mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ドキュメンタリー・タッチの小説

2023-10-19 08:19:18 | 日記
 愈々「本」の校正が、ラス前になった。最終章が来てそれを片付ければ手を離れる。ここまで5回も読み返しをしたことになる。編集者も目を通していることを考えると、10回も読まれている。最初の2回くらいは、表現や誤記・地名や距離や方角などの勘違いをチェックすることになった。
 4回目には、作者の手を離れた「記録」を読むような気分が生じていた。
 ラス前を終えた最終五校では、その「記録」が実録ではなく創作だとしたらどう読めるかという気分が加わっていることに気づいた。そう気づいてみると、むしろそう読んで頂いた方が有難いと思っている自分を発見している。
 そう思ってみると「小説」というのは作者と読者との「競作」といってもいい。作者にはこれこれこういうことを書くという「意思」があるであろう。だが読者は、読む者の事情を通して読み取るほかない。その読者の読み方を特定する「小説」は面白くない。「本」と合うとか合わないというのは、そういう傾きの強い創作と言える。逆に言うと、多面体というか、光の当て方がどういう傾きを保っているかによって、違って感じられる作品。いろいろな読み方ができる要素が籠められている作品は、いろんな人を惹きつけて面白く読まれる。
 だが「記録」はそうはいかない。創作ではない。でも、山行記録を書くときの書き手の偏りがある。何に目を留めて、それをどう受け止めているか。ほとんど無意識に書き留めていることが読む者にどう受けとられるか。その微妙な感触が行間に浮き彫りになっているかどうか。そこに「記録」が、ただの「記録文書」になるか「記録文学」になるかの端境がある。そうか、ドキュメンタリーというのは、行間に浮き彫りになる自然観や人生観、社会観、世界観があって、それが読者と交信する感触を湛えているってことか。
 五校のラス前を終わって、ちょっとそういう感触が湧いたというのは、ワルイことではない。そうだね、ドキュメンタリー・タッチの「小説」のように思って読んで頂けると著者としては幸いだ、と「謹呈」の鏡書きには記しておこう。