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風月庵だより

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戒名について考える

2006-07-26 00:38:52 | Weblog
7月25日(火)雨後曇り【戒名について考える】

(このところブログの管理を怠っていて、せっかくご訪問下さる方に失礼をしています。世の中はやはり多くの問題が起こっています。とても世の中の動きにはついていくことはできません。)

もうおそらく半年以上テレビドラマも観ていないので、実は「東京タワー」の放映を楽しみにしていた。リリー・フランキー氏の原作『東京タワー~オカンとボクと、時々オトン』(扶桑社、2005年刊)を友人に勧められて読んでいたので、どんなドラマに仕立てられているか興味もあり、楽しみにもしていた。

今は亡きドラマ作りの名人、久世光彦氏(享年70)がドラマ化を望んでいた作品であり、遺作と言えないまでも最後の息がかかった作品である。原作は始めのうちは私には違和感があったが、段々にリリー氏の世界に入り込まされていき、読んでいるうちに親孝行がしたくなるような作品である。そして「こんなでも何とか生きていけるようになるのだなあ」と勇気を与えてくれるような作品である。ベストセラーであることが頷ける。

それが例の未成年女子に暴行を働いた芸能人がその作品に出ていたために、予定日の放映は中止になったかと思っていたが、それでもいつかは放映の可能性のある延期になったようだ。

しかしそんな呑気なことも言っていられないほど、日本列島は大雨の被害で20人近い人が犧牲になってしまい、多くの家屋が流されたり、土砂に埋まってしまったり、予想外の被害が出ている。自然破壊の威力のすごさの前に人間は手の打ちようがない。人為でなんとかなる問題は大したことではないと痛感させられる。

さて今日のタイトルは戒名についてである。昨日、一昨日とご葬儀の導師を頼まれてやむを得ずに勤めさせてもらった。お金がないのでなんとか私に、と言われるので断るわけにはいかなかった。遺族は中学生と高校生の二人の少年である。母親はすでに12年前に亡くなり、今度は父親が突然に亡くなってしまったのである。

以前に亡くなっている母親の戒名には院号大姉がついているという。なぜ、院号をつけたのだろうか。お通夜とお葬式と戒名代で○○円だったという。曹洞宗は高いですね、と言われてしまう。なんという考え違いを人々はしているのであろうか。

戒名は佛弟子としての証であり、お金で売買されるものではない。院号は、特にお寺に功労のあった人に、お寺の方から特別につけるもので、依願によって付けられるものではない。もともとはお寺を建てた人やその一族に与えられていた特別の戒名であって、お金を積んで得られるような筋合いの戒名ではないのである。私が今研究している室町期の禅僧の語録にも多くの戒名が出てくるが、長い戒名はお寺を建てた人及びその一族にだけ付けられているのである。例えば龍文寺殿大造欽公居士などというように龍文寺というお寺を建立した人についているのである。

そして一番大切なことは院号が戒名に付いていようが、付いていまいが、彼の世でのランクには全く無関係だということである。釈尊は法の下に人間の平等を説かれた。その釈尊の教えのもとに戒名のランク付けがあること自体おかしいことである。

いつの頃からお金を積んで院号を戒名につけてもらうという悪弊が、社会にはびこってしまったのだろうか。つける僧侶もよくよく考えなくては、今回のように夫婦の男性が亡くなるときに、先に亡くなっている夫人と比べて戒名のバランスがおかしいことになってしまう。頼まれた僧侶はたとえお金を積まれても、先々のことを考えて院号を付けることは意味のないことを諭すべきであったろう。

付けて貰いたいと願う人々にも問題がある。いくらでなくては院号を付けないそうですね、高いですね、という考えは全くの間違いである。院号などつけたいと思うことが先ず第一の間違い、院号を望む限りはお寺への貢献としてお布施が高くなるのは当然なので、院号を望む以上は高いなどと言うことは間違いもいいとこである。まず第一の間違いがあるので、この間違いを無くせば第二の間違いは生じてこないことになる。

しかし現実問題として、世間的に少し活躍した人は院号のついた戒名を望むし、立派な戒名でしたね、などという傾向がある。一方戒名についてのお布施がお寺の経営にとって大事な収入源になっている面もあるだろう。しかし、これを止めないと仏教は本当に衰退していくであろうし、僧侶は彼の世で釈尊の前に佛弟子として立つことはできないだろう。また人々も戒名に拘わらず、特に小さいお寺は、お寺の管理はなかなか大変なので、できるのであれば、徳積みとして多くのお布施をお寺に包まれても一向にかまわないことである。また徳積みとして社会に還元してもよいのではなかろうか。

本当に生きたお金の使い方をしたいものである。とにかく戒名の差は後生の救いに全く関係が無いのである。その人がどう生きたか、どう徳を積んだかだけが問題なのである。お互いに本当のところを見失わないで生きあいたいものと思うのである。

院号:院号はもともとは天皇が譲位や隱居によって移り住んだところを院と呼ぶようになったのが初めである。(はじめての院号は嵯峨天皇〈786~842)の嵯峨院の称号。)その後公家や武家が江戸時代に戒名につけるようになったそうであるが、江戸幕府は禁止令を出している。また明治以降、大富豪や政治家などの戒名につけられるようになり、降って社会に大きく貢献した人や寺院への貢献が顕著であり、信仰心の篤い人に贈られるようになり、さらに多額の寄附などによる一時的な功労者に贈られるようになったようである。ご参考にして頂きたい。