mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

公共施設の解体――不安を抱かせる朝刊記事

2015-02-15 14:36:51 | 日記

 今日(2015/2/15)の朝日新聞1面で、「公共施設1.2万か所取り壊しを検討」と総務省が全国自治体のまとめを発表したと報じている。

 

 「平均築年数は41年……老朽化が進み、人口減に伴って利用が減る中、半数近い5756棟が使われていなかった。」と、取り壊し事情を説明して「総務省は……将来の人口見通しを踏まえた公共施設の管理計画をつくるよう自治体に求めた」とつづけて、2面に取り壊し検討施設数とその費用を一覧にして掲げている。千葉県習志野市、埼玉県鶴ヶ島市、政令指定都市・北九州市の個別ケースを取材してみると、図書館を統廃合して子どもが通える距離ではないところの「複合施設の再生計画」が立てられたり、総論は賛成だが「内の地区の施設は残して」と各論反対が出ているという。

 

 これは、小中学校の統廃合を文科省が基準を示して進めようとしていることと符節を合わせているのであろう。平成の町村合併の結果、地方行政単位の目はいくぶん広くなり、その結果、個別具体的なことが目に留まらなくなっているのであろう。記事は「半数近い5756棟が使われていなかった」と片付けているが、週に1回地区の人が寄り集まって茶飲み話をしているのなどは、「効率も悪い」し、使っているうちに入らないのかもしれない。行政効率を看板に掲げた「町村合併」の発想は、その出発点において、なんのための「町村」なのかという地方自治の考えかたにおいて、肝心なことを捨象してしまったとはいえまいか。

 

 1年少し前になるが、『中央公論』2013年12月号が《2040年地方消滅。「極点社会」が到来する》という特集を組んで、驚かされたことがあった。増田寛也と人口減少問題研究会が《いま日本は、全国が「限界自治体化」する危機を迎えている》と、2008年から減少に転じた人口動態の推移をもとに、市町村単位でみた「若年女性」に着目して将来推計をている。加えて東京一極集中の傾向が止まらないことと、関東地方の2040年の医療・介護サービスの余剰と不足を推計するなどして、《大都市圏のみが存在する「極点社会」》になると指摘していた。

 

 と同時に、「国家戦略が求められる」として、「防衛・反転線」を構築せよと提案している。簡略に言えば、山間居住地から集落・町村中心部、市中心部、県庁所在地、地方中核都市(広域ブロック)、三大都市圏へと、人口の集中地域を分けてみて、そのどこに「防衛・反転線」を設けるか思案するようすすめている。「防衛・反転線」というのは《規模のメリットを生み出し、人材や資源がそこに集積して付加価値を作り出していく「再生産構造」を持ったもの》にするという。

 

 思い出した。9/2のこのブログで取り上げたことだ。

 

 8月20日の朝日新聞に、「過疎問題に取り組む明治大学教授 小田切徳美さん」が登場して、《「自治体職員から『あのリポートがきっかけで、住民も職員ももうだめだと思いはじめている』という訴えをよく聞きます。過疎地の住民の間に、あきらめムードが急速に広がっていると実感します」……将来の(地方都市の)消滅が避けられないなら、税金をかけて維持するのは無駄だから撤退すべきだという『農村不要論』が力を増していることです。つまり、農村部から撤退して、地方中核都市とでもいうのか、「コンパクトシティ」と呼ぶ「いくつかの地方中心都市に生活上必要な病院や商業、福祉施設などを集中させることで、周辺からの人口移動を促し、農村をたたんでいくという考え方」なのだそうだ》と話している。

 

 つまり「極点社会が到来する」というレポートが引き金になって、過疎地にはもう住めないという「あきらめムード」が広がり、「農村不要論」が台頭しているという指摘に対して私は、「驚いた。こんな乱暴な議論は、どこから出てくるのだろうか」と異議ありの声をあげている。

 

 『中央公論』はその後、2014年6月号で「消滅する市町村523全リスト――壊死する地方都市――」を「緊急特集」し、《提言 ストップ「人口急減社会」国民の「希望出生率」の実現、地方中核拠点都市圏の創成》と見出しをつけて、「増田寛也と日本創成会議・人口減少問題検討分科会」のレポートを掲載している。

 

 また同じ『中央公論』2014年7月号において、「すべての町は救えない――壊死する地方都市」という特集を組んで、政治家との座談会を行っている。さきの8月の朝日新聞の記事は、そうした「人口急減問題」を受けての企画だったのであろう。そうしてその後に、小中学校統廃合の「適正規模」が提示されたり、今日の新聞記事になったような総務省の「まとめ」が提出されたりしているのであろう。

 

 問題は、増田寛也と彼にまつわるシンクタンクの提出しているレポートそれ自体が、果たして適正な視界を保って行われているのかどうかという吟味がなされているのか、という点にある。すでに上記の『中央公論』の「特集」の紹介をしたところでも感じられることであるが、基本的に「行政効率」を軸に考えている。あるいはまた、「防衛・反転線」の「定義」にも込められている《人材や資源がそこに集積して付加価値を作り出していく「再生産構造」を持ったもの》という「経済主義」である。

 

 人口が激減すると言っても、明治初年のころの3000万人に比すれば、まだ4倍の人口を保っている。2040年にそれが1億人を切るとしても、3倍以上の人口を抱えている。にもかかわらず、現在と同じ経済規模を想定し、現在と同じ水準の暮らし方をイメージして、そこには手を触れていない。人口が少なくなれば、それに見合った暮らしの設計が生まれる。農地を広く使うこともできるようになろう。現在の農地法などが制約している就農者あつかいとか土地所有権の問題に手をつけないで、「市町村」が生き残りをかけて知恵を絞れと声をあげるのは、総務大臣まで務めたものとしては不届きである。

 

 もちろん、地方のことは地方が決めよ、知恵を絞って工夫をこらせというのは、間違いではない。むしろ中央政治家としては、地方がそういうことをしようとしたときに足かせになっている中央政府の「組織的縛り」や法制度の制約を解除することをやってから、地方に声をかけるべきではないか。

 

 『中央公論』2014年6月号の「消滅する市町村523全リスト」をみていると、私の育った岡山県玉野市も「2010年-2040年の若年女性減少率」が「-55.4」として、中国地方の都市名の40番目くらいにあげられている。ここは平成の市町村合併の時に岡山市への編入を拒んで自立の道を歩いている自治体である。「地方中核都市」にインフラ投資も集中するということになると、たぶん岡山市などへの投資が重点化されて、玉野市などは「壊死する」道を選べということになるのであろう。そんなことを(中央が)勝手に構想して「壊死させる」というのであれば、地方は地方としての矜持がある。国家への帰属を拒んででも、勝手に生きて見せようぞという気分になる。もちろん増田寛也は内戦を望んでいるわけではないであろう。だが、それに至ってもおかしくないような、妙な議論が(政府の方針というわけでもないのに)いつの間にか、政権の主要モチーフになってきているように思える。

 

 そんな不安を抱かせた朝刊記事であった。