mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

そして私は老爺になる

2015-02-08 15:42:13 | 日記

 映画『そして父になる』(是枝祐和監督、2013年)をみる。6年間育てたのちに「取り違え」と分かった子どもをめぐる二家族の、親と子の「かんけい」を取り上げる。血のつながりか共に暮らした年月の蓄積かを対照させながら、「父と子のかんけい」に迫る。その裏側に、育てる親自身の、父と子の関係が垣間見えて、振る舞いや言葉の背景に父祖代々の「かんけい」が「(我が)身」に堆積して受け継がれていることがわかる。ここで「身」というのは、分かちがたく心身が一体化していることを表す和語である。

 

 見終わって考えているのは、果たして私の「身」に受け継がれてきたもの、そしてすでに私の子どもたちの「身」に受け継いでしまったものはなんであったかということである。それを少しずつでも解きほぐしておきたいと、母親の死後私は考えている。

 

 私の父は1985年に満73歳で病没した。母は昨年、104歳で他界した。2人とも、明治生まれ。とは言え、大正期と昭和のひとけた台に育って成人している。「明治気質」というよりも、「大正気質」をより多く「身」に刻んでいたろう。2/6のこの欄で取り上げた「朝日平吾の鬱屈」の爆発する時代の空気を吸って大きくなっている。そう思って「大正デモクラシー」時代の庶民文化を読み返してみると、父母から受け継いできたものがなんであったか、浮かび上がるように思える。

 

 私が父母から受け継いだと思われることがらを、思いつくままに拾ってみると、以下の「徳目」のような言葉が浮かぶ。

 

 勤勉、努力、質素、倹約、素直、正直、清潔、清廉、自律的、自立的、敬意、畏れ、貧しいものや弱いものに同情的であること、共感、非暴力、権力や力による抑圧に抗うこと、読書や知的なものへの敬意、向上心、開明的(新しいものへの関心、新奇なものを受け入れること)、公平であること、公正であること……などなど。さらに、他人を羨まない、自慢しない、他者への気遣いなど「かんけい」的な徳目もある。あるいは運否天賦ということや偶然のもたらすもの、天命があるということをなぜか信じている。つまり超越的な存在のあるという観念も、受け継いできたものに違いない。いずれも身体の記憶として刻まれたことであり、のちになって、成育歴中に受け継いできたものだと意識されるようになったものである。

 

 まるで「修身の徳目」のように響くであろう。呉服商人の家庭の出身であった父親、元農家で、零落して都市生活者として裁縫で身を立てていた母親の成育歴をみると、いわばその時代の小市民の徳目そのものであったといえる。「大正デモクラシー」時代の、文化の大衆社会化の渦中においてみると(私の両親から受け継いだものとばかりは言えないのだが)、社会的規範のなかの、上記の要素が父母によって推奨されてきたことは否定しようもない。大きな視界においてみれば、マック・スウェーバーの「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」そのままに、伝承されていたといえよう。

 

 それらと逆に禁じられた言葉を拾うと、小市民的な社会的規範がもっとはっきりと浮き彫りになる。

 

 怠けること、ずるをすること、人を出し抜くこと、約束を破ること、だますこと、嘘をつくこと、悪いことをすること、盗むこと、贅沢をすること、食べ物を残すこと、捨てること、我を張らないこと、卑屈にならないこと、力に屈すること……などなど。これらは、むろん私が道を踏み外して叱られるようにして禁じられたこともあるが、父母の立ち居振る舞いをみていて、のちにそういうものであったと「得心」したこともある。

 

 この否定的なことばたちは、見栄を張るとか嘘も方便とか、本音と建て前というふうに、親たちが使い分けていたことを、徳目的に想い起した言葉ともいえる。母は、自分が父よりも2歳年上であることを、私が成人して結婚するために戸籍謄本を取り寄せるまで隠していた。年上の女房というのが恥ずかしかったのであろう。ずうっと私は、父と母は同い年だと(母のいうがままに)思っていた。むろん時代の「標準」があったからなのであろう。自分の出自についても、母の祖父や父が病死して農地を失うまでは、(疎開していた農家の)縁側から見渡す限り祖父の所有地というような大きな旧家だったと繰り返し耳にした。それくらい見栄で飾り立てた「気位の高さ」を、すでに都市生活者になって何十年も経ってからも、母の従姉妹たちに向けて(たぶん何の根拠もなく)振り回していた。いやそれも、恥ずかしながら、すっかり私が中年になって兄たちから聞かされて知ったのであった。それまでは、そういう素封家の育ちだとばかりと思っていたのであった。

 

 父母から受けた「徳目」は、むろん一様ではなかった。母と違って父は己を飾ることをせず、書の雅号を「虚心」としたように、率直な人であり、情の人であった。言葉よりも体がまず動く。それでいて、本を読み書を嗜み、八百屋などの小売商をしていたにもかかわらず、計算高くなかった。子どもの目からは豪放磊落にみえたが、そのためにか、商売においては破産するような破目に何度か出逢っては、立ち直っている。外に女をつくり、ときどきにしか家に帰ってこなかった父ではあったが、私は茫洋とした温もりをいつも感じていた。

 

 母は、5人の子どもの養育や家計の切り回しに精根尽き果て、かろうじて信仰を通じて己を保ってきた(と私は受け止めていた)が、それでもやはり、どこかで父を信じているような気配を感じていた。去年のことだ。末弟が亡くなって遺品整理をしていた弟嫁が「こんなものが」と言って見せてくれたのが、母から末弟へ送られていた「父親の遺書」であった。郵送されたのは父親の一周忌の前の月。そう言えば、と思い出した。父親の「遺墨集」の編集を引き受けたのは末弟であった。「父親の遺書」は昭和17年秋(私が生まれた直後)に書かれている。出征したのち寄留先から母に向けて送られた「遺書」と「家族を頼む」という「母への手紙」であった。それを父が亡くなるまで大事にもっていて、一周忌の「遺墨集」をつくるというのに載せてもらおうと末弟に送ったのであろう。たぶんそれも迷いに迷った末、期限ぎりぎりに送ったから、文字にすることはできなかった。写真にとって「遺書」があったことだけを知らせるかたちで「遺墨集」にアップしたのであった。

いまだから、こういうふうに距離を置いてみることができる。父も母もそれなりに、懸命に暮らしを立ててきた。人としての確執も迷走もあり、脇道に逸れ混沌をもたらしたこともあった。にもかかわらず、5人の息子たちを育て、しかも反面教師的な側面も含めて、現代を乗り切る資質を受け継いで伝えてきた。それで十分ではないか。この齢になって子どもである私は、そう思う。では、私はなにを、子どもたちに受け渡したであろうか。

 

 その辺を今少し解き明かして、そして私は老爺になる。(つづく)