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前出師表-恩義の世界に生きる

2006-05-26 18:45:22 | Weblog

5月26日(金)曇り【前出師表-恩義の世界に生きる】

21日のブログに「出師の表」について書かせて頂いた。たまたま宋代の武将、岳飛が揮毫した「前出師の表」がプリントされたスカーフを頂いたので、その部分だけ訓読を紹介させてもらった。しかしどうも中途半端な感じがあるのと、私淑する井波律子先生の『三国志演義』のなかに「前出師の表」の訳文があったので、(『三国志』関係の本の中にこの表があるのは、当然のことなのだが、21日の時点では見落としていたのである。)一応全文の訓読と、先生の訳文を、原文と対比させながら載せさせて頂きたい。

もっと仏教的なものを載せた方がよいのであろうが、21日のブログが中途なので、きりをつけさせて頂きたい。吉川英治氏の『三国志』を若い頃に読んで、諸葛亮の活躍や、関羽や張飛の活躍に感激したのであるが、所詮は封建社会の、魏、呉、蜀三国の領土争いの話しである。諸葛亮が丞相を勤める蜀の立場から読めば、他国の者は全て逆賊となる。蜀も他国から見れば逆賊である。

学生運動を若い頃盛んにやっていた私の友人がいる。二年ほど前に会ったとき、中国のチベット占領について、「あれはひどいのではないか」と私が言ったところ、「僧侶が貴族化していたのだから、それから人民を解放してやったのだ。」という答が返ってきた。私はダライラマの側からみるが、友人は中国政府の側から見ているわけである。どの位置から見るかによって、逆賊の立場は変わるものである。

諸葛亮は先帝劉備玄徳に三顧の礼をもって迎え入れられたことの恩義に報いるためにも、後をまかされたことに大いに責任を感じているのである。先帝の息子劉禅には劉備ほどの器量がないことは分かっているので、自分の命のある間になんとか蜀の領土を拡大し、覇権を劉禅におさめさせたい一心なのである。それが表されているのが、「出師の表」である。

自分の力を認め、見出してくれた人への恩義を『三国志』に描かれる武将たちほどに、深く感じ入ることは世に少ないだろう。『三国志』を愛する人々はそこに魅了されるのであろう。「千里の馬は常にはあれども、伯楽は常には有らず。 (千里馬常有、而伯楽不常有。-韓文公「雑説下」所収 )」とも言う。諸葛亮もこの世で劉備という伯楽に出会った喜びが、いかなる艱難辛苦に遭おうとも、それをものともさせないほどのものなのである。

諸葛亮は、酷暑の南方征伐で、南蛮王孟獲と激烈な戦いをし、ようやく制圧して帰還し、休む間もなく、魏が勢力を伸ばしている中原を伐ちに行こうとしているのである。身命をなげうって、恩義を感じて生きる人間のロマンを「出師の表」に見てみよう。現代において、恩義を感じて生きられるような幸せな人間はどれほどいるだろうか。(師は軍隊のこと。表は上表文)

ライブドア事件でも堀江貴文氏に恩義を感じられなかった宮内亮治氏等はさぞや残念であったろう。ともに世界一の会社を作ろうと夢見た同志であったろうが、劉備でもなく諸葛亮でもなかった。その人のために生きるための義も無く、生かす器量も無かったことが、お互いに分かったということだろう。この人の為なら死ねるとまで思えたなら、それは富を手に入れる以上の喜びであったろう。案外そんな熱い思いを持ちたいと、今の若者たちも思っているのではあるまいか。(たまたま今日はライブドアの宮内氏の公判が開かれたようだ。)

〈原文〉
前出師表 臣亮言。先帝創業未半、而中道崩殂。今天下三分、益州疲弊、此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者。蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩失、義以塞忠諫之路也。

〈訓読〉
前出師の表
 臣亮言う、先帝創業未だ半ばならざるに、中道に崩殂(ほうそー崩御に同じ)したまう。今、天下三分して益州疲弊せり。これ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るる者は蓋し先帝の殊遇(しゅぐうー特別のてあつい待遇)を追って、これを陛下に報いんとするものなり。誠に宜しく聖聴(せいちょうー天子の耳)を開張し、以て先帝の遣徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこうーひろめること)すべし。宣しく妄りに自ら菲薄(ひはくー才能や徳が乏しいこと)し、喩(たとえ)を引いて義を失い、以て忠諌(ちゅうかんーまごころからのいましめ)の路を塞ぐべからざるなり。
〈井波先生の訳〉
 臣(わたくし)諸葛亮が申し上げます。先帝(劉備)は始められた事業がまだ半分にも達しないのに、中道にしておかくれになりました。今、天下は三国に分かれ、益州(蜀)は疲弊しきっております。これはまことに危急存亡の瀬戸際です。さりながら、近侍の文官は内で職務に精励し、忠実な臣下は外で身を粉にしております。思いますに、これは先帝の格別のご恩顧を追慕し、陛下にお報いしようと願っているからにほかなりません。陛下はまさに御耳を開き、先帝のお残しになった徳を輝かせて、志ある者の気持ちをのびのびと広げられるべきです。みだりに自分を卑小な者とみなし、誤った比喩を引用して道義を失い、臣下の忠言や諌言の道を閉ざしてはなりません。


〈原文〉
 宮中府中、倶為一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作奸犯科、及為忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。不宜偏私、使内外異法也。
 侍中・侍郭攸之・費禕・董允等、此皆良實、志慮忠純、是以先帝簡拔以遺陛下。愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。

〈訓読〉
 宮中・府中倶(とも)に一体為り。臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに宜しく異同あるべからず。若(も)し奸(かん)を作(な)し、科(とが)を犯し、及び忠善を為す者有らば、宣しく有司に付して、其の刑賞を論じ、以て陛下平明の治を昭(あきら)かにすべし。宜しく私に偏(かたよ)り、内外をして法を異にせしむべからざるなり。
 侍中・侍郎の郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)・董允(とういん)等は、これ皆な良実、志慮忠純なり。是を以ちて先帝簡抜して以て陛下に遣(のこ)せり。愚、以為(おもえらく)宮中の事、事に大小無く、悉(ことごと)く以て之に咨(はか)り、然る後に施行せば、必ず能く闕漏(けつろう)を稗補(ひほ)し、広く益する所有るなり
〈井波先生の訳〉
 宮廷と政府が一体となり、善悪の評価や賞罰に食い違いがあってはなりません。もし、悪事をなして法を犯す者がいたり、また忠義や善事をなす者がいれば、当該官庁に付託して、その刑罰や恩賞を判定させ、陛下の公平な政治を明らかにされるべきであり、私情に引きずられて、内(宮廷)と外(政府)で法を異にするようなことがあってはなりません。
 侍中・侍郎の郭攸之(かくゆうし)・費禕(ひい)・董允(とういん)らは、みな善良・忠実で、志は忠義・純粋であります。このために、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。思いますに、宮中の事柄は大小を問わず、ことごとぐ彼らに相談なさってから実施なさったならば、必ずや手落ちを補い、広い利益が得られるでありましょう。


〈原文〉
 將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事。試用於昔日、先帝稱之曰能、是以衆議舉寵為督。愚以為營中之事、事無大小、悉以咨之、必能使行陣和睦、優劣得所。
 親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓靈也。侍中・尚書・長史・參軍、此悉貞亮死節之臣也。陛下親之、信之、則漢室之隆、可計日而待也。

〈訓読〉
将軍の向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)にして、軍事に暁暢(ぎょうちょう)す。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰えり。是に衆議を以て寵を挙げて督(とく)と為す。愚、以為、営中の事は、事に大小無く、悉く以って之に咨れば、必ず能く行陣和睦させ、優劣をして所を得せしめんと。
 賢臣に親しみ小人を遠ざけしは、此れ先漢の興隆せし所以(ゆえん)なり。小人に親しみ賢臣を遠ざけしは、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。先帝在りし時、臣と此の事を論ずる毎(たび)に、未だ嘗(かつ)て桓霊に歎息痛恨せざることあらざりき。侍中・尚書・長史・参軍、此れ悉く貞亮(ていりょう)にして節に死するの臣なり。陛下之に親しみ、之を信ぜられたまえ。則ち漢室の隆(さかん)なるこ、日を計りて待つべきなり。
〈井波先生の訳〉
 将軍の向寵(しょうちょう)は性格や行為が善良・公平で、軍事に通暁しており、かつて試みに用いて見ましたところ、先帝は有能だとおっしゃいました。このために、人々の意見によって、向寵は督(司令官)に推挙されました。思いますに、軍中の事柄は大小を問わず、ことごとく彼に相談なさったならば、必ずや軍隊を仲むつまじくさせ、優れた者も劣った者もそれぞれ適当な働き場所を得るでありましょう。
 賢明な臣下に親しみ小人物を遠ざけたことが、前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ賢明な臣下を遠ざけたことが、後漢の衰退した原因です。先帝ご在世のみぎり、私とこのことを議論なさるたびに、桓帝・霊帝(いずれも後漢末の皇帝)に対して、嘆息され痛恨なさったものです。侍中・尚書・長史・参軍はみな誠実・善良で、死んでも節を曲げない者ばかりです。どうか陛下には彼らを親愛なされ、信頼なさってください。そうすれば、この漢室(蜀を指す)の隆盛は、日を数えて待つことができるでしょう。


〈原文〉
臣本布衣、躬耕南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂許先帝以馳驅。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。爾來二十有一年矣。
〈訓読〉
臣、本、布衣(ふい)にして、躬(みずか)ら南陽に耕し、荀くも性命を乱世に全うせんとして、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥りに自ら枉屈(おうくつー貴人が身を屈しへりくだって来訪すること)して三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。後、傾覆(けいふくー国が覆ること)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり。
〈井波先生の訳〉
 私はもともと無官の身であり、南陽(湖北省襄樊市)で農耕に従事しておりました。乱世に生命を全うするのがせいぜいで、諸侯の間に名が知られることなど願っておりませんでした。先帝は私を身分卑しき者とみなされず、みずから辞を低くして三度も私を草廬のうちにご訪問くださり、当代の情勢についておたずねになりました。これによって感激し、先帝の手足となって奔走することを承諾したのです。その後、、天地がくつがえるような大事件がおこり、戦いに敗北したさい、大任を受け、危難のさなかにご命令を奉じてから、二十一年が経過しました。


〈原文〉
 先帝知臣謹愼、故臨崩(岳飛の字、終)寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂慮、恐付託不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、甲兵已足、當奬帥三軍、北定中原、庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於舊都。此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之・禕・允之任也。
〈訓読〉
 先帝、臣の謹慎なるを知りたまい、故に崩ずるに臨み臣に寄するに大事を以てせんとす。命を受けて以来、夙夜(しゅくや)憂歎(ゆうたん)し、託付の效あらずして、以て先帝の明を傷うことを恐る。故に五月、瀘を渡り深く不毛に入りしなり。今、南方已に定まれり。甲兵已に足る。当に三軍を奨帥(しょうそつーはげまし率いる)し、、北のかた中原を定むべし。庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん)を竭(つく)し、姦凶(かんきょう)を壤除(じょうじょー攘除)し漢室を興復し旧都に還さんことを。此れ臣が先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。損益を斟酌し忠言を進め尽すに至りては、則ち攸之(ゆうし)・(い)・允(いん)の任なり。
〈井波先生の訳〉
 先帝は私の謹み深い点をお認めになり、崩御なされるにあたって、私に国家の大事をおまかせになりました。ご命令をお受けしてから、私は日夜憂慮し、委託されたことについてなんら功績をあげることなく、先帝のご聡明さを傷つけることになるのではないかと、恐れおののいてまいりました。このため、五月に濾水を渡り、深く不毛の地に進み入った次第です。現在、南方はすでに平定され、軍備も完備いたしました。まさに三軍を率い、北方中原の地を奪回すべきときです。願わくは愚鈍の才を尽くし、凶悪な者どもを追い払って、漢王朝を復興し、旧都(洛陽)を取りもどしたいと存じます。これこそ、私が先帝のご恩に報い、陛下に忠節を尽くすために果たさねばならない責務です。国家の利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之・費禕・董允の任務であります。


〈原文〉
 願陛下託臣以討賊興復之效、不效則治臣之罪、以告先帝之靈。若興無言則責攸之・禕・允等之咎、以彰其慢。陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激、今當遠離、臨表涕泣、不知所云。
〈訓読〉
願わくば陛下、臣に託するに討賊・興復の效を以てせよ。效あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げ、若し興の言無くんば則ち攸之(ゆうし)・禕(い)・允(いん)等の咎を責め、以て其の慢を彰(あらわ)せ。陛下も亦た宣しく自ら謀り、以て善道を諮諏(ししゅ)し深く先帝の遣詔を追い、雅言を察納し深く先帝の遣詔を追うべし。 臣、恩を受くる感激に勝(た)えず。今、遠く離るるに当り、表するに臨みて涕泣し、言う所を知らず。、
〈井波先生の訳〉
 どうか陛下におかれましては、私に逆賊を討伐し、漢王朝を再興する功績をあげさせてください。もし功績をあげられなければ、私の罪を処断して、先帝の御霊(みたま)にご報告ください。また、もし陛下の徳を盛んにする言葉がなければ、郭攸之・費禕・董允の咎(とが)を責め、彼らの怠慢をはっきりお示しになってください。陛下もまたよろしくみずからお考えになって、臣下に正しい道理をおたずねになり、正しい言葉を判断のうえお受け入れください。どうか深く先帝の遺詔(いしよう)を思い起こされますように。私は先帝の大恩を受けた感激に堪えません。今、遠く離れて出征するにあたり、この表を前にして涙があふれ、申し上げる言葉を知りません。


*原文は『大漢和』による。
*訓読については、力及ばざるところは、ネットより「古代史獺祭」のお助けを借りた。「古代史獺祭」と、私の訓読とは異なる箇所もある。
*訳文は井波律子先生の『三国志演義』(ちくま文庫)六巻125頁から128頁に掲載されたものを原文と対照させて掲載させて頂いた。

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2 コメント

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三国志ファン (りょう)
2006-05-26 20:02:53
風月さんほどの筋金入りではないかもしれませんが、私も三国志の一ファンです。

一応、吉川英治の三国志を全八巻、読破しました。

内容ほとんど忘れてしまいましたが、夢中になって読みました。



国土が圧倒的に広いせいでしょうか。

中国の歴史上の人物は人間のスケールも馬鹿でかいような気がします。

日本人はとてもかなわない・・・。

とにかく、豪快。反面細やかさには欠けますが。

諸葛亮も関羽も張飛も好きですが、私は特に趙雲子龍が好きですね。劉備に「全身これ肝の人なり」と言わしめた人物。かっこよすぎます。



恩義。

残念ながら現代では死語に近いかもしれませんね・・・。



私も、そこにロマンを感じます。



われわれが感じる恩義は仏恩ですね。



どれだけその恩に報いていることか、はなはだ心もとない限りです・・・・



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りょうさんへ (風月)
2006-05-27 07:46:00


コメントを頂き有り難うございます。今日、正に勇敢なる真の武将、趙雲の最期の場面を読んだところです。



「ふいに東北の角から突風が吹きおこったかと思うと、庭の松の木が折れてしまい、列席者一同は仰天した。諸葛亮は卦を立てて占い、「この風は一人の大将を失うことを暗示している」と言ったが、諸将はまだ信じなかった。



(趙雲は戦死ではなく、病気が悪化して死去したのですが、それを告げに趙雲の息子の趙統と趙広がやってきました。原文略)

 

(略)諸葛亮は驚愕し、盃を地面に投げつけて泣きながら言った。「子龍どのが死んだ」

(略)「子龍どのの死去によって、国家は棟木と梁を失い、私は片腕を失ってしまった」。



りょうさんのために、ちょっとその場面を一部分打ってみました。



*仏恩にもう少し私も熱くならねばならないと、と自省致します。













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