6月21日(土)曇り【水を担いて河頭に売る】
岩手・宮城内陸地震が起きてから1週間がたちました。まだ行方不明の方全員の発見にはいたってないようです。突然の出来事で、一瞬にして命を落とされた方もいたことでしょう。ご冥福を祈るばかりです。
明日は我が身かもしれません。
さて、昨日帰りの電車の中で、私の子供時代の愛称を呼ぶ人がいます。横を見ましたら、弟の仲良しが立っていました。明日の土曜日は施茶せちゃをする、というので本日、母を連れてお茶をご馳走になりに行って参りました。彼はなかなかのお茶人で、洒落たお茶室をお持ちです。そして一ヶ月に一度は、ご近所の方を招いてお茶を接待してくださるというお気持ちこそ洒落ているといえましょう。
お茶室に足を入れまして、目に入ってきましたのは、床の間にかけられたお軸です。今日のブログ・タイトルの「擔水賣河頭」のお軸が掛けられていました。それは私の師匠がお書きになったものです。最近インターネットのオークションで手に入れたのだそうで、私のために掛けておいてくださったのですね。これも洒落たお心遣いといえましょう。
禅僧の書かれたお軸は読めない字も多いですが、師匠の作品に関しては、私は全て読むことができそうです。それはいつも傍でご揮毫なさるのを手伝っていたお陰なのですが、今回も弟の仲良しのお役にたつことができました。それで今日はこの禅語について少し書いてみます。書の文字は旧字を行書にくずして書いてあります。「擔水賣河頭」(水を擔にないて河頭かとうに賣る)と読みます。
河のほとりに水をかついで来て売る、河には蕩々と水が流れているのに、そこで水を売る情景を思い描いてください。はたしてそのようなことは必要でしょうか。それは端的に言えば、無用のことといえましょう。
ですから無用なことを表現するときに、「水を担いて河頭に売る」などと表現するのですが、師匠は、この世の一切のことは「壮大なる無駄事じゃ」と、時折におっしゃっていました。この禅語を読み解くのに、思い出されるお言葉です。
師匠の書かれた本を繙いてみますと「河の流れに随って、十分足りてあるすがたを会得してみれば、河頭に売っている水をほしがらぬ」とも書かれています。河に十分に水はあるのに外に何かを求めて、外に水を買おうとしているから自由の天地にいることができないのだ、ということでしょう。河頭に水を売っているような世界に引っ張り回されるな、と読むこともできましょう。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、これは買い手側のほうから見ての見方です。「水を買う」側です。
「水を売る」側を見ますと、そんな余計事は無用ということになります。だからといって、決して否定的に言っているのではなく、自らのしていることはそうだと自覚することではないかと、私は思うわけです。壮大なる無駄事を敢えてしているのだ、自らの思慮、行為を自覚することともいえましょうか。
この言葉の出典を調べてみますと、『碧巌録』57則の頌の著語じゃくごにあります。「蚊虻が空裏の猛風を弄び、螻蟻が鉄柱を撼ゆる がそうとしている」という頌の部分につけられています。蚊やあぶが猛風の中でいかに立ち向かおうとも無駄ですし、けらや蟻が鉄柱をゆさぶろうとしていることは、無駄な努力ということはよくわかります。この語句につけられたちょっと一言のコメント(著語)が「水を担いて河頭に売る」というのです。なるほどと納得がいくでしょう。
しかし、蟻のような私ではありますが、敢えて鉄柱を揺り動かそうというようなことをしているのだ、というように受け取ることもできるわけです。禅語を読み解く切り口は、一つだけではありませんので、こんな解説を参考として、それぞれにお読みになってくださり、心の世界をひろげてください。
岩手・宮城内陸地震が起きてから1週間がたちました。まだ行方不明の方全員の発見にはいたってないようです。突然の出来事で、一瞬にして命を落とされた方もいたことでしょう。ご冥福を祈るばかりです。
明日は我が身かもしれません。
さて、昨日帰りの電車の中で、私の子供時代の愛称を呼ぶ人がいます。横を見ましたら、弟の仲良しが立っていました。明日の土曜日は施茶せちゃをする、というので本日、母を連れてお茶をご馳走になりに行って参りました。彼はなかなかのお茶人で、洒落たお茶室をお持ちです。そして一ヶ月に一度は、ご近所の方を招いてお茶を接待してくださるというお気持ちこそ洒落ているといえましょう。
お茶室に足を入れまして、目に入ってきましたのは、床の間にかけられたお軸です。今日のブログ・タイトルの「擔水賣河頭」のお軸が掛けられていました。それは私の師匠がお書きになったものです。最近インターネットのオークションで手に入れたのだそうで、私のために掛けておいてくださったのですね。これも洒落たお心遣いといえましょう。
禅僧の書かれたお軸は読めない字も多いですが、師匠の作品に関しては、私は全て読むことができそうです。それはいつも傍でご揮毫なさるのを手伝っていたお陰なのですが、今回も弟の仲良しのお役にたつことができました。それで今日はこの禅語について少し書いてみます。書の文字は旧字を行書にくずして書いてあります。「擔水賣河頭」(水を擔にないて河頭かとうに賣る)と読みます。
河のほとりに水をかついで来て売る、河には蕩々と水が流れているのに、そこで水を売る情景を思い描いてください。はたしてそのようなことは必要でしょうか。それは端的に言えば、無用のことといえましょう。
ですから無用なことを表現するときに、「水を担いて河頭に売る」などと表現するのですが、師匠は、この世の一切のことは「壮大なる無駄事じゃ」と、時折におっしゃっていました。この禅語を読み解くのに、思い出されるお言葉です。
師匠の書かれた本を繙いてみますと「河の流れに随って、十分足りてあるすがたを会得してみれば、河頭に売っている水をほしがらぬ」とも書かれています。河に十分に水はあるのに外に何かを求めて、外に水を買おうとしているから自由の天地にいることができないのだ、ということでしょう。河頭に水を売っているような世界に引っ張り回されるな、と読むこともできましょう。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、これは買い手側のほうから見ての見方です。「水を買う」側です。
「水を売る」側を見ますと、そんな余計事は無用ということになります。だからといって、決して否定的に言っているのではなく、自らのしていることはそうだと自覚することではないかと、私は思うわけです。壮大なる無駄事を敢えてしているのだ、自らの思慮、行為を自覚することともいえましょうか。
この言葉の出典を調べてみますと、『碧巌録』57則の頌の著語じゃくごにあります。「蚊虻が空裏の猛風を弄び、螻蟻が鉄柱を撼ゆる がそうとしている」という頌の部分につけられています。蚊やあぶが猛風の中でいかに立ち向かおうとも無駄ですし、けらや蟻が鉄柱をゆさぶろうとしていることは、無駄な努力ということはよくわかります。この語句につけられたちょっと一言のコメント(著語)が「水を担いて河頭に売る」というのです。なるほどと納得がいくでしょう。
しかし、蟻のような私ではありますが、敢えて鉄柱を揺り動かそうというようなことをしているのだ、というように受け取ることもできるわけです。禅語を読み解く切り口は、一つだけではありませんので、こんな解説を参考として、それぞれにお読みになってくださり、心の世界をひろげてください。
今でしたら、汚染が怖いので、河原の横で売っているミネラルウオーターを買ってしまいそうです・・・
人間には二通りありますね。無駄だからやらない人と、無駄を承知でやる人と。どちらも間違いで、どちらも正しい。そして宇宙の広大さ無限の時間から見れば、この世のこと(宇宙時間からすればの一瞬の出来事)はどうでもいいこと。
このように割り切れば、誰もノイローゼや鬱病にならないでしょう。
環境汚染など考えもつかなかった時代の話で、汚染と言えば、心のことだった古き良き時代の言葉です。
アフリカのスーダンの記事や、ビルマの情報を読みますと、このようなことばかり言ってはいられないと思いますね。
全ての条件に当てはめて解釈すると、これまた間違ってしまうので、慎重を要します。
我が心象風景と受けとめますと、問題はないようです。
売る側、買う側と視点を変えるのは面白いですね。買う側には色んなケースが考えられます。よさこい節では、お坊さんがかんざしを買います。自分が使うには無駄ですが、囲った女性にあげるとすると有用です。視点を変えると売る側が無駄なことをしていることにならなくなりますね。
(こちらのコメントと思いますので、勝手に移動しました)
何が価値があって、何が価値が無いかなどとは人間が勝手な尺度で決めることにすぎないのですから、今、今をやることをやって、空でも眺めて、生きていくのみ、といったところでしょうか。
この項のコメントも一度は書いたのですが、削除してしまいました。
どうも、妻から朝のPCを禁止されて以来、投稿する時間がなくなってしまい、自分のブログですら1ヶ月以上も更新できませんでした。
そのような状態ですので、この時期の外作務と重なって尚いっそう書ける状態ではなくなっています。
どうぞお許しください。
師匠の字は何時見てもよいですね。
毎朝、師匠の写真を見てご挨拶をして、内諷経では十一面観音様の向かいに掲げてある扁額を拝します。
なにが無駄かといえば、今生で解脱をして涅槃に入ろうと思わない人生が無駄な人生といえるのではないでしょうか。
お釈迦様と道元禅師様がお二方とも「人身受けがたし」と仰っておられる。
この勝縁を大事にしたいと思います。
生まれたこと、生きることに何かの価値を見出したいのは、人情でしょう。でも何かの価値を見出し頑張ったとしても、ちょっと視点を変えるとその価値が色あせます。
その色あせたところが、哀しくて、果かなくて美しいのです。これは文学の世界。
哲学はこれに冷徹に対応し衆生を打ちのめし、また宗教はその人々を救うためのシナリオを考えます。
これらの過程全てが大いなる無駄であることが真理あれば、またそう確信できればどんなに気楽なことでしょう。
今を、今だけを全力で生きることに繋がります。