mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

変化に富んだ仙人が岳のルート――山案内人から解放してもらえるか

2016-03-23 05:04:57 | 日記
 
 昨日は山の会の月例登山。足利市の最高峰・仙人が岳。最高峰といっても標高は662m。上り口は標高200mであるから、途中上り下りがあっても累積標高差は500mほど。歩行時間は5時間程度、むつかしくはない、と考えていた。
 
 8時20分に到着する電車で足利市駅に全員が集合。借用したrent-a-car2台の運転手を務める私とKさんは、手はずを整えて駅前で待っていた。登山口へ向かう。岩切の駐車場付近のサクラは5分咲きというほどに咲いている。ソメイヨシノではないのかもしれない。梅も花開いていて、山の春は一斉にやってくるという気配。私は昨年の2月にここを歩いている。その時の感じでは猪子峠までがすぐであったように思ったのに、今日は30分近くもかかる。先月末からの痛風以来、八重山諸島に旅はしたものの、山らしいところは歩いていない。私にとってはこの春の初山行、体が慣れていないのだろうか。皆さんの歩調は快調である。
 
 猪子峠には「赤雪岳への登山路が崩落して通行止め」と地図を掲げて表示してある。ここから仙人が岳を回って赤雪岳に下山するルートをとる人もいるのであろう。そこから上りにかかる。ジグザグに道をとりながら急斜面を登る。猪子トンネルの上を通るところで、赤い花が咲いている。ツツジだとKwrさんがいう。ミツバツツジだろうか。葉は一葉もなく、濃い赤の蕾が今にも開かんとたくさんついている。その先には花が開いている。蕾と異なり、明るい赤に白い花びらも混じって大きい。さらに日当たりのいい上の稜線では、その木の花が全部満開という状態。暗いスギ林を過ぎて枯れ木ばかりの冬枯れの木立の中に赤い色を付けたこの花は、いかにも際立つ。小さいスミレが2輪足元にあった。後方の人たちは「アシカガスミレ」と名づけて、喜んでいる。標高429mの地点を過ぎてひと休止する。約1時間半。風はない。曇り空がほどよく、汗もかかない。急斜面で黙々と歩いていた人たちも、おしゃべりが出てくるほどに気持ちがほぐれてくる。そのうち鼻歌も交じるようになった。子犬を連れた若い男二人が勢い良く登ってきて、追い越してゆく。
 
 登山路の途中に「トレイル・マラソン 3/27(日) ご協力ください」と、ビニールの覆いに包まれた掲示が掲げられている。四日後の日曜日だ。どこからどこまでのマラソンかはわからないが、春の陽ざしを受けて走るのだ。そういえば昨年ここを登ったときに、トレイル・ランニングのトレーニングで上ってくる若者二人に出逢ったことを思い出した。彼らはほんの小さなリュックを背負って、半袖姿ではなかったか。生不動尊からのルートが迷いやすく困ったとこぼしていたなあと、不意に細かいことが思い浮かぶ。
 
 標高511m、猪子山山頂。東の下方に大きなダムが見える。松田川ダム。猪子トンネルを抜けた先に設けられた足利市の水源である。遠方に赤雪岳も見える。ここを歩いてわずか1年にしかならないのに、私はほとんどこのルートのことを忘れている。たしか「犬返し」と名づけられた小さな岩場があった。稜線はだんだん細くなって、小さな岩を乗っ越すように歩かなければならない。正面の大きな岩が重なり合って屹立するのが居に返しかと思っていたが、近づいてみると、傍らの崩れた小石を踏みながら登る急斜面。こんなものではなかった。
 
 それを過ぎたところで、岩場はあった。鎖もついている。だが私は、鎖を離れて右の方へどんどん上る。岩は垂直に近くなる。手がかり足掛かりはある。だが、最後のところを登るときに、女の人の身の丈と手足の長さではここはちょっと難しいかな、と思う。そこで、違ったほうを覗いてみると、下にあった鎖はこの上部までつながっていて、それをたどると、それほどスタンスを大きく取らなくても上ることができる。声をあげて、そちらへ方向を変えてもらう。私の後に続いて中間地点に来ていたKwさん夫妻が、左へトラバースして先頭で上がってくる。最後のところも上手にクリアする。「あなたの上がったルートを直登するのは、俺には無理だよ」とKwrさんは言い、「いやあ、面白いねえ」と嬉しそうだ。この緊張感がたまらないという風情だ。
 
 でも下にいる人たちは、10mほどの岩場にしり込みしている。Kさんが途中まで登って、「そこを左、その岩角に足をかけて、そう、右手で岩をつかんで……」とガイドしてくれている。一人ずつ、Kさんのガイドに従って岩にとりつき、鎖をもち、岩角をつかんで這い登ってくる。顔は緊張感に包まれて引き締まっている。いい顔だ。「岩場があるから怖い」と言っていたOkさんが、上がってくる。上について、「やったあ」と声をあげる。「何よ、こんなの登れないわよ」と愚痴っていたMrさんも、上からみている限りでは、さほど難しくなくクリアする。「Kさんは神様です」と、Kさんのガイドをほめちぎる。あとの人たちは、手際よく登って、達者であることを示している。誰かが「さっきのイヌは越えたのかなあ」とつぶやいていた。
 
 地理院地図には山名はほとんどないのだが、一つひとつのピークに、「維の岳500m」とか「宗の岳530m」と、小さなプリンタから打ち出した山名がビニール袋に包まれて木立に縛り付けられている。その「宗の岳」でお昼にする。11時半過ぎ。先ほど通過してきた岩場のことが話題になる。優しいエスケープ・ルートもあるはず、と誰かが言う。栃木百名山というガイドブックに書いてあったらしい。「ならば、それを探せばいいのに」と口を挟む。「だって……」と、リーダーである私が先へ行っているのに口を挟むことはできない、と言いたいのであろう。私はそういうエスケープルートがあることを知らない。それを通過するのが難しいと思った人が自ら調べて、安全な道をとるのは必要なことだ。それをリーダーのせいにしては、我が身は守れない。
 
 「妙義山のときは安全確保のカラビナなどもあったし……」という。「自分に必要なモノだったら、ご自分で購入して使うようにするものですよ」と付け加えながら、そうだ私がこの山の会のガイドをつづけていてなんとなく釈然としなかったのは、私に頼りきりで、独り立ちするような気配をみせない会員がいたからだと、ふと気づいた。「退会しろってことでしょ……」とどなたかがぼやく。「違う、違う。退会しろなんて言ってない」と言いながら、(私は案内人になりたくないのだ。同行者になって一緒に山を歩きたいのに、私を案内人にしたてる構えが嫌なのだ)と、私自身の内心が見てとれたような気がした。
 
 標高50mほどを下ってさらに100m上るようにして、「知の岳561m」に着く。そこから5分ほどで「熊の分岐」、生不動尊からの登り道と合流する。「← 仙人が岳 20分」とある。Kwrさんが先頭になって山頂を目指す。6分ほど歩いたところで、「(山頂は)ここじゃないの?」と振り返る。山歩きのときには、時間の感覚は体の疲れの感覚に応じてしまう。わずか6分で20分歩いたように感じているのだね。そういうペースを体に覚えさせることも、一つの技法だなと思う。17分で「赤雪岳との分岐」につく。「← 仙人が岳 0.3km」と表示してある。「行こう、行こう」と、腰を下ろした先頭を追い越して頂上に向かう。なだらかな稜線は落ち葉に包まれてふかふかと歩きやすい。だが、周りの木々の根本は黒々と焼けた跡を残している。去年は気がつかなかった。この山のずいぶん広い部分が焼けてしまったようになっている。倒れている木もある。渓の下を覗くと、切り倒された根株が何本も切り口をさらしている。焼けたから切り倒されたのか、延焼を防ぐために切り倒したのかわからないが、その谷の向こう側の斜面の木々も、根方が黒々としているから、延焼防止には役立たなかったと見える。新しい実生がかなり背丈を高くしているから、数年は前のことかもしれない。私も、何も見ないで山を歩ているんだなあと、去年のことを思い出していた。
 
 山頂でもおしゃべりをして賑やか。「神様のKさん」の足のふくらはぎ筋肉が固い、「触らせて」と女性陣がワイワイやっている。アスリートの彼の体脂肪率は「8か9。近頃は二ケタになった」と。あと3月ほどで後期高齢者になるという。彼の話を聞いてほかの方々も、元気を回復しているようだ。風が出てきた。下山にかかる。
 
 先ほどの「熊の分岐」まで15分で戻り、そこから先頭をOkさんに行ってもらう。彼女はさかさかと急斜面を下り、後続との距離が開いてしまう。「早すぎるよ。速度違反、後方注意義務違反」とMrさんが言い立てる。生不動尊で一度合流し、今度はMsさんが先導してまたどんどんと先へ下る。Sさんがニリンソウの花を見つける。後から行く私が、それをカメラに収める。と、斜面にカタクリの葉を見つける。上へと目を移すと、上方に花が一輪咲いている。先行する人たちに声をかけるが、沢の水音に消されてか届かない。枯葉を踏んで斜面を上り、それもカメラに収める。
 
 里の感じが漂う頃、ツバキの花が、みずみずしい常緑の緑の葉に囲まれて、咲いたばかりの新鮮な赤色をみせている。傍らには今にも咲かんとする蕾がいくつも出番を待っているようだ。サクラもほどなく満開の風情。畑の梅は終わって、実をつける用意が整っている。2時半、駐車場に着いた。先着の皆さんは、荷物を片付け、4月からの山歩きの話をしている。
 
 下山中に話の出た「お花見」をすることにした。今月末頃が満開の見ごろになる。Kさんがチーズフォンジュをつくるよという。私がワインとフランスパンを用意することにした。Kwさんが松山のヤキトリを手に入れてくるといい、すぐにそこで、日取りを決めて森林公園で行うことになった。
 
 さあこうしてはじまる、5年目の山の会、山歩講。私を山案内人から解放してくれるだろうか。

経済システムの裾野と臨界点

2016-03-23 05:04:57 | 日記
 
 3/19の朝日新聞「折々のことば」で、鷲田清一はカール・ポランニーのことばを取り上げている。
 
《社会関係のなかに埋めこまれていた経済システムにかわって、今度は社会関係が経済システムのなかに埋めこまれてしまったのである》
 
 そうして次のように解説する。
 
《身も蓋もない言い方をすれば、あらゆるものが貨幣価値で測られるようになったということ。何事も利潤を動機として動く人は未熟であり、「経済的人間」を本来の人間と見る人は哀れなばかりに単純だ。「人間の社会的想像力が疲弊の色を示している」と、経済人類学者は嘆く。「経済の文明史」(玉野井芳郎・平野健一郎編訳)から。》
 
 鷲田は社会関係が交換関係に覆いつくされたとポランニーのことばを拾っているのであるが、私はこの言葉に最初接したとき、経済関係を社会関係から切り離して、それに先行するシステムととらえることの愚を指摘していると考えてきた。経済活動を下部構造として、上部構造とする政治や、文化、社会活動はそれに規定されるというマルクス主義への批判が含まれていると考えた。つまり、上部構造の条件を抜きに経済原理が成立するという(アダム・スミスが意識しないで前提にしていた)ことが、ポランニーの見方によってもう一段深いところでとらえ返される必要がある、と。
 
 科学的経済学とか純粋経済学理論というものが、じつは経済活動の前提とする諸条件を捨象して、モデル化した経済活動だけを取り出して数値化し、あるいは論理的に裁断して、一般化していることへの批判であった。つまり、截断した断面を普遍化してしまうことの愚を、人間社会の総合学としての文化人類学から指摘したと考えたのだ。だからポランニーの経済論を「経済人類学」と呼んで、文化総合的な視点から組み立て直そうというこの所論は、経済学者によってよりも、政治学者や哲学者、社会学者によって評価され、資本制社会の行き詰まりを考察する際に用いられてきたといえる。栗本慎一郎の紹介が、きっかけになっている。
 
 今でいうと、たとえば佐伯啓思『さらば、資本主義』(新潮新書、2015年)の前半は、ポランニー同様に、資本主義が軌道に乗って作動する政治的文化的な、マルクス主義のいわゆる上部構造の前提条件に目を留めるよう教示している。だがこの本の中心部分は、後半、トマス・ピケティの『21世紀の資本』を手掛かりにして、資本制社会の行き詰まりを説いているところにある。「第九章 資本主義の行き着く先」は、ちょうど私たち戦中生まれ(戦後育ち)世代が、一人前になって生産活動に従事してきた時代と重なっていて、我が世代の径庭を見て取るうえでも大いに参考になる。それを少しくたどりながら、考えてみよう。
 
 1950年代から80年代までの30年間を除くと経済成長率は利潤率を下回っている。ピケティのいう「r(利潤率)>g(成長率)」である。佐伯によれば、先の30年間の時代には、経済成長によって手に入れた利潤は次の投資へとつぎ込まれ、それがさらに成長を促した。むろん賃金の高騰をもともない、大量の中間層を生み出すことになった。アメリカと日本の進捗に大きな時間差があったにしても、まとめて「産業資本主義の時代」と呼んでも差し支えないほど、世界的な大変動であった。
 
 ところが、1980年代以降、新自由主義が世界的に採用されていったにもかかわらず、競争とイノベーションによる経済成長には至らず、r>gになっているのはなぜか。《「資本」は利益を上げているけれど、資本主義社会は成長していない。》と佐伯は見立て、そこがピケティの著書の「画期的」なところだと評価する。なぜそうなるのか。そのわけは、利潤が金融市場に回されて高い利益をあげてはいるが、産業資本として再投資されることに向かっていない(言葉を換えれば、金融市場でぐるぐる回っているだけ)と一応説明されるとしたうえで、もう一歩踏み込んでいる。
 
 差異が利益を生み出す「市場経済/資本主義」の原理からすれば、経済成長をもたらす要因(労働人口の増加と労働生産性の増加、市場の拡大)は、「外生的」である。19世紀にそれは、植民地の獲得・拡大という帝国主義政策として達成されてきた。だが20世紀になって帝国主義が行き詰りをみせたときに登場したフォーディズム(フォード的な生産と需要拡大の産業資本方式)は、内需の拡大と大量の中間層を生み出して、さらなる需要創出をしていった。ここでは、利潤は次の資本再投資に用いられ、経済成長をもたらし、雇用の増大と市場の内的拡大をもたらしていく循環を形成していった。それが(二つの大戦をはさんで)20世紀の主潮流となり、遅ればせながら日本も、敗戦後の50年代から80年頃にかけて「一億総中流」と言われる時代を画するところにまで到達したのであった。佐伯啓思はそれを「産業主義的循環」と名づけ、《同質化し画一化した人の群れである大衆社会》が実現した「内爆発」と呼んだ。
 
 この「内爆発」による成長のメカニズムが行き詰ったと、佐伯は指摘する。「(製造業における)イノベーションが成長を生み出すことは困難な時代」、つまりそこに「フロンティア」見出すのは難しくなった。だが90年代以降追求されてきた「フロンティア」の一つは、「グローバリズム」であり、もうひとつが「イノベーションの徹底した内爆発」とみる。前者はITを用いたネットワークと世界的な流通の高速化によって、市場を単一化・平準化しつつある。新興国の急速な発展であり、それが追いついてくることによるヒト・モノ・カネの交通の増大と敏速化である。だがそれは、先進国の「内爆発」には、直ちにはつながらない。むしろ、国内の産業の空洞化と呼ばれる事態を招来し、さらに次の領域におけるイノベーションを探ることへと向かわざるを得ない。と同時に(当を得たことによる利得の偏りと事態の変動に伴う整理縮小によって)「格差」と「不安定化」がもたらされ、大きく中間層が衰退していく事態を生み出している。
 
 佐伯は現代のそれを、「人間そのものをイノベーションのフロンティアにしている」と指摘する。
 
《90年代以降の情報機器、そして今日の生命科学、医療上の革新は、……人間の「世界」への働きかけではありません。まさに人間という「主体」そのものへの働きかけなのです。……「筋肉」ではなく、「神経」が対象となる。とりわけ「脳神経」や「遺伝子」や「細胞」がイノベーションの対象とされている》
 
 と。ちなみに、もう商品見本市まで開かれているAI(人工知能)も、考えてみれば、その一つである。囲碁対決の勝利ばかりでなく、自動運転技術、当意即妙の応接・応対・案内コミュニケーション知能、ドローン宅配や力仕事補助ロボットなど、すでに現実化の直前にある。しかもAIの応用によって、あと2、30年のうちに4割の人たちの仕事が奪われるともっぱら取りざたされている。ここに発生する事態は、これまでの「フロンティア/イノベーション」がもたらしたものと同列に考えることができるかと、佐伯は展開する。そのカギは、「差異性」の原動力となる「欲望」である。人間の欲望を介在させないで、人の暮らす社会がどう保持された持たれていくか。それに「資本主義」(あるいは「市場経済」)は適合するシステムたりうるか。
 
 15世紀末の地理上の発見や17,18世紀の商業革命には消費革命が随伴していた。20世紀の産業主義的循環においても同様に欲望が喚起され、物的な高度消費社会が付き従った。だが、
 
《IT革命にせよ金融革命にせよ、それに向けられる「欲望」は、こうした社会性と自動拡張性をもっているのでしょうか》
 
 と疑問を投げかけている。つまり、需要の喚起につながる「差異性」をどれだけもたらすことができるか、と「欲望」を媒介として問いかけ、こう述べる。
 
《今日のイノベーションは、もはや、かつてのように、社会性をもって相互作用をもち、モノの購入がそのままGDPの増加になる、という種類のものではないのです。……今日、われわれがほんとうに考えるべきは、成長戦略ではなく、いかに脱成長主義社会へと移行するか、ではないのでしょうか。》
 
 ピケティが指摘するアメリカの如く、上位1%の人々が富の4分の1を占有する事態がさらに進行するのを座視するとしたら、アメリカやEUにおけるような「本音/野蛮」の復権が「人間の声の復権」のように響く世界が日本にも現出するかもしれない。私たちの子や孫は、たいへんな時代を過ごさなければならないことになる。う~む。

「火の山のマリア」――我が身の裡に淵源を探れ

2016-03-22 10:14:43 | 日記
 
 映画「火の山のマリア」を観る。去年のベルリン映画祭で銀熊賞を受けたという。グァテマラの若い監督・ハイロ・ブスタマンの初長編との売り込み。2/12の朝日新聞(の伊藤絵里奈)は「近代化が急速に進む一方で、格差は広がり差別はそのままの現状を伝えたかった」という監督の言葉を紹介しているが、そうなのかなと私は思った。
 
 じつはこの記事は、読まないで切り抜いてとっておいた。チケットは1月に手に入れていたのだが、まだ映画を観ていなかったので、「批評」を事前に読まないようにしていたのだ。先日、八重山諸島から帰ってきて、やっとこの映画を観る暇を得た。そうしてこの記事を読んで、監督のことばとは違う感触を私は持ったことに気づいた。どういうことか。
 
 「格差と差別 伝えたかった現状」という(この記事の)見出しにもなっている受け取り方は、「近代化」を是認している地点からのものである。近代化はいいが格差と差別を残してはいけない、と訴えている。だがそうか。そんなに透視する距離の短い主題なのか。
 
 映像そのものは、開発の手が入るマヤ族の村で育つ女性が、外の世界へ出たいという願望をもちつつ運命に翻弄される断片を切りとった物語である。そこには人類史の歩みと人間存在の哀切さを象徴する切片がみてとれる。
 
 《「都市部のスペイン語しか話さない人たちは、これまでマヤ族を見て見ぬふりをしてきた。でも今回は自国の映画なのに(スペイン語の)字幕を読まなくてはいけなかった」と笑う》
 
 と、この監督のことばを紹介している。だが、「近代化」というのは、ネイションの形成であり、その出立点としての言語の共通化は前提でもある。征服民族のスペイン語がネイティヴのマヤ族のことばを退けたからといって、それを「差別」と呼ぶだろうか。「……と笑う」という監督の姿は、もはや取り返しのつかない事態を前にした「苦笑」ではないのか。
 
 上記のことばにつづけて、監督が次のように語ったことも(記事は)付け加えている。
 
 《「なぜ人間はこんなにも愚かで物事を複雑にさせるのか、なぜ感情が理性に勝るのかに興味がある」》
 
 この監督自身が、「14歳までマヤ族の村で暮らした」という。彼にすれば、マヤ族(のことば)の世界は「閉じられた世界」である。スペイン語の通用する世界こそ「近代」であるとともに、「人間の世界」なのだ。だが彼の「身」は「閉じられた世界」でかたちづくられ、「人間の世界」で生きていて、引き裂かれている。この「引き裂かれた事態」に苦笑しつつ、人間を「愚かで物事を複雑に」するというのは、人類史的な視点から鳥瞰しているときに生まれる感懐ではないのか。言葉を換えれば、「近代化」はもはや行き詰っているという地点から、モノゴトをみている。
 
 「なぜ感情が理性に勝るのかに興味がある」というのも、(マヤ族の少女が)外の世界にでたいという衝動がなぜ生まれ出るのかと重ねると、「興味がある」というレベルではなく、晴と褻の人間本性というか、ただ坦々と生きることへの耐えられなさが湧き起るのはなぜかという問いに変換される。これは縄文の時代から綿綿と、そしてもっと急速に、明治以降の私たち日本人がたどってきた道程が問われていることでもある。それは「愚かで複雑に」することと、片づけることができることだったか。そういう問いの前に立ち尽くす言葉にみえる。そう考えた時点で、「格差や差別」が思い浮かぶか。
 
 ちなみに私はいま、レミングの集団自殺を想い起している。何年かに一度大量発生したレミングの群れが直進行動をとって断崖から海へ身を投じてしまうという、子どものころ知った話だ。確か映像も見たような気がするが、物の本で読んだ時の、私の思い描いたイメージかもしれない。人類が押しとどめようもなく滅亡に向かって暴走するイメージと重なってくる。もう「苦笑」するしかない、というふうに。
 
 とは言え、シニカルに考えているのではない。昨年の11/7のこのブログで《記憶に悲しみが宿る――忘却の残酷さ》として記した、チリのパトリシオ・グスマン監督の手になる映画『真珠のボタンEl Boton de Nacar』(2015年)と『光のノスタルジアNostalgia de la Luz』(2010年)の感想とダブらせて、記憶にとどめたいと思っている。私たちが向き合っているすべてのことごとは、系統発生的に私たちの現実存に堆積されている、と。それを忘れるな、ということ。そして、目前の出来事に目を奪われてしまうと、もっと本質的なことがらに気づかないまま「暴走」に加担してしまうぞ、ということ。すなわち、すべては我が身の裡に淵源を探れ、と。
 
 一緒にこの映画を観たカミサンは、「そうだよね、外へ出たかったんだよね」と、マリアに身を寄せて感想を漏らした。彼女自身が、四国のチベットと言われた土地から抜け出してきた径庭を振り返っているようであった。

最果ての「ふるさと」を訪ねて(3) 西表島は未開の魅力、石垣島は「ふるさと」と決別

2016-03-21 08:22:11 | 日記
 
 西表島の宿の食べ物には、与那国島と違って、野菜がたくさんあった。豊富という感じではなかったが魚の刺身もあって、おいしかった。聞くと魚がとれても魚市場がないから売れないから、取れすぎるとご近所に配って食べてもらうそうだ。島の人たちは買うくらいなら自分で海にとりに出るというわけである。サトウキビも育ててはいるが、平地には田んぼが結構多く、広い水田を造成しているところもみた。水田では二期作というが、ふと目を留めた「いりおもて」という銘柄の泡盛はタイ米を使ってつくっていると知った。とすると、ジャポニカではなく、インディカを育てているのかもしれない。「いりおもて」は43度、試飲でも飲んだが、甘みが強く生のままでおいしいと思った。島の人の話では、畑で農産物が取れるのは冬場、夏場は暑すぎて作物は実らないのだという。与那国島でも感じたことだが、野菜をつくっているのをみかけなかった。やはり全部、石垣島から運ばれるのであろうか。
 
 西表島の三日目の朝、9時半には仲間川クルーズの船に乗っていた。40人も乗れば一杯の平底の舟。平屋根のほかはビニールに錘をつけて舟縁へ垂らして、雨避けにする。雨が落ちて来なければ巻き上げて周囲がよく見えるように工夫している。天気は曇り空、時々雨が落ちてくる。私たちは雨具を着ていたので、そうでない一般客5人には前の方に座ってビニールを垂らしてもらい、私たちは小雨と風にうたれながら川を遡上していった。ここも川幅は広く、河口部は500m以上の広さを持って海につながり、強い風雨に波が逆立っていた。マングローブの森をみるというクルーズであったから、河口部は速い速度で通り過ぎ、肝心なところはゆっくり通るという心遣いを船長がしてくれた。もっとも、船長はバスの運転手でもあった。つまり、同じツアー会社現地事務所の職員で、車と船も操るという仕事ぶりだったわけだ。この船長は鳥にも詳しく、目が良い。止まっているカンムリワシを見つけては指さしたり、水辺の立木の上に止まっていたアオアシシギを見つけて教えてくれたりした。ここでもマングローブの説明を聞き、みごとな実生の育つのをみたが、そこが小魚の揺り籠になったり、水の浄化作用をしているというのも、面白い自然の循環だと思った。引き潮になりつつあって土がむき出しになったマングローブの林床を駆け抜けるシロハラクイナやシロチドリの姿などは、乗船している鳥観の人たちが探し出す。
 
 上流部に小さな船着き場がある。上陸して、付設された木道を30mほどたどると、大きなサキシマスオウノキに突き当たる。大きな板状の根を周囲に張り巡らして、周囲が10mもあろうかという巨大な幹を支えている。板根と呼ばれる根っこも、まっすぐ伸びているのではなく、くにゃくにゃとねじ曲がって途中で何枚にも分かれる。幹にくっつくところの板の高さは、優に2mは超える。樹齢400年というから、江戸幕府が開かれたころからの時がたつ。その脇には、300年物、200年物と思われる大きなサキシマスオウノキもあれば、まだ数十年しかたっていないと思われる若いのもある。これをみるだけに日帰りで西表島に来る人がいると聞いて、さもあらんと思った。
 
 実際この上流部の船着き場にいたのは25分くらいなのだが、その間に何隻もの船が着き、定員いっぱいの人たちが降り立ち、ぞろぞろと木道を歩いてくる。交わされる中国語がかしましい。押し出されるように私たちは舟に戻り、さかさかと出発する。100mはあろうという川幅も狭いかと思うほど、登り下りの船がすれ違う。ウィークデイだ。これほどの人たちが訪れれば、観光業も十分やっていけるだろう。だが、私たちが立ち寄っているのは、西表島のほんの一部だ。西表島を縦断する1泊2日の山越えツアーもある。私たちは舟に乗ったが、川をカヌーでさかのぼるのも、一日を使うコースに組み込まれている。そうして、手つかずの原生林と渓が島の大部分を覆ってひっそりと沈黙している。西表島を描いた池上永一の小説『統ばる島』の章は、行方不明になる探検隊の話であった。魔物が棲むと伝承されているという御嶽(うたき)に拠る神々が登場していたっけ。それを不思議と思わない不気味さを、この島の自然は湛えていると感じた。
 
 仲間川クルーズから戻って大原港から石垣島へ渡る舟を待つ。港にクロサギがいるというので、双眼鏡でのぞく。クロサギの白いのだという。まるで詐欺にあったようだ。と、隣にクロサギの黒いのもいると、鳥友が見つける。いる。クロサギの白いのがなぜコサギやチュウサギでないのかも教えてくれたが、忘れてしまった。いやはや、面白いというか、奥が深い。鳥友たちは、船を待つ間に「鳥合わせ」をして、このたびのあいだに何種の鳥を観たかをチェックしている。80種を超えているというが、あいにく私は、その区別を見分けるほどの腕前には遠いから、「数」は耳を素通りする。
 
 風が強く船が出るかどうか心配したが、「なに、港は波が静かだから船は出るさ」と言う件のキャプテンの説明が、ワケがわからないながら説得的であった。船は出た。高速船は高い波の上を渡るようにピョンピョンと飛び越してゆく。北西の風が蹴立てる波を船に吹き付けて、左側に座っている人の脇のプラスティック板を叩くようにしぶきをあげる。座っている人たちは船酔いを避けるために、はやばやと眠っている。竹富町の島々が波間に揺れて見える。ほんの30分ほどで石垣島の港に入り、静かな走りに変わる。
 
 そうそう、西表島で小さなキノボリトカゲをみた。木の幹に張り付いている。擬態のつもりなのだろうが、虫の専門家の手にかかると、すぐに見つけられてしまう。ほんの3センチの小さなトカゲも面白いと思った。モグラもいた。雨の後であったから、土に水が入り込んで住処を追われたのであろうか、地面に這い出て、慌ててコンクリートの道路を駆け抜けていった。シロハラクイナが車にはねられて横たわっていた。すぐわきまで行って写真を撮ったが、歩いているときの大きさに比べると、一回り縮んでしまったように思った。イリオモテヤマネコも夜間に交通事故に遭うことが多いそうで、それらが出てくる道路には直線路なのに、凸凹が設けられていて、車が走るとガタガタと音を立てるようにしている。その音でヤマネコに、出てくるなよ危ないぞと警告しているのだと、ガイドの運転手が話していた。自然を売り物にするのであればとも思うが、そうではなくても、この原生の自然の中に人類が少しばかり住まわせていただくのであってみれば、その程度の遠慮はしなくちゃなるまい。そういう思いをもって、もう一度訪ねてもいいところだと、思った。
 
 石垣島は、やはり中心都市だ。港からホテルまで大きな荷物をもって歩くのはたいへんと、タクシーを使った。ワンメーターが430円。部屋に荷を置いてすぐに、海辺の探鳥に行く。何しろ、陽が沈むのが東京より1時間ほど遅い。7時前なのだ。もっともその分朝が暗く、6時50分頃にやっと日が昇る。石垣港は、中国か台湾か香港の(中国語を大書した)大型の客船が停泊している。その他の貨物船などの出入りする港が、いくつもの防波堤に仕切られて、延々と続く。その切れたところに、砂州があり、潮加減によるが、水鳥が寄り集う。ホウロクシギ、コチドリ、シロチドリ、ウミネコ。水鳥とは言わないがカワセミも今回初の登場だ。海辺にいるイソヒヨドリやキセキレイもツグミも見かける。カラムクドリの群れが飛び交う。シロガシラも群れている。スズメをみたのは久しぶりだ。翌日も、朝から飛行機の出発する3時ころまで、バスで案内してもらって、シギやシギ、チドリをみて回った。中心都市とは言え、車で10分も走ると、田んぼのあるすっかり郊外に出てしまう。
 
 こうして、鳥観の旅は終わった。石垣島の夕食は、マグロの店・石敢當のある店というところでの、今回初の宴会。石敢當は、魔よけ。実際には道路の曲がり角に設えて、車が飛び込んでこないように石で作っている。このたびの主宰者は、こういう宴会が好きなのだ。そして久しぶりにおいしいマグロをいただいた。赤身、中トロ、大トロと握りもうまかったが、ことにマグロの兜煮は8人でつついて十分すぎるほど食べでがあった。石垣島が八重山諸島の中心都市として君臨している「実力」を見せつけられた気がする。ふと、竹富町の町役場のことをタクシーの運転手に尋ねた。
 
 「ほらっ、この石垣市の市庁舎に同居していたんだがね、今年西表島に移るんだ。同時にね、石垣市の市庁舎も新設されて別のところに移るから、今、大騒ぎしているよ。」
 
 と、勢いのある声が帰ってきた。石垣島は、3年前の新空港の開港を機に、いま上り調子の気分を湛えているようであった。もう「ふるさと」と決別しているのかもしれない。(終わり)

他者との出会いがより深く自分と世界をみるのに必要

2016-03-20 07:57:18 | 日記
 
 カズオ・イシグロ『私を離さないで』を原作とした連続何回かのTVドラマを観終わった。原作を読んだ時の読後感を昨年7/25のこの欄に記しているから、私が強い印象を受けたことは改めて言うまでもない。だがこのドラマを観て、書き記されたもの(エクリチュール)を映像にするというのは、ストーリーといい画像といい、さらにひと段階違った創作活動なのだなあと思った。
 
 原作の主題はしっかりと保持されている。原作の読後感では、《描出される情景の輪郭がぼやけている。いや、ぼかしているのだ。なぜぼかすか、どうしてぼやけるかという謎が、中ほどで垣間見える》と、読みながら感じている「もどかしさ」を私は綴っている。ところが、映像というのは「あいまい」にしておけないところがある。登場人物の着衣、表情、かかわりあう「かんけい」などは具体的でなければならない。さらに(たとえば移動中の)背景の人物や情景も映り込んでしまうのだ。もちろん、焦点をワン・フォーカスにして他をぼかす手法もないわけではないであろうが、全編それをやると、面白くないセリフ劇になってしまう。
 
 つまり、エクリチュールを画像にする段階で、映像作家のイメージ(世界)が具体的に介入する。それは、完成作品をみるものの眼を限定してしまうことでもある。視聴者は、自らの視線が限定されていることに気づかず、画像のイメージのままに受け取る。原作を読むときは、良くも悪くも、読む者の心裡で結ばれるイメージは(無意識も含めて)自らの(世界の)輪郭であることを承知している。だから読み方によるが(読み終わるまで)作家と読者の格闘が行われ続ける。そういう意味では集中力がいる。ところが映像は、映像作家の世界イメージが眼前に提示され、それをそのまま受け取ることもできる。疑念を挟まずに直に心理に飛び込んでくるともいえる。身体性や無意識に直に作用して、気づくことなく画像の提示する世界に誘導されることも、しばしば起こっている。サブリミナルではないが、いつ知らず画像作家の世界に取り込まれ、「洗脳」されているというわけである。これは、怖い。
 
 むろんこの連続ドラマが何を「洗脳」しているかと問題にしているわけではない。これはこれで、原作とは別の「創作」だと言いたかったのである。だが、ここまで書いてきて、意識的に受け取ったものといつ知らず受容しているものとの落差がどのように私の心裡で「かんけい」しているのかいないのか、そちらの方が気になってしまった。「いやな感じ」を感じとっていれば、すでに「落差」の自覚である。だが、まったく違和感なく心裡に入り込んでいるというか、「面白かった」とか「しっくりきた」という好印象を持ってしまったときに、なぜそう感じたかを言い当てるのは難しい。それは自分の輪郭を自分でみることのむつかしさに通じる。
 
 やはり、心地よいことよりも違和感を感じさせるコトの方が、娯しいことよりも哀しいことや切ないことの方が、自分の輪郭を照らし出し、世界を見て取るのには意味が大きいように感じる。他者との出会いがより深く自分と世界をみるのに必要ということかもしれない。