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in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

学び多き出張

2012年10月31日 | Dominican Republic
普段は一人で建設事業現場や当事国の担当者に会うことが多い出張だが、今回は大ボスGと営業周りなので、超新鮮。かつ、大ボスがどのように各国大使らと会話を進めていくか間近に見られて学ぶことが多し。

朝食から夕食までずっと一緒なので、仕事の話からたわいのない話まで、普段はアポを取らないと会えない大ボスとの時間が贅沢にいくらでもある。

終わりを迎えつつあるShelter事業の話になって、「過去2年間で4,000万米ドル(約32億円)の予算を執行するのがとても大変だったが、いいチームに恵まれて無事に終えることが出来そうです」と言うやいなや(謙遜ではなく本当にそう思ってきたのだが)、大ボスが「そんな時は、お前が完璧にmanagementして完了することができた、と言いなさい。自分が主張しないと、組織内では誰も認めてくれんぞ」と即答された。前々から、好意的な先輩方にも言われてきたのだが、国際機関で生き残る術らしい。日本人、というか自分にはどうも難しい戦術だ。

挨拶周り

2012年10月30日 | Dominican Republic
サント・ドミンゴに仕事で来たのは2010年3月以来。正確には、ハイチへの移動途中で通過しただけなので、きちんとうちのドミニカ共和国(ドミ共)事務所で仕事をしたのは、今回が初めてか。ハイチを管轄している大使館が、ハイチではなく隣国ドミ共にある国が多いので、大ボスとMさんと自分とで挨拶周り。

今日は二手に分かれて、自分は一人でK国大使館へ。対応して頂いた領事は以前、在日本K国大使館に3年勤務されていた経験があり、日本語で始まった挨拶はそのまま本題にも使われた。敬語や外交官特有の言い回しなど、私の日本語よりはるかにお上手で、恐縮してばかりだった。東日本大震災の時は、本国から救援で来られた100名強のスタッフと共に仙台まで向かったお話を伺うと、心から感謝の気持ちが湧いてきた。普段は逆の立場だけれど、被支援国の人々は自分を同じように思い感謝してもらっているのだと気がついた。本題の方も手応えをつかんだ会合だった。

普段着で歩いていると、現地人からお土産や店の呼び込みなど、毎分のように頻繁に声をかけられるが、スーツを着ているとタクシーの運転手ぐらいしか声をかけない。皆、誰彼なしに声かけるのではなく、よく見ているのだ。

スーパー・ウーマン

2012年10月29日 | Dominican Republic
新しい大ボスGのお供で隣国ドミニカ共和国へ陸路で出張。国境を超えたところで見かけたバスは、荷物が超満載(写真)。物価が安い『ドミ共(と業界人は呼ぶらしい)』で購入して、無理してでもハイチに持ち込のだろう。

同じく出張できた同僚Mさん(イタリア人・人身取引対策担当)は、語学万能。7時間ほどの移動中の車内では、英語で仕事の話し、時々仏語で冗談を言い、運転手にはクレール語で指示をする。ドミ共で迷った時には通りを歩いている人にスペイン語で道を尋ね、彼女の息子の面倒を見ている彼女の母(息子の祖母)にイタリア語で電話をしていた。さすがの大ボスも驚いたようでコメントすると、実は独語もできるとMさん。びっくりした。


台風一過

2012年10月28日 | Haiti
昨日から晴天が広がり、ずっと雨だった天気が嘘のよう。毎日暑い時は、暑い暑いと文句を言っていたのに、雨が降り続いたり涼しいが続くと、晴れるとほっとする。

例のハリケーン・サンディは北上し、アメリカ東海岸に接近中。ニュー・ヨーク市交通局に勤める友人によると、今日の午後7時から地下鉄やバスなど管轄内の公共交通網を一斉に運休するらしい。かなりの被害が出そうだ。

ハリケーン・サンディ

2012年10月25日 | Haiti
熱帯暴風雨からハリケーンと勢力を強めていったサンディは、23日火曜の午後からPort au Princeに強い風や雨をもたらし続けている。ジャマイカからキューバ、そして米国へと進路を辿り、ハイチにはかすりもしなかったのだが、これだけ雨が続いていると、地盤が緩まり大きな被害が出ることは必須。例のごとく、道路が川となり、全てのものを上流から流し続けている(写真)。

気温も20度を超えず、セーターを着ているハイチ人も見かける。確かに寒い。

笑えない事実

2012年10月12日 | Haiti
Permanent Houseが完成して、被災者家族に譲渡した際に、あまりにも被災家族の世帯主のお母さんが嬉しそうでないので(写真)、なぜかとうちのスタッフに後日聞いてみた。彼らによると、

1.今まで政府や誰からにも、住まいに関して支援を受けたことがなかった。
2.想像していた以上に、素敵な家で驚いた。
3.うまい話に騙されているのではないかと、さらに疑い始めた。
4.うちの弁護士が来て自分に『権利』があることを教えてもらったが、使われた言葉が難解だった。
5.起こっていることが本当に現実なのか、理解に苦しんだ。
6.うちの機関の職員が大勢でつめかけたので緊張した。

これらを聞いて、いろいろ考えさせられた。Shelterの時はもっと嬉しさを表現する家族が多かったのだが、Houseとなれば事はもっと複雑になっていくのだろうなと多くを学んだ。また、こちらの気合度もかなり高かったので(失敗が許されないので)、事務・法的手続き時に被災家族へ必要以上にプレッシャーを与えていたのだろう。

数週間後に彼らの様子を見に行ってみよう。

Permanent House (4)

2012年10月11日 | Haiti
やっと竣工した。

いろいろできなかったことはあるけど、一応形になったのでよしとする。これから、非技術系の同僚や上司の意見を仰ぐ。

先月から、次のモデルについてスタッフ達と検討を始めた。例えば、今回は屋外に設置しているトイレ(予算の都合で既存トイレを改修)を家の中に設置したいのでけれど、そのためには水洗トイレを検討すべきで、

・水道がないのに、水をどう確保するか
・水があっても電気がない場合、2階のトイレにどうやって水を上げるか

といった事項が懸念され、被災者にトイレのために水汲みを強要できるか、という議論に行き着く。ハイチ人スタッフの意見を尊重したいところだが、同じハイチ人でも育った環境に大きな差があるので、彼らの意見の正当性を見極めるのが難しいところ。

いくつかのデザイン・バリエーションを準備しつつ、実際に住む被災者が確定された時点で、デザインを一緒に決めていく方向で進めることにする。

ハイチのマザー・テレサ(2)

2012年10月05日 | Haiti
レオガンのシスターSさんを再訪した。前回、修繕中だったハンセン氏病棟が完成していて、気持ちいい空間となっていた。写真は、平屋だけど高さを設けた中央渡り廊下で、通気や自然採光のことがよく考えてある。前回は足場やシートがかぶせてあったりして気がつかなかったけれど。1980年代のハイチ人建築家設計とのこと。

そして、彼女が支援しているNGOが建設予定の農業学校敷地を訪れる。震災後100を超える世帯が避難していた土地は、26世帯まで減っている。他の場所に別のNGOから仮設住宅を支給された家族もいるが、最後まで居座り続けてお金をせびろうと考えているらしい。土地の権利を農業大臣から正式に頂いたのであれば、法的処置に訴えた方がよいと提案させて頂く。NGO代表の話では、まず敷地内を囲う塀を完成させて、徐々にプレッシャーをかけていくらしい。それも一つの方法だが、それでは着工が来年以降になってしまうだろう。うちの現場事務所スタッフに、定期的に状況を見て、居残り世帯を移動させるにあたって、うちができることで支援させて頂く。

30度を超える暑さ(毎日のことだが)にもかかわらず、現地を案内して下さったエネルギーには本当に頭が下がる。その素晴らしいオーラに触れて元気になって病院を後にした。


『ハイチでの仕事はただ忍耐の一語』
前々からお誘いを受けていたレオガンにある国立結核療養所に、シスターSさんを同僚友人らと訪ねていった。軽い気持ちで遊びに行ったつもりだったが、修繕中のハンセン氏病棟、仮設の結核病棟、...