mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

万事休す

2024-08-07 09:23:45 | 日記
 このところの株価の乱高下を話題に載せて「天声人語」が兜町の言い習わしを取り上げている。曰く、「辰巳天井」「休むも相場」「株価の里帰り」。何だか、たのしそう。
 そうだよねえ、株を売り買いする人だって、それが愉しくなくては長続きはしない。毎日の相場の値動きを見つめ、経済記事を総覧し、国際情勢の経済状況への影響に思いを凝らすという所業は、しかし、何をどう読めばどこの株価がどう動くと見通せるか、明晰に見て取れるわけではない。
 だが株価に託してみていると、なんとなく、世界の情勢がひしひしと肌身に感じられる。もちろん株価の浮沈によって我が利益が数値になって現れるという明快さがあってこその、株取引。それを媒介にしているからこそ、世界情勢が我が肌身の感性にピリピリと響く。一つひとつの世界の動きが何を意味しているかと、株相場の浮き沈みにまで引き落として読み込む。それは、ワタシの自律的な判断を底にして起ち上がる世界の風景である。文字通り、地に足のついた振る舞い。これほど自律的、主体的振る舞いはあろうか。
 その充足感は、じつは、儲けている時に感じられるだけではない。市場最高の下げ幅と報じられた一昨日の暴落でも、最高値の時に比して*百万円の損失という数値になって、痛みが表現される。我が判断の遅速が痛みになって感じられる。どこで読み損なったろうと考えると、読み取っている世界情勢が断片ではなく、総合的に関わり合って影響し合い、その響きは、時に相乗し時に減殺して、株価の上下に反映される。そう、これこそリアル。そうおもって、毎日デスクに向かって目を凝らしている。我が生きがいとさえなっていると、友人のUさんは愉しそうに愚痴っていた。
 ああ、これって中毒じゃないのと私は嗤った。ゲームとか賭けとか、それなくしては「生きている実感」を得られないという依存症。
 では皆が皆中毒になるかというと、そうではない。日々世界情勢に目を凝らすことがとても耐えられない人もいる。一日中、机にしがみついてカップラーメンをすすりながら、売り買い情報を細かくみるのだって、根気もいる。気軽に続けてできる所作ではない。そりゃあイヤだと身体に拒まれることもある。気力も削がれる。
 すると、それに代わってAIが判断して、文字通り電光石火の如くに「処理」する仕組みもつくられてくる。一昨日の「暴落」はそれであったらしい、これといって特に「暴落」する要因が見当たらない。そう、報道されると、今度は昨日のように「東証 上げ幅最大」という反応が、これまた即座に表現される。
 依存症の人は、そうか一昨日の前日、最高値のときに売っていて、一昨日の底値で買い取っていれば、なんと*千万の儲けになったではないかと、うずうずする心底の心根の部分が、これまたうずき始める。でもこれって、いつも後付けなのよね。でも胸の内のドキドキワクワクは、その初発の時間差を後景に押しやって、いつかそのうちオレだってと、わが身を鼓舞する響きに変わってきて、ますます依存が高まってしまう。
 それを、離れてみていると、「依存」の度合いというか、内的衝動の何に由来するのかさえ忘れて、「夢中」になっているヒトの様子がみてとれる。
 冒頭の「天声人語」のもつ響きは、まさしく株価の乱高下に一喜一憂する人たちを高見から見晴らしている天の声のようにもみてとれる。だから、愉しんでいるような気配も感じる。でもそのもう一枚深いところの気分の層をみると、株価の乱高下を(それ自体として)愉しんでいる感触に溢れている。つまり、揶揄うなどという高見に立っているトーンよりも、株価の乱高下にさしあたりワタシは左右されなかったが、それに右往左往するのは相場世界の常、悲嘆しないでまた次の機会を窺って、頑張ってね、と激励する趣だって感じられる。
 ワタシはそれを、ああ、資本家社会ってこういうことなんだと、ヒトの悪いクセに思い当たったように受けとっている。世の中がすっかり、こういう風潮に違和感を感じなくなり、同調する気配さえある、と。1980年代の「一億総中流」の時代を経るまでは、おそらく私を含めて世の中の大半は、会社勤めをしている人たちだって、こんなことに一喜一憂することさえ、なかったろう。もちろん手早い人たちは、株に手を染めていたのだが、ちょうど1960年代前半、車が世の中を走り回っていたときにも、自分が免許を持って車を運転することを思いもしなかったのと似ている。はるかに時代に遅れて免許を取り、車を持た。あるいは、公衆電話がなくなって始めて、やむなく携帯電話を持ったように、時流の後からやっとの思いで着いていくような人生であったなあと、振り返っている。
 と思っていたら、今日(8/7)の新聞に《TikTok「ポイ活」EUから撤退》と「経済・総合」面に記事があった。なんでもSNSのひとつTikTokのポイントの溜まるサービスが依存性を高めると、EUが調査を開始すると発表したのを受けて、TikTokの運営会社がEUにおけるポイント・サービスを停止するとしたことを報じている。
 そうか、EUという社会は、すでにそういう(ポイント・サービスという)ことへの「依存症」をモンダイにし、調査して禁じるかどうかに乗り出しているのだ。早いというか、ヒトのクセへの着眼も、なかなかすごい。
 それに比して思い浮かぶのは、大阪のIRに関する論調の鈍さ。IRに関する依存症は、もう誰もモンダイにしてないように報じられている。それ以上に、そこへの集客力や収益性が云々され、それはとどめようがなくなっているようだ。さすがに、商都大阪。資本家社会の、ありとあらゆることに「利益」を優先して考え、それを第一に事業を推進する。それによって「依存症」に苦しむヒトもいよう。そういう社会にしてしまうことによって生じるヒトの暮らしの「不安」や「違和感」を片隅に押しやって、ずいずいと世の中を変えてしまうのが、現代社会なのか。
 EUの目の付け所が、なぜアジアの東の隅には届かないのか。一神教世界の、堅苦しい戦いの世界よりも、多神教の、いい加減な寛容の世界の方がヒトには似合っているとおもいながら、でもEUのそれは、一神教世界(的人間観)であるが故に提起されているのではないかと、考えるともなく思っているのです。
 資本家社会の株屋さんは「休むも相場」というらしい。だが、いまの世の中を振り返る庶民の私は、「万事休す」って感じてしまう。どっちがいいのかしら。

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