンゴ

2010年02月20日 | Dominican Republic
約2日かけてドミニカ共和国のサント・ドミンゴ空港に到着。昨年ケニヤのEldoretに出張したときもそうだったが、30時間近く一人旅をし続けて、空港の到着ゲートに会社のロゴを身につけたスタッフを見つけると、ほっとする。

今晩は市内に泊まり、明朝に陸路でポルトープランスに向かう。ガイドブックも地図も何もなかったが、せっかくなので暗くなる前に市内を少し歩いてみる。街中はスペイン語一色で、英語があまり通じない。以前習っていたスペイン語で挑戦するも、シンハラ語とごっちゃになってしまい、自分でも何を言おうとしているのかわからなくなる。

土曜の夕方というのもあったのだろうが、ゆるい感じで、店や家々の軒先からサルサ音楽が聞こえてきている(写真)。ブエナ・ビスタ・ソーシャルクラブの映画の世界、あれはキューバやけど。歩いた地域は植民地時代の建物が残るわりと裕福な地区だったのだろう。しっかり維持管理すれば、とても趣きがある。東洋人に慣れていないのか、声もかけられず気持ちよく街を歩けた。