mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

権威の遊動性と固着

2023-10-27 09:59:22 | 日記
 現代ビジネスというサイトで、宮本常一の思想を紹介した『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』の新書本編集部が、コマーシャルを打っている。そこに東日本と西日本を比較したことに触れていて、ワタシの琴線に触れるものがあった(以下の引用文中の番号は引用者が振った)。


《(1)宮本は、東日本については同族集団、同族結合が基本であり、縦の主従関係を基本にした家父長制的な傾向の強い上下の結びつきを特徴とし、それに対して西日本の場合、フラットな、横の平等な関係を結びあうのが特徴だとする。/(2)縦の主従関係が東日本に見られるのに対して、寄り合いや一揆のような横の組織は、西日本に発達するという考え方である。/(3)東日本では年齢階梯制は非常に希薄で、年寄り組、若者組、娘組のような年齢階梯制が見えないことも強調する。》


 西日本で生まれ育って18年、関東に来てから62年を過ごした私が、なぜか違和感を感じ続けてきていることが取り出されているように思った。上記の(1)~(3)に対応するように記すと、こう言い換えることができる。qは引用者。
(1q)東日本の「権威」の固着性……西日本の遊動性
(2q)東日本の縦系列の「指示-臣従」傾向……西日本の協議制
(3q)東日本の職階制秩序……西日本の年の功感覚


 いやじつは、西日本と東日本という対比で私は考えたことがなかった。近代化が日本の伝統的な秩序感覚と交雑して、こういうかたちになっているんだろうなあとおもうばかりであった。それにしても、どうしてこの人はこうも固定的な秩序意識を好むのかと不思議に思っていた。宮本常一の新書編集部は、その例証・根拠を記してはいないから、宮本の本を手に取ってみるよりほかないが、身に刻んだ「感性」の整理方法が、この違いを生んだと言えるのかも知れない。
「感性」の整理方法というのは、心の作用である。日常のデキゴトや振る舞いにわが身はいつも何某かの影響を得、影響を与え、そこで受けとった感触を「世間」とか「世界」の感触として心中に刻むのが「心」である。そうして刻んだ世界の感触が、モノゴトを意識して言葉にし、論理立てて考えていくときの無意識の傾きをつくる。
 半世紀以上もそうして言葉を交わしてきた私の友人Oは、1980年代の頃、森毅という数学者が文化や社会について発言しているのを読んで、この人は一筋縄ではワカラナイと批判的に口にしたことがある。視点があちらこちらと一定しないために、どうとらえてどう批判すればいいか困っているという風であった。私は、いろんな視点を組み込んでいて、森毅自身が一つの次元に治めきれないんじゃないか。批判するならOの視点を固定すればいいだけのことではないのかと応対したことを思い出す。私は人に対するに厳格なOが、対象とする森毅の姿をコレと同定することができないで困惑していると思っていたのだが、いま思うと、人の何かに関する主張というものが、一つの視点から繰り出されてくる(べき)と固定することが、そもそもおかしいというべきだったかも知れないと、宮本常一の新書編集部の指摘をみて思った。友人Oの厳密さにいつも圧倒されていた私は、自身のちゃらんぽらんさと森毅のとらえどころの無さとを重ね合わせて、もっと深入りすべき論題だったかも知れないと思い返している。
 学校教育の問題を考えるときにも、(2q)の問題に出会したことは一度や二度ではない。新しい学年団を発足させるとき、責任者となった私は「運営方針」を提示する。細かいイベントなどの子細については担当者が提案すればいいし、協議の場でその提案が変わっていっても構わないと思っていた。ところが若いスタッフの一人が、「主任の提案なのに修正していいのか?」と言いだしたことに驚いたことがあった。「協議しているのだからそれは当然でしょ」と返したが、その若い人からすると、職階的立場が上位の人の提案はそれ自体が「指示」にあたるものであって、下位のものはそれに従うしかないという「体育会的な発想」と受け止めて、わらっていた。だが、今こうして宮本常一の比較文化的な視線を組み込むと、そういう簡単な「問題」ではなかったのかも知れない。
(3q)の「年の功」に関しても、高度消費社会と情報化社会が進んだせいで、年寄りよりは若い人の知恵知識が時代を動かすようになったせいで、「年の功」のセンスが希薄になってきたとばかり思っていた。西日本ではそうであったかも知れないが、東日本では「年の功」より職階的序列、役目における序列秩序が(自ずと)優先されるものだったかも知れない。面白い論題だ。これは是非図書館に予約して読まねばならないと思って、早速予約サイトを開いた。ところが、もう一月半も前にすでに「予約済み」であった。
 ははは、忘れちゃってるんだね。高齢者の「覚え」がこうだから、世の中のコトが何度でも愉しめるってワケか。いやはや。