mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

やきもき

2016-08-20 05:44:42 | 日記
 
 台風8号が関東に近づいては来たものの、上陸しないで三陸沖の太平洋岸を北海道へ抜けるとわかって、23日からの山のrent-a-carを申し込んだのは16日。ところが一昨日になって9号が発生したという。その進路が関東に上陸し、日本列島の真ん中を北上してオホーツク海へ抜けるというから、鳥海山はまさに渦中になる。まいったなあどうしようと、昨日おろおろとした。とりあえず「切符を買うのは、ちょっと待ってください。日曜日夕方には決めます」と参加会員の方々にはメールを送った。
 
 今朝早くに目が覚め、パソコンで台風進路予報を覗く。なんと、10号も発生しているではないか。でもこれは、大島の南方から太平洋上を西へ向かう。9号は22日の午前3時に、まだ八丈島の南南西海上、23日の午前3時には福島県の会津辺りを通過している。ということはすこぶる脚が速い。22日の夕方5時ころに東京湾に入り込み、さっさと駆け抜けるようだ。鳥海山からみると、23日の午後は台風一過ではないか。いこいこ、と思う。
 
 でも、南から北上する台風9号と、東から西へ向かって10号になる前の熱帯低気圧とが、21日~22日の午前中にかけてすれ違うのに、どうして進路が違ってしまうのだろう。いっしょになって強まっって(もちろん弱まっても悪くないが)、同じコースを辿らないのはなぜなのだろう。どんな要素をどう組みこんで予想しているのか知らないが、ずいぶん気まぐれな進路だなあ。
 
 でもこの気まぐれは、あんがい私の気分に見合っている。要するにわからないことが多くて困るには困るが、世の中ってこういうもんだよと思っていると、「予想がいち早くわかる」分だけ、昔に比べればよくなったってもんだ。
 
 日曜日夕方に決めると言ってはいたが、月曜日に台風が来たのでは切符を買いに駅に行くだけでも大変ではないか。ならば、今日にでも「行きます」って、メールをした方がいいかもしれない。そんなことを今考えている。やきもきしているのだ。

アメリカ製憲法が対米追随に結びついているのか

2016-08-18 20:00:51 | 日記
 
 8月15日にアメリカのバイデン副大統領が「日本の憲法は核武装をさせないためにアメリカがつくった」と言明しました。共和党の大統領候補であるトランプはそういうことも知らないのかと非難する演説であったわけですが、日本のマスメディアは、日本会議が喜びそうなことと揶揄するように報道しているのが、気になりました。日本会議は喜ぶでしょうか。
 
 憲法改定がGHQ の押し付けであった事実は、ほぼ確定していると言っていいでしょう。日本政府の煮え切らぬ対応に(連合国軍のGHQへの強烈なプレッシャーもあって)、英文草案を提示し、それをもとに策定させたというのは、日本の高校教科書にも掲載されていることです。占領下で、主権国家の憲法を作成させるというのは、あきらかに不法なことです。じつは、1907年に締結されたハーグ陸戦条約にも、「占領者は絶対的な支障がないかぎり、占領地の現行法規を尊重すること」と規定されています。むろん日本に対しては、ポツダム宣言で「非軍事化(軍国主義要素の排除)、民主化」が筆頭課題でしたから、「絶対的な支障が」あると判断されたことは容易にわかります。では、日本と同じ問題を抱えていたと思われるドイツはどうしたのでしょう。矢部宏冶が次のように書いています。
 
《しかし、やはりドイツは政治指導者や知識人が優れていた。まず占領中はいくら言われても絶対に正式な憲法をつくらず、1949年5月の独立時いかなる(憲法)各州の代表からなる議会代表会議によって基本法(ドイツ共和国基本法)という形で「暫定憲法」を定め、そのなかに、「この基本法は、ドイツ国民が自由な決定により議決した憲法が施行される日に、その効力を失う」という条文を入れています。》
 
《「もし国土の一部でも占領されていたら、その間は絶対に憲法に手を触れてはならない」。これが世界標準の憲法に対する常識なのです。》 
 
 ハーグ陸戦条約には日本も1911年に批准して加入していますから、敗戦時にそのことを知らないわけはありません。ではどうして、ドイツのように毅然と対応しなかったのでしょうか。矢部宏冶が言うように(ドイツの政治指導者や知識人と違って)日本の政治指導者や知識人がアホだったからなのでしょうか。そう言ってしまっては身も蓋もありません。ナチスという政治集団がドイツを乗っ取っていたという認識に立つことによって、ファシズムの現況要素であるナチスは除かれたというのが、いちばん大きかったでしょう。同じ白色人種の国民国家という偏見もなかったとは言えないかもしれません。だが、日本がもし「独立時に憲法を改定する」として、「基本法」を策定して乗り切ろうとしていたら、たとえ軍隊を失くしていたとしても、軍国主義の推進要素である天皇制に手を加えないではいられなかったと考えられます。GHQが直にそのような脅しをしたかどうかは諸説ありますが、GHQの提示を受け容れなければ、天皇を戦犯として処刑し天皇制を廃止するという連合国軍の一般的な方針が採用されることになったと思われます。
 
 日本会議が喜ぶかどうかと言ったのは、それがあるからです。そもそもこの当時(1945~1947年)の日本政府は、天皇制の保持を第一課題としてGHQとの折衝をしています。当時5歳になる私はいわば「刷り込まれる」ように「新憲法」(の精神)を受け止めていたのですが、後で考えてみると、アメリカの押しつけであっても「新憲法」を受け容れたのは、それが私の親世代の「戦争の反省」と考えていたからだと、内心で納得していました。
 
 つまりバイデン副大統領の発言に日本会議の人たちが喜ぶとしたら、彼らは、戦犯として天皇を処刑すること、あるいは天皇制を廃止することと引き換えにしてでも、「押しつけ」を撥ね付けるべきであったと考えるでしょうか。もちろん、占領が終了する独立後に天皇制を復活させてもいいわけですが、もしそういうことをしていたら、たぶん国民感情として復活できたかどうかはわからないと思います。その辺のことをいい加減にして、「押しつけ」だけを非難するのは、ご都合主義的な立論といわばなりません。
 
 では、バイデンの発言にどう対処すればいいでしょうか。彼の言説は、現在の日本がアメリカの属国という認識を表しています。それは「新憲法」誕生の経緯にあるのではなく、占領が終了して独立するときの講和条約の結び方と日米安保条約の施行の形にあります。「日米行政協定」のちの「日米地位協定」と月2回の日米合同委員会での合意事項と、それらを、憲法を含む国内法の上位に位置づける日本の三権機関の法治認識にあるのです。その意味では、バイデンに軽んじられたことの「敗北」をかみしめて、日本の統治体制を改めて見直すことが必要ではないでしょうか。

呼吸と瞑想とお釈迦様ごめんね

2016-08-17 20:47:52 | 日記
 
 今日(8/17)の朝日新聞夕刊に相田和弘が「観察瞑想(ヴィッバサーナ瞑想)」体験を書いている。ブッダが編み出した瞑想法らしい。
 
《基本的には一定の時間、身体の力を抜いて姿勢正しく座って目をつむり(半開きでもよい)、自分の自然な呼吸に意識を集中させ、観察する。それだけだ》
 
 雑念が起きる。あれこれと思いが経めぐる。するとまた、呼吸に意識を集中させ観察する、その繰り返しだという。なんだ、山を歩いているのと同じではないか。私はつねづね、山歩きは瞑想だと考えてきた。でもじつは、俗にいう「瞑想」がどのようなものかは、知らない。ただいつであったか、三十数年前に職場の同僚で「瞑想修行」を始めた男から、「瞑想ってどういうことだと思う?」と訊かれたことがあった。そのとき、「意識は透き通るように明瞭だが、でも何も考えていない状態かな」と思い付きを口にしたことがあった。彼はそれに同意しながら、「そういう状態になったことがある?」というから、「山を歩いているとよくなるよ。」と答えた。だが、なぜ歩いていてそうなるのかは、考えたことがなかった。相田和弘の体験記を読んで、それを教えられた。歩くことによって呼吸に意識を向けているのだ。
 
 山を歩いていると、足元に目が向かう。急斜面になると、自ずから呼吸に意識が向かう。若いころは、ハアハアと呼吸が乱れる程度には早く歩いた。ペースを上げることしか考えていなかったから、いやでも呼吸が荒くなる。そして、気になる。でもそれは、「呼吸に意識を向ける」というのとは違うのかもしれない。むしろ、歩くペースが長時間歩行向きに変わって、ゆっくりと持続的に歩くようになってから、無念無想というか、足元はいつもくっきりと意識しているのに、雑念もなく何も考えていなかった(と、あとで思える)状態が2時間くらいつづく。疲労も感じない。気が付くと2時間経っていたというふうに言ったほうが正確かもしれない。「瞑想で訓練する心のありかた」と名づけて、相田は次のように記している。
 
《――いまここで起きているありのままに気づき、価値判断をしない――》
 
 彼はその迷走を、「きわめて実用的な心理的技術」と有用性を強調する。そこが私からすると、まだ甘いんだなあと思える。結局、あと付けであろうが、価値判断をしているじゃないか。それじゃ、せっかくの瞑想の境地が台無しだよ、と。
 
 役に立つとか、怒りを治めるのに効果があるとか、そんなことはどうでもいいじゃないかというのが、瞑想の無念無想だ。呼吸に意識を向けるというのは、観念や思念、自覚的な感覚とすら離れて、「身」そのものになる境地である。つまり、「自然/じねん」と一体になっている「身」に還ることを意味している。私は(山を)歩くことを通じてそれを感じているように思う。誰であったか、「感覚」ということ自体もすでに意識している要素を含む。だから感覚せよというのではない。無意識下の情動が動く、あるいは情動が「身」となる――かたちを成す地平に降りたつ。それが瞑想だと私は思っている。
 
 情けないことに、平地に降りたつとすぐに瞑想の境地を忘れてしまう。おいしいお酒を飲んで酩酊の境地に入ってしまおうとする。情けないが、これも私の「じねん」である。お釈迦さま、ごめんね。

魂の系統発生へ

2016-08-16 16:24:57 | 日記
 
 昨日ヘンリー・ソローの『歩く』に触れて、原初人間のつくりあげてきた「自然」との関係を手繰り寄せようと試みていたと記した。だがよく考えてみると、人類史は、その出発の当初から場面場面、局面局面を通じて身体をつくりあげてきた。腕が頭上に上がらなかったネアンデルタールと違ってクロマニョンが肩を回して腕を振り、モノが投げられるようになったのも、そうした適応のひとつである(ネアンデルタールは野球のボールが投げられなかった)。(幅はあるけれども)最適なかたちの創出身体が生きのびることになったといえる。
 
 もちろん(世界において)、場面や局面は一様ではないから、創出身体もまた、多様な形をなした。だからソローがたどり返したいと思った「自然」との関係は、じつは彼自身の身体性の中に埋め込まれていたものであった。むろん彼は、それに気づいていた。しかし個人ではなく、社会全体としてみた場合の(人間諸力)継承はどうであったろうか。
 
 一度つくりだされた創出身体が受け継がれていくとき、後々の世代はそれが累代の努力と継承によって創出されたものということを忘れ、生得の能力と受け取る。ところが、社会的な分業がはじまると、ある能力がある人たちに特化され、他の人たちは特化された能力に依存することによって、その能力を退化させるか、もしくは発達させないままに人生を送る。呪術が呪術師に担われ、戦闘が兵士に担われるように、社会関係によって、「自然」とのかかわりも(単独者において)全的な発達をすることなく、総じて人間諸力として保持されるようになる。
 
 つまりソローが、単独者として「自然」との関係をみている限り気づいていなかったのが、一個の身体性を超えるところに蓄積されてきた「社会関係」における「自然」とのかかわりであった。だから彼は、《「自然」に身を浸すと言っても、そう簡単に同調できない地政学的位置を押さえなければならない》という感想を私に、もたらしたのであった。
 
  「歩く」というのが自己の内面への旅であると、ソローは考えてもいる。その通りだと私も思うが、そのとき私は、「自己」の輪郭が「社会関係」と複合することによって茫漠としていることが気になる。単独者として「自然」とかかわるとみるには、あまりにも多くの社会関係によって創出された身体諸力を感じるのである。
 
 たしかに野生に身を置いて、自らを「自然」の一部として暮らすには、雨露をしのぐことにはじまり、あるいは家を建てて暖を取り、獲物をとって捌いて料理することも覚えなければならない。まさに獣のように暮らすことの素晴らしさにロマンを感じることを否定はしない。だが人は、共同性を高め、交通を発達させ、鉱工業の生産活動を行うことにおいて、着実に分業による協業という社会関係を発展させてきた。そのことによって(たいていの現代人は)、もはや自分一人では丸太小屋一軒建てることもできず、獣を捌くことも(たぶん)できなくなっている。
 
 そういう意味では、現代の人類史は、相反する方向へ身体を運びつつあるのかもしれない。一つは、運転技術の上手下手どころか、車のハンドルを握らなくても(自動運転車によって)思うところへ移動できる時代がやってきている。たぶん歩く能力は、間違いなく退化しているであろう。他方で、延命装置と臓器移植、治療法の進展や健康法の開発によって、人間の身体はこれまでになく長生きになってきている。
 
 いや、そうだからこそ、ソローのいう「歩く」が見直されてくるのだが、では私たちは、どこに視座を置いて、ソローの「自然」と一体となる「我ら」の暮らしをイメージすればいいのであろうか。ラッダイトも面白いと思わないでもないが、いまさら荒唐無稽な感は否めない。
 
 ちゃらんぽらんな私が、150余年前のソローさんに異議申し立てをしているのではない。彼の「歩く」にロマンを感じるというのは、彼の言説の行間に魂が発生し、それが受け継がれていくことを(究極のところ)期待しているように感じるからなのだ。「自然」に(我が身の)位置する能力の系統発生を、身にひしひしと感じて受け継いでいくところにこそ、あわせて魂が受け継がれているように思う。その魂も、「社会関係」の交雑さを併せて考えてみると、なんとも複雑で難しくなってしまった。
 
 どこかで(いくつかの利器だけを用いさせてもらって)あらためて原始生活にもどって、歩一歩と歩いた「自然」との向き合い方をヒトとしてしていなければ、魂の系統発生が保たれないと、いうのかもしれない。山歩き程度の「さわり」ではいけませんね。それこそ人生いたるところに青山ありという感触を見に感じとれるほどの自然への没入をしてみなさいよと、言われているような気がもする。さてどうするか。

歩く人

2016-08-15 14:13:17 | 日記
 
 ヘンリー・ソロー『歩く』(ポプラ社、2013年)を読む。書かれたのは1862年。150年以上も前である。でも、これが掲誌紙の巻頭を飾ったときソローはすでに他界していたから、遺稿である。おっ、この前もどこかで遺稿を読んだと書いたことがあるな……。そうか、カート・ヴォネガットの「国のない男」だ。図書館でふと、手に取った本が「遺稿」というのは、ついているのかついていないのか。ソローは、いわずと知れた『森の生活』の著者。自然の中に身を浸し、生涯、逍遥と思索をつづけた人と私は思っている。
 
 ソローは、毎日4、5時間は歩く。行き先は町の方ではなく、森の方へ、沼沢の方へ、未開の地の方へ。人の住まない地を経めぐる。《……社会の一員であるよりむしろ、「自然」の住人、その一部として人間を考えるためです》と意味づける。「自然」ということについても、《私は「自然」のために、つまり絶対的な自由と野生のために……》と自己との接点を係留して、こう言う。
 
《……人生において「歩く」とか「散歩」の術を理解している人にはほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。》
 
 「歩く」ことを「さすらう才能を持っている」と読み替える。それは、「中世に国中を放浪し、聖地へ行くという口実で施しを求める怠惰な人々」と語源を探って由来を語り、「歩いて聖なる土地へ行くもの」とみている。どういうことか。
 
 《私たちは意気地なしの十字軍戦士にすぎません。根気を必要とし、いつまでもつづく活動はじき受けない、そういった歩行者になってしまいました。私たちの探検はただの旅行で、夕方には再び出発したもとの炉端へ戻ってきます。》
 
 と、文明的な暮らしが「自然」から浮遊し、「絶対的な自由と野生」を失わせているとみている。「自然」の中に身を浸すことを「絶対的な自由」と呼ぶ。そして、「絶対的に自由な地平ではすべてが義務である」と付け加える。「自然」において人間は、すべてを自分で取り仕切らなければならない。文明を拒むというよりも、人間が「自然」と相対して営んできたことごとくの知恵や知識の創出を、自らの身体に意識的に備えていこうという意味で、「義務」と呼び、それが「自由」であると名づける。自然の一部としての人間のすべての行為が「義務」であることへの憧憬が、脈打っている。
 
 私が毎週のように山を歩くのなどは、彼のいう「歩く」範疇に入らない。地図を持ち、装備を整えて分け入って、時として藪漕ぎをするようなことがあったとしても、それで「自然」の一部として存在したなどと言わないでよ、という声が聞こえる。でも、そのほんの入口のところで、ちょっとした「自然気分」を味わっている。
 
 もはや辺境がないとさえ言われる地球上で、ソローのようには生きられないと思いながら、他方で、アメリカという大地で感じている「自然」と、日本の山などで感じている自然とは、、ずいぶん大きな違いがあるだろうなあと、この方の器の小ささを思い知る。もちろん小さいからといって卑下しているわけではない。「自然」の一部というときのスケールの違いを無視しえないなあと思う。あるいはまた、ソローが「野生を目指す者は西へ向かう」というとき、19世紀半ばのアメリカにおいていまだ西部開拓的なフロンティア精神がそのまんまに受け継がれていると思う。先住民族のインディアンに対してソローはどう見ていたろうというのも、気にかかる。というのも、ほとんど何もかもが「新大陸の発見」というヨーロッパ=世界観の感覚に充たされているからである。
 
 彼のこの本が書かれた年が、フロンティアの延長である黒船の来航の、わずか9年前でしかないことを考えると、私たちがどこに視点を置いて、ソローの本に接して行けばいいか、ほのかに浮かび上がるように思える。彼の、根源に目を向けた視線を、どう繰り込んで「自然」と向き合っていくのか、思わぬほどの距離がある。「自然」に身を浸すと言っても、そう簡単に同調できない地政学的位置を押さえなければならない、と思った。