本籍のある大洲のおじさんが昨晩亡くなった。祖母の弟で、先週食事中に自宅で倒れたまま病院に運ばれたものの、意識が戻らず帰らぬ人となった。享年84歳。
小さい頃は、夏休みで帰郷するたびに、彼の愛用の通勤自転車の後ろに乗せられて、フジ・デパートへおもちゃを買いに連れて行ってもらった。滞在していた祖母の家とそのおじさんの家は、数百メートル離れているだけで、帰郷中は何度も行ったり来たりしていた。兼業農家で、美味しいスイカやとうもろこしをいつもお腹いっぱい頂いていた。
最後に彼に会ったのはいつだったか思い出してみる。日本を出る前年(2004年)の8月初めだった。隣まちの八幡浜で、日土小学校という歴史的に珍しい校舎保存に関する見学会があって、その行事の帰りに彼の家に立ち寄った。
おじさんと2人で居間に並んで、テレビに映る高校球児たちを言葉少なにしばらく観ていた。突然の訪問にも関わらず、おばさんがスイカを切ってくれて、ゆっくりしていきなさいと歓迎してくれる。勧められるまま泊まっていってもよかったのだが、大阪で一人で留守番している祖母のことが気がかりで、岡山駅で新幹線に乗り継ぐことの出来る最終の特急で帰ることにする。
歩いて10分弱のJR伊予大洲の駅まで、おじさんが少し不自由な足を引きずりながら見送ってくれた。駅の時刻表を見て、「よし、あと5分あるぞ」と何を思ったのかホームから飛び降りた。駅に隣接した彼の畑にある無花果(いちじく)の木に近寄り、熟れた実を持ってきてくれようとしたのだ。その光景に電車が来ないか、おじさんが急いで倒れないかハラハラする。再び線路を歩いてホームによじ登ったおじさんは、その無花果の実を大阪の姉さん(私の祖母)に持っていくようにと手渡してくれた。
その夜遅くに、大阪の家にたどり着いた自分を、祖母は起きて待っていてくれた。早速その実を半分こして、2人で食べた。「若宮のおじさん、元気やったで」と言うと、祖母は何も言わずに熟れた実を頬張って微笑んでいた。
あれから丸5年、無花果の実がなるころに、おじさんは逝ってしまった。合掌。
小さい頃は、夏休みで帰郷するたびに、彼の愛用の通勤自転車の後ろに乗せられて、フジ・デパートへおもちゃを買いに連れて行ってもらった。滞在していた祖母の家とそのおじさんの家は、数百メートル離れているだけで、帰郷中は何度も行ったり来たりしていた。兼業農家で、美味しいスイカやとうもろこしをいつもお腹いっぱい頂いていた。
最後に彼に会ったのはいつだったか思い出してみる。日本を出る前年(2004年)の8月初めだった。隣まちの八幡浜で、日土小学校という歴史的に珍しい校舎保存に関する見学会があって、その行事の帰りに彼の家に立ち寄った。
おじさんと2人で居間に並んで、テレビに映る高校球児たちを言葉少なにしばらく観ていた。突然の訪問にも関わらず、おばさんがスイカを切ってくれて、ゆっくりしていきなさいと歓迎してくれる。勧められるまま泊まっていってもよかったのだが、大阪で一人で留守番している祖母のことが気がかりで、岡山駅で新幹線に乗り継ぐことの出来る最終の特急で帰ることにする。
歩いて10分弱のJR伊予大洲の駅まで、おじさんが少し不自由な足を引きずりながら見送ってくれた。駅の時刻表を見て、「よし、あと5分あるぞ」と何を思ったのかホームから飛び降りた。駅に隣接した彼の畑にある無花果(いちじく)の木に近寄り、熟れた実を持ってきてくれようとしたのだ。その光景に電車が来ないか、おじさんが急いで倒れないかハラハラする。再び線路を歩いてホームによじ登ったおじさんは、その無花果の実を大阪の姉さん(私の祖母)に持っていくようにと手渡してくれた。
その夜遅くに、大阪の家にたどり着いた自分を、祖母は起きて待っていてくれた。早速その実を半分こして、2人で食べた。「若宮のおじさん、元気やったで」と言うと、祖母は何も言わずに熟れた実を頬張って微笑んでいた。
あれから丸5年、無花果の実がなるころに、おじさんは逝ってしまった。合掌。