mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

覚悟を伴ったあきらめ

2023-10-01 09:20:00 | 日記
 佐伯啓思の「日本の自然観と災害」の所論がワタシの思いと重なり、そうだそうだと強い味方を得た思いが湧いてくる。昨日(9/30)の朝日新聞に掲載された寄稿は、大災害に接したときの「シカタナイ」という割り切りに触れ、こう述べる。
《この「シカタナイ」が、ある覚悟を伴ったあきらめなのか、それとも単なる思考停止の口実なのかとなると、実はよくわからない。……そこでどうせ「シカタナイ」というなら、ある程度「覚悟を伴ったあきらめ」の方に傾きたいとも思う》
 私の思いと重なると感じたのは、この記述だ。
 以前「中動態の世界」が私に与えたインパクトを述べる件(くだり)で「プーチンとかトランプでさえ、人類史が生み出した所産とみれば、善し悪しは別として理解できる」と私が触れたことに、「いつから人が丸くなったのか」と揶揄う反応があり、彼らの所業に対する憤りが収まらないという友人がいた。いま思うと、この友人は、私の記述を「思考停止の口実」と受け止めたにちがいない。
 佐伯啓思はそれに続けて、
《言い換えれば、そこにある種の日本人の独特の心性、精神文化、価値観を刻印したものであってほしいと思う》
 とまで話を広げる。私はワタシの実感が日本人特有のものか東アジア人特有の自然感かワカラナイから「列島住民の心性」と表現してきた。佐伯啓思も「……であってほしい」と自分の思いだと断っている。そうか、こう表現すればワカラナイことを汲み込んで主体的に言える。
 佐伯啓思は1755年リスボンの大地震を受け止めたカントの言説に触れる。
《彼はこう述べている。人間は想像を絶する自然の働きのなかに「崇高さ」を感じる。……(自然の脅威は)人間に恐怖を与え、人間の無力を思い知らせる。しかしそのとき人間は、理性の力によってこの恐怖に打ち勝ち、無力感を克服して、自然の脅威に敢然と立ち向かう。そこにこそ、人間のもつ真の「崇高さ」がある》
 これを佐伯は「理性の力によって……自然より優位に立てる」と引き取って、東日本大震災のときに「自然は貴重な生命を破壊するかも知れないが、人の精神まで破壊することはできない」と被災者を激励したルース駐日アメリカ大使の言葉を引き合いに出し、「こういう言い方が即座にでてくるところに西洋文化の規定をなしているユダヤ・キリスト教の存在を感じたりもする」と、「西洋文化の核心」を取り出す。
 では、日本人はどうであったか。佐伯は宮沢賢治を援用してこう展開する。
《日本人にとっては、自然は山川草木や気象現象から動物や人間までの森羅万象を包括するものであり、それは何の意図も計画もなく、おのずから事物を生成し、変化させ、衰退させ、また再生するといった無眼の運動・・・》
 つまり「ジネン」であるとまとめ、
《「おのずからある」「おのずからなる」ものであった》
 とほぐす。これは私の「自然(じねん)」の感触に近く、まさしく「中動態の世界」をともなう存在の認識である。自ずからあるのは命をもつものばかりではない。災害をもたらすありとある自然もまた、命の如くに躍動し循環し災厄と同時に恵みをもたらす。それを日本人は「カミ」とか「いのち」と表現し、それもたらす感懐、「神々しさ」をカントは「崇高」と名付けたと佐伯は敷衍する。
 西洋の科学的知見は、自然の摂理には法則があり、それを解き明かすことが理性の働きによると見立てているが、はたして日本人は「本気でそう思っているだろうか」と佐伯は指摘する。
 そう、そう。西洋の科学的知見とカントの「理性」が出遭うところには、人間の自然に対する優位性が前提にされている。ほぼ無意識の、ユダヤ・キリスト教創世神話のもたらした精神作用の前提である。
 ではそれを日本人は、どう汲み込んできたのか。佐伯はこう述べる。
《……自然災害であっても、そこには人間の理解の及ばない自然の働きがあり、だから「シカタナイ」といって忍従するしかない。その自然への忍従の姿勢は、ある意味で「うまくあきらめる術」でもあった》
 自然存在としてのヒトの認識は、大自然(の様々な作用)に対して己の分際を弁えることを、基本とする。「自然(じねん)」のありようとしてのワタシを「謙虚」という言葉で、作家である畏友・鈴木正興は表現した。へりくだるという意味の「謙遜」ではなく、存在そのものの「分を知るありよう」。まさにその「謙虚」が「シカタナイ」という表現に集約されて、自然に向き合うヒトの存在態様と位置づけた。それが原基にあるというのが、佐伯が指摘したい「核心」であろうと思う。
 問題は、しかし、西洋発の資本家社会的市場経済の論理が、日本人の「原基」を吹き飛ばして、カント的「崇高さ」を抜きにして(従って日本的なヒトの分際も辨えないで)暴走しているのが昨今の人類の日常である。そこをどう市井の庶民は乗り越えていくか。
 佐伯は、最後のところでこう述懐する。
《こういう感覚が、この科学万能時代に合っても、日本人の心の底にまだ残っていても不思議ではない》
 おいおい、ここに来てあなたは日本人から一歩退いてしまうんかよ、と私は思う。考察している彼はコスモポリタンというか、神のような物言いである。
 日本人の心の底に残っているかどうか、まずあなたの心の内を開陳すればいいではないか。ここに、市井の老爺と社会科学の専門学者との差異がある。佐伯啓思の列島住民への応援歌に感謝しながら、しかし今一步、一体感を持てないもどかしさを感じるのである。
 なお余計なこと乍らひとこと。紙面の佐伯啓思「経歴紹介」に「保守の立場から様々な事象を論じ」とある。これは編集者の付け足しなのか、佐伯自身の自己紹介なのか。そういうレッテルが何某かの「権威」に通じているのか、単なる政治的腑分けの目印なのか。気になった。論じていることに「保守の立場」と名付けることが何を「盛っている」のか、つまらない論壇の象徴のように思えている。