in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

緊急支援の裏側(2)

2009年04月29日 | Weblog
スリランカ北部の厳しい状況が海外に報道されるつれて、

「うちのテントは××地震後に使われ、現在5千個の在庫があります」

「うちのテントは○○公認で、来週までに航空便で2千個納入できます」

といった営業活動のメールや国際電話がかかってくる。緊急なので金に糸目をつけられない場合も多く、うっかり「それじゃあ、お願いします」と言ってしまいそうになる。

津波復興後にうちの機関にテントを納入した業者が、懲りずに電話してきた。当時設置数ヵ月後に雨漏りが酷かった旨を告げると、それは何かの間違いだという。4年以上もたって、こちらの担当者が代わったと思ったのだろう。抗議もかねて当時の雨漏り後の修復写真(津波復興テント 2005年4月撮影)を送ると、それ以来連絡してこなくなった。こういう業者が巷にウロウロしているかと思うと、非常にむかつく。

緊急無償資金援助

2009年04月28日 | Weblog
Colomboに戻り、大ボスMとスリランカ在日本大使館にて、大使と参事官の方々にうちの機関の活動説明を行う。といっても、大ボスが英語でつらつらと説明するのを横で聞いているだけ。いつものことながら、すべての活動を網羅しわかりやすく説明する姿に感心する。思わず私も「あー、そういうことやったんや」と学ぶこと多し。いつどこでそんな情報を得て、咀嚼する時間があるのか不思議である。

後半は、日本政府がスリランカ北部での緊急支援に対して、資金援助を検討していることについての調整。今後の展開について検討する。普段疎遠になっている敬語を急に使おうとして、どうにもおかしい日本語を発している自分に愕然とする。

悲しすぎる夕焼け

2009年04月25日 | Weblog
とにかく建てられるだけのShelter(テント)をと、10数名の職員と100人近い労働者でどんどん組み立てていく。睡眠と栄養不足から立ち上がる気力さえない避難民が多い中で、組み立てを手伝うことでそのテントを獲得しようと必死になる父親陣。現場がカオスになっていた。

のどが渇いたら、車の中にある水を飲むわけだが、避難民の手前上、公に飲むわけにもいかず、隠れてちょびちょびと。こんな状況では水というものが、金や銀よりもはるかに値打ちがある。

そうこうしているうちに夕刻が迫り、セキュリティの関係で暗くなる前に事務所に引き上げる時間となる。「はい、ここで終わり」と簡単にいえるはずもなく、あと一つだけ、もう一つだけと建てていく。どうにもこうにもいかなくなって、「ここから先は明朝!」と心を鬼にして宣言する。しかし、今晩の寝床がない家族が何千人とあふれていて、うちのスタッフらが母親陣に囲まれる(写真)。

どうして彼ら(避難民)がこんな仕打ちをうけねばならないのか。これまでの人生で遭遇した一番悲しい状況が夕焼けに染まっていた。

地獄絵図

2009年04月25日 | Weblog
Vavuniyaの新しい現場。テントやトイレなどの準備が整う前に、政府により避難民が戦闘地域付近より輸送されてきた(写真)。一晩でその数、およそ2万人。見渡すばかりの人人人。

現場は切り出された木々が所々で燃えていて、それでなくても暑い(36度くらい)のに、さらに暑い。水も食料も日陰も十分になく、戦禍から逃れて来た避難民の喜びもつかの間、置かれた環境に呆然とする人々も少なくない。

配給される食料や飲料水には、炎天下の中で長蛇の列。イライラしている人も多く、罵声が飛び交う。彼らの全財産であろう荷物を持って、少しでも落ち着ける場所を探す家族。病院に行きたいと膿んだ傷口を私に見せる人。親戚に電話して無事を知らせたいから携帯電話を貸してほしいとねだる人。それぞれ手を差し伸べてあげたいのだけれど、できない。

その場を逃げるようにして、周囲を歩き回ったのだけれど、どこもかしこも困っている人だらけで、どうしようもない。反政府軍に囚われていたのがやっと解放されたと思ったら、政府からその自由を奪われ(*)、最低限の生活さえ保証されていない。まるで生き地獄を見ているようで、歩きながら涙があふれてきた。


* 政府はその中に反政府軍が紛れていると考えていて、避難民を保護するという名目で強制収容している。

再会

2009年04月25日 | Weblog
うちの現地技術スタッフRの実兄が先月Mullativeで亡くなったことは前に書いたが、その兄妻と3人の子供の消息はわからないままだった。それが昨日、Vavuniyaの避難民キャンプにだとり着いた!とスタッフの元に連絡が来た。

偶然、Vavuniyaに出張に来ていた自分は、スタッフRの到着を待って、避難民キャンプを訪れる。何とか、遺された母親と子供3人(14、9、7歳)と無事に会うことが出来た。

彼らによると、何とか危険極まりないLTTE(反政府軍)支配地域から脱出しようと試みたが、LTTEからは『交換条件として、3人の子供のうち、長男(14歳)を置いていけ(つまり、少年兵士として訓練させる)』とLTTEに脅された。苦渋の選択で、家族ともども戦禍のLTTE支配地域に留まっていたとのこと。

『風に舞いあがるビニールシート』

2009年04月20日 | Weblog
弟夫婦が買ってきてくれた『風に舞いあがるビニールシート』森 絵都 著(文芸春秋)を読む。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の駐日事務所で働く日本人女性が主人公となっていて、来月にはNHKドラマで放映されるそうだ。

話は、難民を支援するUNHCRの仕事よりも、男女の人間関係(結婚や家庭をもつこと)をメインに扱っているのだけれど、この業界に興味がある人にはお勧めの本でしょうか。そうそう、こんな生活している人身近にいるなあと感じる。

ビニールシートは日本では、ブルーシートとよばれることが多く、阪神淡路大震災後の仮設テント、路上生活者の簡易住居や、警察の検証現場を覆う等々の役割に使われている。雨露がしのげることと、屋根・壁・床と使い分けられること、その割に低価格であること(質にもよるが、4mx6mで600円ぐらい)と、緊急支援では欠かせない材料である。しかしながら、数ヶ月過ぎると修理をせざるを得ず、最初に数千戸つくってしまうと、そのうち毎日毎日修理に追われることになる。

ということで(?)、ビニールシートの簡易テントを直しに北部Vavuniyaまで明日から出張。行ってきます。

在勤5年目のスリランカ

2009年04月15日 | Weblog
昨夜スリランカに戻ってきた。今回のインド旅行では、スリランカ人の自己中心的な考え方は、インド人のそれに比べたらかわいいものであることを経験(もちろん私個人的な印象です)し、スリランカに戻ったら皆にやさしくしないとと思ってたけど、実際にはそうはいかない。こっちも主張して、議論して、戦って・・・、やっぱり疲れる。

月火は祝日で今日からは出勤日なんやけど、Colomboでは半分以上のスタッフがまだ休暇中で事務所はとても静かなもの。業者も労働者もほとんどの現場が来週頭から始まる(北部のぞく)。

今週は技術職員たちも皆が休暇を取りたがったので、彼らの休暇届をすべて許可して、自分がその間出勤する。先月・先々月と事務所を留守にしていてた分、お返しをしておかないと。電話とかあまりかかってこない静かな分だけ、書類がはかどった。

スマイル・シーズ ~スリランカのお母さんに野菜の種を~

2009年04月09日 | Weblog
友達が活動するNGOジェンで、日本で母の日のお花を買っていただくと、スリランカ東部のお母さんに野菜の種が届く、「スマイル・シーズ」というプログラムが始まりました。

http://www.jen-npo.org/smileseeds/about.html

このプログラムの説明を友達の了解を得て、以下に引用しますと、

”東部バティカロア県では、長らくつづいた紛争で、人々は何度も故郷を追われました。バティカロア県が政府地域になったあと、2007年から故郷への帰還が始まり、そのプロセスは現在も続いています。ジェンは、故郷へ戻った人々が滞りなく生業に復帰し、生活を再建するための支援を行っています。食糧ではなく、種や苗を配ることで、自立した生計の回復と、長期的な栄養改善を目指します。
お花の売り上げの一部が、スリランカでの支援に役立ちます。

笑顔で世界をつなぐ、スマイル・シーズ。

母の日のプレゼントの候補に加えていただければ幸いです。
また、おともだちに紹介していただければ、ありがたく存じます。"

ちなみにバティカロアは、例の私が担当している学校建設の現場もあります。復興に向けていろんな活動が始まっています。