mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

レンゲショウマの佇まい

2024-08-06 07:30:27 | 日記
 赤城自然園の緑陰は、今朝ほどの雨をたっぷり含んで、じっとりと肌に絡みつく湿り気がどこまでも付いてくるようにはじまった。昨日(8/5)のこと。
 師匠の鳥草友を拾って赤城へ向かう関越道は、混むというよりは数多の車が道路を埋め尽くして等速度で走っているという風情。渋滞ではないが、車が多すぎるって思いは付き纏う。やあ、少なくなったと感じたのは、前橋を抜け伊香保に差しかかった頃だから、関東地方は、やはり車密集地なのだ。
 朝8時ですでに35℃に近い外気温。日射しは強い。クーラーを効かして流れに乗り、ずいずいと赤城へ向かう。1時間50分で到着した。
 赤城自然園は31℃。第一駐車場がすっかり一杯というだけではない。第二駐車場に止めて戻ってきて気づいた。道路脇の木立の日陰にはずらりと車が並ぶ。陽の当たる駐車場よりも、この樹陰の方が帰るときにも暑くというか、車が熱くならなくて済む。う~ん、賢い。道路端に置いた「駐車禁止」の看板を一台分避けて上手に駐車している車もある。なかなかの手練れだね。
 じっとりと湿度を感じたのは、入園してから。地面もまだ水を含んでふかふかしているみたいであった。師匠は鳥草友とお喋りしながらゆっくり進むから、こちらは(視界から外れないようにだけ気を遣って)気儘にふらふらと緑陰を辿る。だがとうていそんなものでは容赦しないといわんばかりに湿気がまとわりつく。
 おっ、早速レンゲショウマがたくさん花をつけている。もちろん樹陰にあって、ひっそりとした佇まい。花の下には丸い玉のような蕾がいくつもついている。次々と花となり夏を彩る。先月来たときには、やっと一輪だけ花を見つけた。だが今月は至る所に花をつけ、開花の準備をしている蕾をみることができた。今日のメインの花だ。自然園の一番奥に当たる「レンゲショウマの苑」には群落がある。樹林の木漏れ日がそこに落ちて、パッと一部が光り輝く。う~ん、なかなか奥深い何かに接している気配が漂う。何だろう、この感触は。
 キセワタという名を初めて聞いた。胸くらいの高さの茎に何段かの薄桃色の花をつけて美しい。でも何だこの名は? どんな文字を書くのかとおもった。後で調べると「着せ綿」。えっ、なんで? こう書いてある。《和名は花冠に白毛が多い様子を花に着せた綿に見立てた》とある。撮った写真をPCに移し、花を拡大してみてやっと、産毛が花びらにたくさんついていることがわかった。なるほど、昔の人は細かく観察していたというか、目が良かったんだとおもった。
 シラネアオイの実が二つのこぶを繋げたように葉の上に乗っている。図鑑なども花を載せているが、このような実がつくところは紹介していない。ヤマシャクヤクもそうだ。5月には白い花が楚々として咲いていたが、いまはその葉さえ消えて赤い実が黒色に変わりつつ、地面に潜むようにしている。いやそれを私はマムシグサの実と思っていた。だが師匠は、まだこぶのような姿の一つの中が赤い実で満たされていることを見せて、それがさらに時間を経て赤い実だけになり、さらにまたその一部が黒く熟していくことを聞かせてくれた。うんうん、そうか、そうやって草花の変遷を記憶しておくことで、時間を伴う生態が焼き付けられていくのか。私の草木に関する記憶がないってことが、まずいちばんのモンダイなんだね、この際とおもう。
 そうやって移ろいを追うと、ほぼ毎月ここに脚を運んでいて、目に留めていたことが甦る。いや、忘れているのを、撮った写真を眺めることで思い起こして、改めてワタシの敬して遠ざけていることに思い当たった次第。
 今さら変えようもないけど、ワタシの学び方が、ある種の自然主義というか、自ずから実に備わりいつしか我が知になっているっていう、「自然(じねん)」主義。それでは、記憶の壁が立ちはだかる。自らそこに身を浸すようにどっぴりと浸からないと、その学びの方法論は実現しませんよと、身の裡の別の私が呟いているのが、聞こえた。
 師匠は鳥草友と語らいながら、いや実に楽しそうであった。私が「棲み分けている」のも、良いのかもしれないとおもう。そうだよワタシは門前の小僧。アッシー君に徹する。それでいて私は私で、緑陰に遊ぶことをなぜか、愉しんでいる。あるモノゴトにこうした距離を置いた「かんけい」は、良いのか悪いのか。どちらともわからないけど、今の時代の人と人との関係の「反照」として、考えなければならないことかもしれない。
 緑陰がわが身に語りかけた判じ物のように受けとっている。

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