mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

時を旅する

2016-08-31 11:39:58 | 日記
 
 わずか3泊4日、田舎を訪ねただけなのに、すっかりくたびれてしまった。昨日は夕方4時には帰宅していたのに、何もする気にならず、夜8時には寝てしまった。そうして10時間以上過ぎて今日、平生が戻って来た感じがしている。
 
 食べ、呑み、疲れた。法事だから仕方がないというよりも、4年ぶりに顔を合わせたカミサンの兄弟姉妹とその連れ合い、子どもたち孫たちと、食卓を囲み、無沙汰を詫びて近況を交わし、杯を酌み交わす。高知県という土地柄もあろうが、男も女も、これまた気持ちよく、お酒を呑む。法事の日にはお昼頃から、途中3時間ほどの休憩を挟んで、9時ころまで話しに花が咲く。土佐の皿鉢料理というのが、女も一緒に腰を据えて呑み明かすための料理だと知った。なるほど女性陣もお酒は強い。七回忌を迎えた義母も、じつはお酒が強かったと、話しを聞いて知った。孫が呑むのに付き合って、ビールや焼酎を呑んでいたそうだ。今回も、沖縄産の泡盛の8年物、5年物の古酒を用意してくれていて、オンザロックにしたりお湯割りにしたりして、愉しんだ。着いた日、法事の日とつづけると、さすがに身に応える。だが、夜寝ているうちに腹に納めたものが右へ左へ輾転反側して昇華され、身が浄化されていくように感じる。翌朝にはまた元気が恢復して、標高800mの冷気を含んだ朝の空気を吸いながら、南向の山から沸き立ち流れる雲を眺めて、「日の出に向かいて雲行けば日和の兆し」と、力がみなぎってくるような思いがする。日ごとに死と再生が繰り返されていることを、身をもって感じる。
 
 家の眼下に広がる千枚田に稔る稲穂が頭を垂れている。早稲の田んぼでは稲刈りがはじまっている。晴れの日を見計らって順次刈り入れる。高齢者が多いから、稲刈り機をつかって請け負う人がいる。雨が多いと稲刈り機の車輪が泥に埋まって具合が悪い。一気にやることも含めて、ぼちぼち業者に頼むこともしているという。だが85歳の義兄が「誰っちゃやってくれる人はおらんから、田んぼは儂がやりよる」と気炎を吐く。いまでもスギの枝打ちをするために、梯子をかけて樹に登る。それも命綱は付けない。「どうして?」「そんなことしよったら、仕事にならん」。「命綱は付けてくださいよ」と姪の婿さん。本家の義兄は、あと3年だけ田んぼをやるという。80歳。そのあとどうするの? と訊くと、スギでも植えて森にすりゃ、ほかに迷惑はかけんし手間がかからん、と将来設計を立てている。ヒノキは植えないのかと尋ねると、「あれはシカが好みじゃけん、食われてしまう」とシカの被害が広がっていることを明かす。シカばかりではない。イノシシの被害も増え、田んぼの周りに鉄製の囲い柵を設えている。柵の資材に国の補助金が支出され、自分の手で設置していったそうだ。サルの被害もあるにはあるが、そこまで手が回らない。
 
 早朝にカミサンが、子どものころに通い遊んだ、うちの近所の散歩を案内してくれた。まったく人気はない。なにしろむかし、一山越え1時間かけて小学校に通った道。ここには同級生がいたという家は、入口の坂道から草がぼうぼうに生え、屋根が崩れ、家が傾いていた。この上にはヤエちゃん家があったというところは、きれいに整地され、草原になり、まばらにスギが生えている。そのさきにはよく手入れされ柵囲いされたオクラの畑がある。下のうちのチエさんがやってるのだが、連作被害は出ないんだろうかとカミサンは心配する。雨上がりの静かな谷間にコジュケイの声がこだまする。こちらではカケスの声が響く。「何処いっちょるかと思うた。御飯ですよ」と姪の娘の中学生が、父親と一緒に別の道路に行きかけて立ち止まる。「ありがとう、おはようございます」と挨拶を交わすが、この子たちも、名古屋からおおばあちゃんの七回忌に来ているのであった。
 
 国立競技場の設計を引き受けることになった「隈研吾が設計した建物が、檮原に4件もあるの、知らなかったの」と従姉妹にいわれ、カミサンが見てみようという。以前にも目にしていたが、急に「名人の作品」と紹介されたような感じで、あらためて見入った。なんというか、自分の眼で見ているというよりも、なるほどこういうのを「銘品」というのかと自分に言い聞かせるように見ている。確かに面白い。このセンスが古いのか新しいのかわからないが、身に馴染む感じは「面白い」。檮原町役場の駐車場は、お祭りなのか、その準備なのか、幟が立ちならぶ。役場の中央も大きく開いていて、中の展示物がぎょぎょぎょと思わせる大仰なすがたをみせている。「電話樹」と題された若手のゲイジュツカの作品ということだが、ちょっとギャグが古いセンスだと思う。午後4時ころということもあってか、人気はひっそり閑としている。翌々日、帰途にまた町中心部に立ち寄って、隈研吾の別の建築物をみる。「町の駅」という物産館。外形が茅葺のような庇を道へ突き出す異様さが、ちょっと滑稽な感じ。これも古いのか新しいのかわからないが、変わっていて面白い感触は備えている。ちょうど8時半に開店ということもあって、なかに立ち入る。壁面が鏡になって広く見えるが、コンパクトにまとまっている。売り子の20歳代のお姉さんに話を聞くと、ちょうど私たちが役場をみた日に、この町で隈研吾の講演会が行われ、全国から建築関係の人が集まってにぎやかだったそうだ。この「道の駅」にもやってきて、「立つ場所に困るほどでしたよ」とうれしそう。去年はこの町への移住者が60人ほどいて、自然減と社会増で、人口減少がストップした状態にあるという。また別の人に聴いたが、県立檮原高校の野球部が、この土地出身のノンプロ野球の高名な人を監督にして全国区で部員募集をしたところそこそこの応募があり、若い人の増減にも歯止めがかかったという。全寮生活をしながらトレーニングに励んでいるのであろう、彼ら野球部のユニフォーム姿を、帰途の車の中から見かけた。
 
 こうして月曜日、高知駅へ出て、瀬戸大橋を渡る。カミサンはそのまま東京へ帰り、私は、岡山の(元)実家に行く。児島の駅に兄が迎えに来てくれている。本家を継いだ弟夫婦が大阪からきていて、遺品の整理をしようというのである。だいぶ整理はしてくれている。残り僅かの手紙や写真などをどうするか見てくれと言われている。手紙はまとめて縛ってある。その紐を解かないままに、「焼き捨てる」方に分ける。若いころの自分と出逢うのが、いやだ。葉書類は差出人別にファイルに分けてある。亡くなった母が仕分けしていたまんま。葉書はほとんどが絵葉書。私がエジプトやインドを旅したときのair-mail、私の息子がシシャパンマやネパールへ行った折のもの、私の娘が修学旅行先や独り暮らしをしていた大学のころものなど、母が80歳から90歳にかけてのものであった。息子や孫からのそれらを、母はどのような思いで読んでいたのであろうか。
 
 アルバム写真も同様に、私とカミサンと子どもたちの出したもの映ったものを分け取る。初孫(私の息子)がゼロ歳のころのもの、歩き始めたばかりの写真も母は取り置いてあった。亡くなった末弟(叔父)に連れられて、私の息子と娘が里帰りしたこともあったことも、写真を見て思い出した。従兄弟たちと一緒に遊んでいる。そう言えば(一昨年亡くなった)私の末弟は若いころ、私の子どもたちとよく遊んでくれた。独り身であったころには、日曜日ごとにやってきて夕飯を共にして帰っていくことが多かったと思い出す。私が沖縄へ母親を連れて行ったときの、紅型の伝統衣装に身を包んだ若い女性と守礼の門のところで撮った「記念写真」があった。私の髪もふさふさ黒々としている。2004年の3月であったか。母84歳の春。3時間くらいだが、時を超えて旅をした気分であった。
 
 こうして遺品をとりわけ、あとは兄に任せることにした。弟嫁と兄嫁の御馳走に舌鼓を打ちながら、兄の用意した極上の大吟醸を空け、弟の用意した焼酎を水で割って頂戴し、これまた夜の12時過ぎまで6時間に及ぶ酒宴を張った。夜中にやはり、輾転反側するようであったが、みごとに昇華し、朝気分良く目覚める。朝食をいただいて、バスに乗り、新幹線に乗り継いで家へ戻った。電車の中では半分は、本も読めず、ぼんやりと半醒半睡の状態で過ごしたから、身体は休まっていたと思う。でも、冒頭に記したとおり、やっと今日になって、意識が定まった。もうそろそろ深酒はやめなさいとお達しがあったように思う。身のほどと相談して、これからを過ごしませうか。

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