mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無辜の民の心持ち

2023-10-20 06:23:04 | 日記
 1年前(2022-10-19)「戦争の綺麗事より虚数の理念」と題して、「戦争犯罪」とか「非人道的」と誹りあっている国際政治世界を批判して、「虚数の理念」となってしまっている「世界平和」の再構築を考えるべきだとカントのようなことを述べている。その根柢には、大平洋戦争に「見舞われた」列島庶民の自然感的世界観が横たわっているというのが、カントのそれと違うところだ。つまりカントは(当時のヨーロッパにおける覇権争いに辟易して)人類の智慧(義務的倫理)を尽くせといったのであるが、昨年のワタシはヒトの自然存在としての実在的倫理から)「虚数の理念」を起ち上げようぜと訴えている。それを読む今年も、ガザの病院攻撃を巡って、同じような事態のジレンマを(人類は)経験している。相変わらず「虚数」である。
 ガザの病院爆破が、イスラエルなのかイスラム聖戦の誤爆なのかとエビデンスを提示して報道が行われているが、エビデンスを争っている限り、パレスチナの戦闘を止めることはできない。バイデンのイスラエル訪問のような、格好つけても何の力にもなれないことが証明されるようなものだ。
 夕方のニュースで、アメリカでユダヤ人のグループが「戦争を止めろ」とデモをしているのが報道された。ああ、こういうのがまだあるんだとかすかな虚数の可能性をみたように感じた。どういうことか。
 ウチのカミサンは(ハマス撲滅も含めて)イスラエルを許せないと言う。それをおずおずと支持するバイデン・アメリカを、さらに公然と非難する。そもそもパレスチナは・・・と、アラビアのロレンスの頃からパレスチナの成り行きをみているからだ。
 つまり無辜の民であるアラブ世界をヨーロッパが侵略し、挙げ句に(ヨーロッパの都合で)イスラエルの建国、アラブ人の排除、パレスチナのアパルトヘイト化という成り行きを知ると、ガザ地区ばかりかパレスチナ自治区の抵抗さえ、何があっても支持するという心持ちになる。それが、無辜の民の心持ちというものだ。つまり、列島住民の無辜の民の心持ちがアラブの無辜の民の心持ちに共振しているのだ。無辜の民というのは非力な民ということだ。
 それはどういうことか。もっと大きな視点からヒトの社会の関係を眺めてみると、圧倒的に力の強い者が強引に振る舞っている社会関係に於いては、力の無い者たちはどんな抵抗をやってよいと思っている。大金持ちを懲らしめる鼠小僧や石川五右衛門、雲霧仁左衛門は無辜の民のヒーローだ。溜飲を下げる。虚数だから、講談や歌舞伎に登場するだけでも構わない。それさえもしかしお上は、虚数でさえもリアルに登場することを畏れ、禁じて抑圧する。
 ロシアのウクライナ侵略にしても、そうだ。クリミアがロシアに併合され、手も足も出ない非力なウクライナは、それだけで無辜の民に見え、支持せざるべからずという気分になる。
 こうも言える。エビデンスを求める心情の行き着く先は、社会システムのもたらす蓋然的な流れを肯定する方向に向かう。その情報をつくり、流し、受け止める背景には、現在する社会システムの権威・権力を持つ人たちしか、いないからだ。「もっと大きな視点からヒトの社会の関係を眺めてみる」というのは、人類史の初源からの成り行きを総集するように胸の内にコトの流れを見つめることに外ならない。ワタシはそれを「自然(じねん)」と呼んでいるが、わが身の裡に堆積するコトゴトの根源から自問自答することによって、「虚数の理念」がちらりと「実数」の片鱗を見せるように感じられるからである。
 もしバイデンが非力の現在を自覚するなら、欧米がいまこそ「理念」復活の担い手として、虚数を実数に切り換えていく主導権を握る(義務的倫理の)最後の立場に立っていると思われる。しかしフランスもイギリスも、ましてドイツもそのように反応はしてない。
 エビデンスを云々している人たちは、非力な無辜の民の無念を感知していない。ただ戦争の惨禍を迷惑なデキゴトとして受け止め逃げ惑う「受動的な客体」と受け止めているだけである。それを「能動的な主体」と位置づける政体こそ、民主主義の名に恥じぬあらまほしき社会だが、それが実数的に登場するのは、さて、あと何百年待てねばならないのだろうか。