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in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

Gilardi邸

2011年08月30日 | Mexico
電話で頼めば何とかなるらしいことがわかり、ヒラルディ邸への見学も取り付ける(スペイン語ではGは英語のHに近い発音に。ちなみにスペイン語でHは発音しない)。ヒラルディ氏の友人(ビジネス・パートナー)だったご主人が、ヒラルディ氏の死去(1994年)後、その家を譲り受けて自分の奥さんとその息子3人で現在も住んでいる。バラガンの最後の作品(1977年)と言われている。

見学日当日、雨季のメキシコ・シティで昨夜からぐずついた天気だったので、どうか晴れて欲しいと願っていたら、宿を出る頃には太陽が顔を出し始めた。家(自宅)を案内してくれたのは、その奥さん。玄関から始まり、吹き抜けの手摺りなしの白い階段室、2階の居間、テラス(2階の寝室と3階のさらに2寝室は非開放)。そして1階離れにある室内プール兼ダイニングルームとそこに至るまでの黄色に染まる廊下。と、住み続けておられるのに(から?)よく手入れがされている。
敷地内に着工以前から立つハカランダの木を中心に住宅が設計されている。今回は枝に葉が少し茂っている状況だったが、冬の枝だけの写真や春に藤色の花が枝先に満開になっている写真を見せてもらって、その設計意図をさらに理解できた。

最後に淡い黄緑のキッチンで話を聞いていると建築家を目指す一番上の息子が飲み物を取りにきたついでに混じって、たわいのない雑談に。

・ 自宅を見学用に開放しだしたのは5年ほど前から
・ この世界的に有名な自宅を誇りに思うし、多くの方に触れてもらいたい
・ 主に平日の午前中に予約を受けるが、忙しい時、来客が来る時、気が乗らないときは断る。一方で、夜のプールの見たい方に夜間見学を受け付けることもある
・ 乾燥機もあるが、洗濯物は見学者の来ない晴れた午後にテラスで干すことが多い
・ 見学料の一人150ペソ(約千円)は維持管理費に使う
・ 塗りなおす時期は、お金が貯まり次第。もっと頻繁にしたいが金銭的に難しい
・ 最近、塗料会社とのタイアップ(見学者に写真の資料を配ること)で一部のペンキを寄付してもらっている
・ 一人住まいの施主の家として設計されたのに、トイレは最初から家の中に5箇所ある(各寝室、玄関横、女中部屋)
・ 見学者の白い壁に不必要に触れたり、背中からもたれ掛かって靴底をつけたりする行為には苛立ちを覚える。よっぽどのことがない限り注意しないが

と、こうメモを書いていると、昔後輩の調査を手伝った記憶がよみがえってくる。実際に人が住んでいると、不満な点が目立つように思うが、この家はそれ以上の魅力があるらしい。昨日の感動が大きすぎたのか、日本で見慣れたヒラルディ邸の写真が実物以上に良く撮れているのか、当日は期待が大きすぎた印象を覚えた。後日思い返してみると、10m x 35mの敷地に建つ都市型住宅として、完成度の高い作品といえる。

ルイス・バラガン邸

2011年08月29日 | Mexico
建築家ルイス・バラガン(1902-1988)の自宅を訪れる。前もってメールで見学日時を予約しようとしたがなかなか返事がなかったので、数日前に宿の人に相談して電話で予約してもらうとすんなりOKが出た。バラガン建築を見ることをメインにメキシコにやってきたので、その目的が達成できることに前日からそわそわしていた。

ガイドつき(西or英語)でまわるので、忙しないかなと思った予想に反して、ガイドのメキシコ人学生がエピソードなども加えて、ゆっくり回ってくれたので小一時間の充実した時と空間を堪能した。

玄関から中に入ると、外部の騒音が嘘のように遮断され、彼独特の洗練されかつ居心地の良い空間が広がる。空間のプロポーションに加え、窓の位置と光の入り方、色の使い方、家具の選択と置き方、庭の樹木の配置などなど、唸ってしまう。著名建築家ら(安藤忠雄氏、坂茂氏、Geoffrey Bawa氏等)が影響を受けたのは間違いない。

1997年から98年にかけて住宅の巨匠フランク・ロイド・ライトが設計した個人住宅を5つほど回る機会があったが、その時以上の感動を覚える。もちろん私自身の好みも影響しているのだが、キリスト教信者であったバラガン氏の持つ信仰心が空間に表現され、とても濃い空間がかもし出されている。

版権の都合とかで、内観は写真が撮られなかったのが残念だったが、その分印象をしっかり記憶に留めておくことができて良かったなと思う。写真を撮ることが目的になってしまうこともあるし。上記の写真の灰色の壁がルイス・バラガン邸と作業場。手前のピンクの壁はオルテガ邸(同じくバラガン設計)。

詳しい説明や写真は以下のサイトに。
Casa Luis Barragan

ここで初めて、日本人に会う。メキシコの地方都市で日系ゼネコンが建てる工場の現場監督を行っているらしい。『期待するレベルを初めから下げておかないと身が持ちませんよね』と話が合った。でかいポスターを潔くフレームごと買うあたりはゼネコン職員らしい(?)。

近くの市場に出ている屋台で軽く昼食を済ませて、次の建築に移動した。

MUSEO SOUMAYA/ソウマヤ美術館

2011年08月28日 | Mexico
世界一のお金持ちといわれるカルロス・スリム氏が、自分のコレクションを一般公開展示するために、私財を用いて娘婿のフェルナンド・ロメオ氏に設計させた美術館(2011年竣工)。名前の由来は亡くなった奥さんから。いったい総工費はいくらだろうか。

外観は、女性の腹部を覆うドレスのようにも見えるし、魚のうろこにも見える。内部(写真)の印象は、NYのグッゲンハイム美術館と南青山のプラダを合わしたような空間。3階から4階、5階へ行くほど展示部分が広くなるのが、ユニークな点。

メキシコの紀元前から現代までの作品に加え、ヨーロッパの有名どころの作家の作品も多く、見ごたえは十分。無料なので気軽に立ち寄れるのだが、昔の将軍や貴族が贅をつくした時代の再来を垣間見て、ちょっと考えさせられた。もちろん普段の自分が置かれた世界とのあまりの違いにも目眩を覚えた。

Museo Soumaya (スペイン語)

休暇

2011年08月26日 | Mexico
電気や水道、公共交通がきちんとしている所で、きちんと食事をしてゆっくり眠りたい。ということで中南米の大都市メキシコ・シティまでやってきた。目的だった訪問地の予約が週明けになったので、それまで街をぶらぶら歩いて、本屋をのぞいたり、CD屋で立ち聞き(?)したり、喫茶店で考え事をしてみたり、普段できない日常(=非日常)の時間を過ごす。

今回のホテルではNHK海外版も映るので、ついつい見てしまうが、日本の首相の後任に誰が決まるか、見ているだけでうんざりしてしまう。こうもころころ元首が代わるというのはいかがなものか。震災復興とか円高対策とか、じっくり本腰を据えてやってもらいたい。

写真は、メキシコ・シティ地下鉄の路線図。なんとなく大阪のに似ていて、親近感を覚える。運賃は1回3ペソ(約20円)、どこまで行っても均一運賃。便利やった。

超大混雑

2011年08月24日 | Panama
ポルトー・プランスの空港にて、超大混雑(写真)。普段から混んでいる(というか、きちんと並ばない、係員の言うことを聞かない)状況に加えて、ハリケーン・イレインの影響で、前日キャンセルになったフライトの客も混じり、想像を絶する混みよう。

押し合いへし合いで、横入りする者も後を絶たず、通路脇のガラスは割れるは、気分が悪くなった女性も何人か出る始末(空調はほとんど効いていない)。空港の職員は強制力がないし、5名いた警察官も一応、統率する素振りを見せるが、強面の乗客に対しては見て見ぬふり。

自分はスーツケースを持っていなかったので、隙間を見つけては抜けて難を逃れたが、それでもシャツはもちろんズボンまで汗でびっしょり。結局、搭乗口の準備も間に合わず、5機並んだ滑走路を歩いて、自分の航空会社の飛行機にたどり着いた。約2時間遅れで離陸した。

乗換えで、パナマ・シティまで来るとその空港の対応の違いが明らかだった。空港の質は、国力と関係していることを否応なしに知らされた。

独立記念日

2011年08月17日 | Japan
「今日はインドネシア共和国の独立記念日(宣言日)だから、同胞らと夜集まってお祝いする」

というインドネシア人のスタッフKの何気ない会話がふと耳に入り、

「それって日本が太平洋戦争に降伏したのを受けて?」

と聞くとその通りだという。日本が占領する前はオランダの植民地だったので、その独立を認めないオランダは再植民地化に乗り出すものの、インドネシア独立軍との戦争により敗れ、インドネシアは1949年に最終的に独立したという。

「太平洋戦争終戦日の2日後になったのは、独立宣言文の作成に手間取ったから」と気まずくなった雰囲気を和ますかのようにKが付け足す。確かに、突然上が居なくなったら、誰が決断するか、権力争い(もしくは責任の譲り合い)になるやろうなあ。

日本に居たら、終戦の日には『日本が負けた』ということばかりが語られて、日本が他のアジア諸国に酷い仕打ちをしたことは知識としてはあっても、その国の人らがどう思ってきたのかまで知ることはなかなか難しい。


災害復興 (2)

2011年08月07日 | Haiti
先月受けた朝日新聞取材のほんの一部がweb版に記事になった。日曜版(8月7日)にも載っているらしい。

災害復興

ポルトー・プランス編

今回の取材のメインであった自衛隊PKO部隊との共同作業の話は一切出てこず、私のコメント(抜粋)だけが採用される。それが所属組織として適切だったかどうかは微妙だが、記事全体としては(他の4地域の復興状況も含め)考えされられる興味深い内容になっていると思う。

表題の(2)は、6月に書いた自分のメモ"災害復興"の続きということで。やっぱり復興には、理念と息の長い活動が必要ということか。