今月初め、知人から誘いのあった八尾の「風の盆」は残念ながら所用で行けなかった。かねて訪れた他の人からも「あれはよかった」と聞いており、一度は行ってみたいと何年越しに思っていたので、とても心残りで、来年こそ行きたいと思っていた。
台風一過の先週、刈谷で用事を済ませて、少し時間に余裕ができ、来年の下見を兼ね、現地を訪れた。刈谷から車で3時間ほどである。
当日は、風の盆も過ぎ、踊りは曳山展示館での見学かと思っていたら、クラブツーリズ
ム主催の「月見のおはら」開催日で、街流しの踊りが見られるという。観光会社の
イベントだからそれほどではないだろうと、あんまり期待をせずに、現地につい
た。
丸石の石垣の上にできた街
2時少し前に、街中の宮田旅館に着き荷物をおいて、街を一巡り。
まずは特徴のある石垣が続く街の入口へ。丸石を積んだ石垣が続く町並みはそれ
なりの優美な佇まいだ。坂道を登り、福鶴酒造の横に出る。
小さな路地を抜けおわら資料館へ。ここは風の盆普及、保存、に功のあった初代
おわら保存会会長の医師川崎順二氏の生家である。大型スクリーンでの説明を見、
展示してある様々の記録を閲覧した。
そこで得た知識
なぜ八尾なのにおはらなのか?
「おわら」はお笑い節説、大藁節説、小原村乙女説、小原比丘尼説などの4つの説がある。いずれも甲乙つけがたい説ではある。
なぜ風の盆というのか?
「風の盆」とは、春分から二百十日に当たる、風の厄災日=八朔の日に行われる、
農耕儀礼で、風を鎮めることを祈る踊りを行う説と、風流/風雅でわかるように、
風は歌謡/民謡のことであるという説がある。この街が養蚕、和紙、薬草などで
栄えてきた農業中心だったことを考えると、やはり前説のほうが有力なのではないか。
石畳の諏訪本町通り
昼飯の蕎麦を食べた「高野」 田舎そばの系統だった
資料館を堪能して石畳の諏訪町本通りを上がる。両側が町家作りの落ち着いた通
りをぶらぶら歩き、曳山展示館へ出る。旅行社の説明会が終わったらしく、本日
の準備が行われていた。宿に帰ってひと風呂浴び、早めの夕食を取って、踊りを
見にゆく。昼と違いいつの間にか人が出ていた。観衆は通りの両側に並ぶ。石畳の坂道を踊り手を先頭に、ぼんぼりの明かりに行列が浮かび上がる。両側の家々の明かりは暗くしてあるので、道だけがほんのり明るい。
女衆のたおやかな舞姿
男衆の大きな所作
男衆と女衆が並んで進む組もある
続く三味線隊
各町内ごとに男衆、女衆の踊り手に続き、地方と呼ばれる、唄い手、囃し手、三
味線、胡弓、太鼓、の隊列が続く。日が暮れぼんぼりに灯が入り、坂の路地にし
ずしずと進む。十分鍛錬してあるのか、足さばき、手の指の先まで神経の通った
踊りは見事だ。私にはたおやかな女衆もさることながら。動きの大きい男衆の踊
りに目を惹かれた。
ちょっとひんやりしてきた空気の中で嫋々とした胡弓の調べ、控えめな唄い、囃
し、が優雅な踊りと相まって、胸に沁みる。誠に趣が深い。一観光業者のイベン
トとはいえ、道の両側には人垣が続き、踊りの組みも数多く通る。風の盆のいい
ところだけを抜いてきたようだ。最後のの30分ほどは観客参加の町内踊りの再
現で、9時に終了。
最後は観衆と一緒に踊る
帰って旅館の女将に聞いたら、「踊りを見るのなら今日の催しが一番。風の盆
本番はこの10倍の人で人垣ばかりです。最終日は夜通しになるので、旅館も開
けっ放しにしておきます」とのこと。お祭りの喧騒、開放感を味わうのならば、最終日もいいのだろう。
我々はいいところだけの、いわゆる「さわり」を体験できたのか。いずれにしても、Dマイナーを満喫した一夜であった。来た人が一様に良かったと言っていたわけが納得できた。