in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

脱仮設住宅 in Yogjakarta

2006年05月31日 | Weblog
先週末に起こったインドネシアでの地震による被災者には、「仮設住宅を提供しない」と国際機関支援団体らが方針を決めた。その理由は、「復興住宅に移るまでの間、自宅跡から離れた仮設住宅を提供することは、被災者の自宅再建意欲をそぐ」との事である。

これを聞いて日本に住む方はどう感じただろうか。「住宅が再建されるまで、テント生活を強いるなんて」と憤る人もいたかもしれない。しかしながら、スマトラ沖地震やパキスタン地震後の復興支援に係わった人々なら、脱仮設住宅もやむを得ない選択と、少なくとも私は理解できる。スマトラ沖地震から1年半近くたった現在、スリランカでは約5万戸の仮設住宅に被災者が住んでいる。

今年中に、彼らを受け入れるだけの数の復興住宅が完成予定のはずだが、この治安状態、政府の体制では、数万戸の住宅が完成することはまずあり得ない。自宅跡に仮設住宅が建つ人々の中には、数ヶ月で基礎ができ、また数ヶ月で柱が立ちと、少しずつながらも再建している姿が見られる。

一方で、仮設住宅を定住場所のようにとらえて、援助にすっかり頼りきっている姿も見受けられる。そうした被災者を生み出してしまう原因の一つに、一部の援助団体の支援方法がある。割り当てられた予算を期限内に使い切るために、惜しみなく手厚つすぎる支援をしている。そして、予算を使い切ったら、その場所から去っていく。あとに取り残された被災者は、自力再建しなければならない現実に被災後から数年たって初めて気づく。

仮設住宅を提供しない代わりに、テントや建材の提供などが方法がある。支援活動をどのくらいの期間(数ヶ月?、数年?)で見るかによっても対応策が変わってくるだろう。いずれにせよ、「仮設住宅を提供しない」という判断は一理あると書きたかった。

(写真はMoratuwaの仮設住宅。文章とは一切関係がありません。)

紛争の影響

2006年05月30日 | Weblog
1ヶ月ぶりにNegomboにある仮設住宅の様子を職員に見に行ってもらった。観光地に近いこの地域は、恒久住宅の建設が他地域に比べて、比較的進んでいるので、今夏ぐらいには閉鎖することができるだろうと予測していた。

予想に反して、避難家族数が急増していた。その理由は、北東部から戦禍を逃れて、数百キロ離れたこの地に避難してきた人々がいるためである。一住戸に数家族が住んでいるのは当たり前で、集会や講習会に使われていたコミュニティ・センター(9月10日参照)にさえも、12世帯が生活している(写真/R氏撮影)。一人あたり一平方メートルという居住環境に、圧倒的に足りないトイレ等。早急に手を打たなければ・・・。

嬉しかったこと

2006年05月24日 | Weblog
昨年11月から自分の下で働いてもらっているアシスタントDの成長が見られた。

彼女は、国内唯一の建築学部を出て、同大学大学院修士課程に在籍している。設計よりも、人道支援といった業界に興味があるらしく、現在は大学を休学して私の下で常勤で働いている。

職場にやってきた当初は、「コピーを取ったことがない。(大学にもコピー担当の使用人が居るらしい)」と私を驚かせてくれたが、徐々に慣れてきたようで、今では頼んだことは、なんとかこなせるようになってきた。

それでも、仕事の優先順位と書類整理がまだまだおぼつかないようで、こちらが用意してほしい書類は、数日前に頼んでおかないと、打ち合わせには間に合わなかった。確かに、10以上のプロジェクトを同時進行しているので、頼む方にも多少無理があるのだが・・・・。

それが、今日はふと何気に「あの井戸の件は、どうなってる?」と聞いてみると、即座に書類と更新情報が彼女から出てきた。どうか、この調子で学んでいってほしい。

ちなみに、現地職員の能力向上(Capacity Building)も外国人スタッフの任務と自分は捉えているので、できるだけ根気よく指導するように心がけている。もちろん、明らかに怠けているわかったときは、一喝するときもたまにある。

見舞い

2006年05月19日 | Japan
大腿骨骨折のため、3月後半から入院している祖母の見舞いに行った。命に別状はないといえ、米寿を迎えた彼女にとって今回の事故は惨事であった。今後歩けるようになるかどうか、歩けなければ著しい体力の衰えとともに、寝たきりになるのは容易に予測できる。

実際に彼女に会ってみると、思っていたより元気であった。帰国前は入院している彼女に直接連絡を取れないことが、とてももどかしかった。病室で彼女の穏やかな顔を見ることができ、ほっとした。「仕事をほって、帰ってきてよかったのか?」と私に聞きつつも、嬉しそうな彼女を見ると戻ってきてよかったと思った。

ベットの横に座って、スリランカでの話や写真を見せる。あまり心配かけたくないので、治安の悪化のことは伏せておく。一緒にテレビを見て、病院食を半分こしながら食べて、話しつかれたら、それぞれが雑誌や本を読んで、消灯時刻前に自分は帰る。そんな生活を一時帰国の間続けた。

次いつ会えるかな、次はあるんかな、と考え出したら悲しくなるが、これが海外赴任の宿命と自分に言い聞かせて日本を後にした。

結婚式

2006年05月14日 | Japan
12日の深夜便に乗り、13日夕方に帰国し、14日の大学時代の友人Jの結婚式、披露宴に参加した。人間とは一緒に届かなかったスーツケースは、当日の朝に実家に届いてぎりぎりセーフ。やっぱり必要なものは、持って歩くべきだった。

式では、新郎新婦の幸せな姿を見ているだけで、こちらも幸せな気分になった。昨年4月の出国前の壮行会に集まった同級生も再び集合した。ところどころで、同級生でお互いの近況を報告しつつ、時がたっても人が変わらないことに妙な安心感を覚える。自分の近況は話さなくとも、このブログを見てればわかるらしい。苦笑
今回改めて、人々に心配してもらっていることに気がついた。

数ヶ月前から参加すると心に決めていたものの、帰国できるだけの休みが取られるかどうか直前まで微妙だった。参加できて本当に良かった。

おめでとう、Jちゃん!

(写真は、式の最後に開けられた会場の天井から、皆が離した風船が夜空に飛んでいく様子)



生と死

2006年05月10日 | Weblog
4月30日にC大ボスの息子が生まれた。彼が生まれる前に夢に出てきたとかで、すでにOtto君と命名されていた。暗い話題が多かった中で、事務所に幸せなムードが広がった。C大ボス一家は、事務所から20mほどのところに住んでいるので、ほぼ毎日お目にかかる。事務所のマスコット的存在(失礼かな?)になりつつある。

非常に残念なことに、5月3日にR親方の奥さんが流産した。妊娠6ヶ月だった。彼女がbathroomでシャワーを浴びていたときに、足を滑らせて転倒し、お腹を強く打ったらしい。緊急入院した後、手術して胎児を母体から取り出した・・・と淡々と話すR親方の心のうちを察する。その3人目の子供を心待ちに、奥さんは服やベットを作っていたらしいが、R親方が彼女が退院する前にすべて整理したという。

5月8日、C大ボスの秘書だったT嬢(今は、Project Assistantに昇進)の兄上が自宅の寝室で急死した(享年24歳)。朝になっても起きてこなかったらしい。翌日のお葬式に職場の同僚らと参列した。最愛の家族を突然亡くした方々の悲しみは測り知れない。涙をこらえきれずに、泣き崩れるT嬢を見ていられなかった。式の後、墓地で埋葬される時に、参列者たちによって賛美歌が歌われた。その中に、以下のような歌詞があった。

"I don't need to understand but I just need to hold his hand....”

このhisは、多分イエス・キリストのことを示すのだろうが、亡くなった彼を思う身内の気持ちを察すると、”理屈ではなくて、ただただ彼の手を握っていたい”という描写が彼らの心情と重なってとても胸にしみ、辛かった。

式に参列しながら、T嬢の兄上、R親方の子供さん、そして最近知ったのだが、友人の生後すぐに亡くなった息子さんのことを思い、ご冥福を祈った。

Contingency Plan/非常事態対応策

2006年05月04日 | Weblog
北東部の状況悪化に備えて、Contingency Plan(非常事態対応策というのだろうか?)を作成中。戦火が広がると、家を追われた難民が多数出るとの予測の下、支援物資や仮設キャンプ、トイレがいくら必要になるか計算して、即座に対応できるようにUN機関らとの共同で準備がはじまる。

Trincomaleeでは、うちの仮設ではないが、津波被災者の仮設住宅も爆撃の影響を受けたらしい。あるものが支援活動を続ける一方で、他のものは破壊活動を続ける。「一体、何やってんねんお前ら」と言ってやりたい。

反政府組織と対立激化 日米欧、和平へ対話促す

2006年05月02日 | Weblog

『スリランカ 反政府組織と対立激化 日米欧、和平へ対話促す』

 【シンガポール=藤本欣也】スリランカ情勢が緊迫化している。最大都市、コロンボなどで繰り返されるテロ攻撃に対し、政府軍は反政府武装組織の実効支配地域を空爆するなど、今月だけで民間人を含め約百二十人が犠牲となっている。内戦再発の危機に際し、二十八日には米国や欧州連合(EU)、日本など関係国が緊急会議を開催、和平協議再開に向けた国際社会の努力が続いている。
 ノルウェーの首都オスロで行われた緊急会議には、スリランカを経済支援する米国、EU、日本の代表が参加し、スリランカ政府と、反政府組織の「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」双方に直接対話の早期再開を促した。日本からは明石康・政府代表(スリランカ問題担当)が出席した。
 これを受けてスリランカ政府は二十九日、「和平に向けた対話のテーブルにいつでも着く用意がある」と発表。LTTEは「指導部が検討中だ」とのみコメントした。
 スリランカ(人口約二千万人)では、北・東部地域の分離独立を掲げる少数派・タミル人のLTTEと、政府を主導する多数派・シンハラ人との紛争が一九八〇年代に激化し内戦に突入。これまでに約六万五千人が死亡したといわれている。
 二〇〇二年、双方は停戦合意したが、〇三年、政府軍の撤退時期などをめぐり対立、和平交渉は暗礁に乗り上げたままだ。
 今年二月、国際社会の強い後押しで約三年ぶりの直接対話がジュネーブで実現したものの、三月下旬以降、軍艦船や車両を狙った爆弾攻撃が再び激化。
 今月二十五日にはコロンボ市内の陸軍施設内で、LTTEのメンバーとみられる妊婦(21)による自爆テロが起き、陸軍司令官が負傷、護衛ら十一人が死亡した。
 軍中枢を攻撃された政府は同日夜から二日間、LTTEの実効支配地域を空爆。七千人を超す住民が避難生活を余儀なくされるなど、混乱が広がっている。
(産経新聞) - 4月30日2時25分更新