mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

心を偽って生きる大人

2015-02-28 10:10:47 | 日記

 昨日の新聞に、映画になった『ソロモンの偽証』(原作:宮部みゆき)の「公開記念・特別討論会」という広告が載っている。「議題」は「なぜ大人は嘘をつくのか?」。子どもの側から、出演女優の藤野涼子が「真実をより求めたくなるのは子供の方が真実に敏感だから」と見出しに掲げ、大人の側には、作家の高橋源一郎が「心を偽って生きている大人ほど物事を曖昧に穏便に済ませる」と応じた見出しにしている。

 

 高橋源一郎らしからぬものの言い方である。もっとも、広告制作者の見方が介在するから、このような表現になっているのかもしれない。小さな文字の本文を読めばそのあたりはほぐれるかもしれないが、それをはっきりさせたいのではないから、私は本文を読まない。なぜ「高橋源一郎らしからぬ」なのか。この文言は子ども(対談相手)に阿諛している。高橋源一郎は「心を偽って生きる大人」という白黒分けた物言いをしない人だと私は思ってきたからである。むしろ、「子供の方が真実に敏感だから」という言い方に、そうか? と疑問をつきつけるのを情動としてきた(と私は見てきた)。

 

 宮部の原作はよくできている。私は昨年の1月2日のブログにこう記している。

 

《取り上げられる「世界」の生きにくさ、「すれ違い」に気づかないことが生み出す「かんけいの暴力性」、社会システムと個別性の折り合いのつけ方が不定形である中学生の思い描く「正義」や「真実」の比重が、あたかもアインシュタインの相対性理論のように空間の歪みを生み出し、「かかわり」によって引き合ったり反発したり衝突する「場」が、時代の(人間の)問題性を掬い採っていて、読む者にリアリティを感じさせる。読みつつ考えさせる衝迫力をもっている。》

 

 ほぼベタ褒め、である。いまでもこの印象は変わらない。つまり宮部もまた、藤野涼子のような、ここに表出された高橋源一郎のような、単純明快な人間のとらえ方をしていない。人間のとらえ方についていえば、一昨日「大雑把に言えば、8割の子どもたちは(つまり、すべての子どもたちの8割部分は)、何とか現代社会に適応していこうとそれなりに力を尽くしている」と本欄に記したことに関わっている。このなかの「( )の部分はどういうこと?」とある読者から質問があった。

 

 たとえば何か残虐な出来事があったときに、そこに(関心の)焦点が当たるのは致し方ない。しかしそのとき、「こんなヤツがいるんだ、バカめ!」とか「ヒデエな!」思うのが人の常である。だがそう感想したとき、人は自分がそのようなことをするとか、そのようなことをするのと同じ感性を自分は持っていないと、みずからを棚上げしている。客観的に見るとか他人事とみるというのは、自分の内面を通過させないで事態をとらえ、その結果、自分をそうでない側に位置づけて、我が身を安心させているにすぎないのだ。ヘイトスピーチというのも、その表れである。嘘をつくのも身を守る手立てなのであろう。

 

 自分の内面を通過させるというのは、それまで気付かなかったが、自分の内面にもそれと同じ「バカめ」なことや「ヒデエな」なことが潜んでいると受け止めて、そこからモノゴトを見据えはじめるることを言う。若いうちは、それがなかなかできない。なぜなら、混沌の中から世界を取り出している最中なのだから。彼または彼女が「世界」と思ってみている外部は、じつは自らの「内部」にほかならない。それが混沌であることに耐えられないのは、混沌の世界の一部にはじめて分節化して名前を付け、それを外部と認識することによって、じつは自分の内部を世界から分かつようにして認識しているからである。親から切り離され、自生集団や地域から自らを疎外し、社会や大人と距離を置くことによって、いわば、自我の形成途上にある。藤野涼子が「真実をより求めたくなる」というのは、モノゴトに名づけをはじめたときの、世界の地平線が見えないときの、感覚である。そしてそれを「子供の方が真実に敏感」と、大人と対比し大人を足蹴にすることによって、大人の庇護下から自律しはじめていることを宣言しているのである。だがそれは、世界をとらえている姿ではない。やっと世界をとらえはじめる緒についただけなのだ。

 

 世界を鏡にして自らの内面をみるということは、そろそろ自律しようという年齢になって、はて、これまで(いつしか)身に着けてきている「私の感覚・観念/ことば」というものは、いったい何に根拠をおいているのであろうか、と考えるようになってからのことである。それを吟味しはじめると、たちどころに、「私」というものが自分のものではなく、社会的な「かんけい」的存在であることに気づく。そのとき私たちの内部に働くのは、あくまでも「私の直感・実感・思索」に「実体」的にこだわって「私」を概念化しようとするか、「かんけい」的存在であることを受け入れて、みずからの変容の幅をみてとるか、そういう内面作用である。

 

 「かんけい」的存在であることを受け入れるとき、自分が今は感じていないコトゴトも、社会的な出来事を通じて出来したときに、そういう一面が自らにも潜んでいる(かもしれない)と関知する。残虐な感性や思索、ふるまいも、いまは単に(自分がおかれてきた)社会関係において抑えられてきているだけで、自らが持っていないのではない(したがって、いつか何かの折に噴出するかもしれない)とみることによって、他者に対する共感性も寛容性も高まる。高橋源一郎が謂う「大人ほど物事を曖昧に穏便に済ませる」というのは、(いつか起こるかもしれない)我が身の痛みとして(事態を)受け止めたもののありようを言い当てたものとみることができる。

 

 それが日本的な特徴かどうかは分からないが、山本七平が指摘したように、単純素朴であり実直であり、清廉潔白であり、邪心がなく明快であることを須らく良しとする日本人の感性・感覚は、地政学的な環境条件の中で長く暮らしてきたことが育てたものであろう。それを一概に劣ったものと指弾するよりも、そうした地政学的環境条件に恵まれてきたことに、まず私は、感謝したいと思う。あるいはまた、理屈よりも情緒を重んじ、タテマエをそれとして奉りつつどこかで軽侮して、ホンネを保ってきた世俗のやり方を、案外賢明な処世法とも思っている。

 

 その結果、概念的にモノゴトをとらえるという人の「(理性的といわれる)真実」のかたちよりは、社会や人と人とのかんけいが曖昧であったり、アンビバレンツであったり、白黒つかずグレーであると、まずみること。自分をその中に参入していること。といってそれを良しとするのでもなく、具体的な関係において一歩一歩踏み歩いて、変えて行くこと。そう考えるのが、社会構成法として、いま一番必要とされていることではないか。たとえ理非曲直をわきまえても、直ちに非が正せるかどうかを、経験則的にゆるりと思案して行こうと思ったりしている。