in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

『ハイチでの仕事はただ忍耐の一語』

2011年10月22日 | Haiti
前々からお誘いを受けていたレオガンにある国立結核療養所に、シスターSさんを同僚友人らと訪ねていった。軽い気持ちで遊びに行ったつもりだったが、修繕中のハンセン氏病棟、仮設の結核病棟、新しい病棟建設予定地などを、シスター自らの説明を受けながら、拝見して回る。その精力的な活動に脱帽する。こちらの足元の方がおぼつかなかった。苦笑

カナダ人シスター(日本の孤児院で活動された経験のある)が準備してくれたお昼をご馳走になりながら、Sシスターの過去のお話を中心にお聞きする。やりたいこと(すべきこと)が明確で、目標に向かってできることを30年以上、コツコツ続けているその姿に畏敬の念を覚える一方、親しみやというか人々を受け入れる懐の深さを持ち合わせている彼女の人柄とても素敵だ。

その彼女をして『ハイチでの仕事はただ忍耐の一語』と言わしむこの国の環境。なかなか進まないのも仕方がないか。


嬉しい便り

杖生活再び

2011年10月18日 | Haiti
先週から思いのほか体調を崩してしまい、集中力が切れていた。さらに、ここ数日は変な電話や待ち伏せをされている気配があった。なので自宅に戻って車を駐車した後、すぐに門扉を閉めようとして、停電で真っ暗な中作業をしていると、うかつに車との間で挟まってしまい、右足をまた負傷。

翌日、ふくらはぎがものすごい腫れて、歩くどころではなく、再び杖生活に。同じ方向に住む会社の運転手に送り迎えをしてもらうことになった。その強面の運転手がボディガードがわりになったのか、平穏な日がすぎていった。

それにしても、やはり昔の病気の影響で衰えた右足の筋力のアンバランスには参る。とくにハイチに来てから、プール通いもできてないから、当然といえば当然なのだが。この右足は自分の健康管理のバロメーターになっているのだが、そろそろ改善策を見出さないと、また整骨院通いを余儀なくされてしまう。その結果、途上国勤務は諦めないといけなくなるだろう。

おいうち

2011年10月15日 | Haiti
うちのスタッフの父親が、彼の家の近所(Delma)で銃殺された。そのスタッフの姉が米国から帰国したので、家族総出で車で空港まで迎えに行った帰りに狙われたらしい。スタッフも同乗していたので、生きた心地がしなかっただろう。

夕食中に電話で一報を受け、残りの食事の味覚がなくなった。どう表現しようか、この見えない何かに追い詰められていく感じを。

金銭目的の犯罪。去年もそうだが、新学期の始まる10月やクリスマス前は、授業料や生活費に困った輩が絡む犯罪件数が増える。

それでも時は過ぎゆき

2011年10月10日 | Haiti
昨夜、ハイチを去る日本の知人を囲んだ夕食も終わりかけた頃、電話がなった。看護士をしている友人から「あんたとこのハイチ人職員が銃で撃たれて病院に運ばれたが、出血多量でさっき亡くなった」とのこと。輸血用の血を確保するための問い合わせで、事を知ったのでそれ以上のことはわからないという。

平静を装って、同僚のSecurity Officerに連絡するとすでに警察署を訪れ情報収集をしていた。亡くなったのはPsychosocial UnitのスタッフL君だという。今日から始まるWorld Mental Health Dayに合わせて行う活動プログラムの最終調整で、休日出勤した帰りに事故に巻き込まれて亡くなった。詳細が分かるまでは他言しないようにと言われ、とりあえず自宅に戻る。

一夜あけて、詳細を知らされる。

L君が乗り合いバスの降車口付近に座っていたところ、乗客らの金銭を狙いに来た連中らがやってきた。その悪党らに対抗すべく興奮して発砲した乗客と、その悪党らで銃の打ち合いとなり、流れ弾に当たったという。他に負傷した15歳の少年と病院に運ばれたがベットが足りず、若い方のその少年がまず腹部に受けた弾丸の治療を受け、Lは後回しになって、そうこうしているうちに亡くなってしまった。享年25歳。

少年の方は何とか助かったらしい。

去年、うちのシェルターのスタッフDが亡くなった後にお世話になった同僚に尋ねてみると、企画してもらったグループ・カウンセリングにも参加していたL君。当日撮影した写真の下方中央に笑顔で写っている。

その1年後の悲劇。やるせない。


鍋大会

2011年10月02日 | Haiti
捻挫の快気祝いに『鍋』をします、と日本人の知人らに宣言してから、早3ヶ月ほど。のびのびになっていた企画に腰を上げる。

まずは、中に入れる野菜などの具を調達するところから。スリランカのおでん大会でも、そうだったが日本で手に入る食材が、ハイチではなかなか手に入らない。「葱のかわりに玉ねぎで妥協するか」、「そうしたら鍋じゃなくて別物になってしまう」など、あーだこーだいいながら買い物をするのも面白い。日本で育った者同士だから、成り立つ会話。

いちおう鳥鍋なのだが、奇跡的に白菜が見つかって(1玉が4米ドルくらい)、白菜鍋と言い切ってもいいくらい、本日の主役だった(写真)。ポン酢は、しょうゆとライムと鰹節でちょこちょこっと用意した。旨かった。大勢で(今日は9人!)で、鍋をつつくのがいいんやなあ。

思いがけず、数日前の誕生日も祝っていただいて、大変嬉しい一日だった。


Corail Murder (7) 1周忌

2011年10月01日 | Haiti
現場近くでうちのエンジニアが銃殺されてから、ちょうど1年がたった。

今日は職場が休みなので、昨日の朝礼で部署の全員を集め、亡くなったDのことを一緒に想い、日々の安全管理を一層心がけるように伝えた。

年月は人々の悲しみを和らげるというが、去年の今頃に比べ心労は減ったし、チームの結束力も強くなってきた。去年はハイチが嫌でたまらなかったのだけれど、その原因は貧困であって、各ハイチ人のせいではないことを少しずつ理解できるようになった。

Corail Murder(1)