mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

清流が本流になり海になった。泳いでいるのはワタシだ。

2023-10-23 09:30:47 | 日記
 ダイヤモンド・オンラインに面白い記事が載った。《「芥川賞候補作家」が激白!芥川賞作品をツマラなくした“意外な元凶”とは?》と題された「神納まお の意見」。神納まおは、芥川賞候補にもなった作家のようだ。
 面白いというのは、この作家が「文学」を「社会と個人の関わり」において論じていること。簡略にいうと、(新人の登竜門と言われる)芥川賞の選考対象になる「文芸雑誌」の掲載作品が「社会的・政治的正しさ」において平準化してきていること、《「正しさ」への同調または分かりやすい抵抗》に堕しているという。
 それに対して「文学」は、その作家の「個人を対置する作業」であり、「徹底的に個人から見た世界を掘り下げていく作業こそ文学なのだ」という。つまり作家の身の裡から噴き出てくる世の中の理不尽な壁を描き出し、「まだ名付けられない領域に言葉を与えてくれる小説」こそが「文学」だ、と。
 これはたぶん神納の思いに反して、きっぱりとした文学読者の身を置く、お立ち台宣言のように響く。文学の読者は「まだ名付けられない領域に言葉を与えてくれる」ことを期待する人に向けられる、と。《文学というのは、もとより一般的な感覚とは距離がある》。
 となると、世の中の流れに棹さすワケにいかないから、世間にはウケがワルイ。文芸雑誌は売れない。それじゃあ困るから、雑誌編集者はウケのイイ方向へ舵を切る。いやそうじゃないよと、現実の編集者はいうかもしれない。ウケがイイを狙うのは直木賞作家、芥川賞はやはり「純ブンガク」だというかもしれない。
 ここでいう「現実の編集者」というのを私は、映画『騙し絵の牙』(2021年)に登場する文芸雑誌をイメージしている。この雑誌「薫風」(木村佳乃演ずる)編集長や(佐野史郎の務める)保守派常務が、まさしく「純文学」の伝統にしがみつく役。これは神納のいう「文学」のもっている「まだ名付けられない領域に言葉を与えてくれる」ことが長年かけてつくりあげてきた「権威」である。「近代文学」と呼ばれて江戸期からの大衆文芸とは別物として神棚に祀られてきた。もともとウケるものとは考えられていなかったのである。それが、時代と共に変わってきた。
 変わってきた根柢には、大衆社会状況の進展がある。国語教育で「文学」が取り扱われたことが緩やかに広がり、深まり、庶民大衆が「近代文学」に触れるようになった。その広がりの根柢には社会の全般的な富裕化が実現したことがあったろう。さらにそれに加えて情報社会化というメディアの変化もあって、「純文学」が知識人のものではなく広く大衆のものになってきた。そのお裾分けのお蔭で私も「文学」に触れて、現世の人やコトゴトを定型以外の「まだ名付けられない領域」があることを感受することにもなった。それに伴って「文学」の方も変容してきたのであった。
 文芸雑誌の出版社と編集者の欲望が刺激され、「権威」から「売れること」へ緩やかな変質がみられるようになった。「芥川賞」もその変容と変質を堆積して現在に至っている。その転換を、文字通り絵に描いたように表現したのが、映画『騙し絵の牙』だったというわけであった。
 作家としては、「書きたいものが書けないという現状」に感じられ、出版社・編集者においては「出版社の自主規制」が情報化社会のコンプライアンスとして定着してきた。ポリティカル・コレクトネスが世界規模で「常識化」してきた。逸脱すると世界規模で非難に晒される。「純文学」さえもエンタメになってきた。
 それと並行しているわけではないが、大衆社会の人々も多くは、自問自答しながら読む「文学」よりも、一時憂さ晴らしをするエンタメ的なライトノベルへ傾くようになった。消費するようになった。むろんそれがイイとかワルイというわけではないが、もはや「まだ名付けられない領域に言葉を与えてくれる小説」はメンドクサイことに分類され、棚上げされている。歳をとったワタシも、同じように自身の変遷を感じているから間違いない。
 さて、作家・神納まおは、こう二つの提案をしている。

《まずは二つに一つ、割り切って共感を得て売れる小説を目指すか、売れなくても文学的な道をいくのか。いずれにしても今の中途半端な状態から抜けなくてはならないことだけは確かだ。/もし売れる方向へいくならば、芥川賞は「直木賞の新人賞版」といった位置付けにすべきだろう》

 前者をとるなら、映画『騙し絵の牙』の粗筋にあったように《文芸誌を現在の月刊体制から季刊に変更して、「文学」の質を高めるようにしていく》。
 後者をとるなら、文字通り大衆社会の商品として売り出し、その中に《文学というのは、もとより一般的な感覚とは距離がある》作品を紛れ込ませる。
 そもそもエンタメというのは、一般的な感覚に順接するように見えながら、実は視聴者・観客・読者の身の裡に潜む無意識を掘り起こし、意識世界に浮かび上がらせて「発見」させる仕掛けを必須とする。はははと笑い、きゃあきゃあと驚き、はらはらしながら、身も心も揺すぶられる「発見」を娯しむ。そうしながら、いつしか直に無意識に働きかけられている。
 そんな仕掛けの芥川賞が読めるようになったら、うん、面白い。