mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

無力者の身の置きどころ

2023-10-16 09:55:29 | 日記
 ブレイディみかこ『両手にトカレフ』(ポプラ社、2022年)を読む。いつであったか、あっ、彼女が小説を書いたんだと知って図書館に予約したのが届いたってワケ。1年経っているところをみると、結構評判を呼んで読まれているみたいだ。
 階級社会イギリスの貧困家庭層の子どもは、どう彼ら自身の生きる道筋を思い描き、それを手に入れようとするステージに乗ることができるか。それを探ろうとする著者の視線がきっちりと座っている。
    男に振り回される女たち、薬に溺れアルコールに依存する母親たち。子を見捨てる/見捨てないというよりも子どもが一緒にいる気配に依存していなければ生きていけない親たちの姿も浮かび上がる。社会規範の軛を解くことができない人の切なさも行間に漂う。
 著者はイギリスの子どもの「生きる道筋を探る」のに、「知的媒介物」を用意している。大正時代の日本の貧困層の子どもの物語「本」を対照させて、貧困家庭の子どもの問題が偶然のデキゴトではなく、人類史の生み出す蓋然性を持っているとみせている。
 読みながら私は、去年元宰相を銃撃したyのことを思い浮かべていた。母親の宗教への傾倒が家庭の困窮と悲惨を招いた。それがyの「両手にトカレフ」を抱かせたことは疑いようもない。叔父が傍らにいてかろうじてyとその兄妹を支えてきたと報道もあった。
 だがそれは「(子どもの)別の世界」への入口を開く、「生きる道筋」を拓くことを意味することと受け止めていなかった。yの「両手にトカレフ」をもたせない世界への跳躍を視野に入れて、旧統一教会の在り様を問題にしていない。叔父がそう思っていたかどうかを問題にしているわけではない。メディアがそうであり、野党政治家たちもそうであった。自民党の政治家に至っては、言うにや及ぶ。問題に触れることさえしていない。彼らに社会問題を語らせる資質は、まったく感じられない。この問題に沈黙する宗教家にも絶望的な思想状況を感じる。
 昨日、旧統一教会の解散命令を文科省が出したという。これが単に、賠償金の支払いの行方問題に片付けられないように、私は願う。yの母親の、未だに自らが銃撃事件に原因しているとは思ってもいない言動は、日本宗教界の抱える最大の問題を含み示している。私は哲学のない日本文化を悲嘆している。
 この作品は、「知的媒介物」を子どもたちに提供する「知的な大人たち」を「生き方を(意志的に)選んだ大人たち」として登場させ、今の社会システムの中を「(人の)自由に生きる道筋」のひとつとしてみせる。これは、これまでの著作が語り示すブレイディみかこの人生そのもの。日本からイギリスに渡り、家庭を持ち、子を育ててきた彼女が、ただ単なるひとりの女として生きた世界というだけでなく、社会の構造や文化がもたらす人の世の厳しい闘いをどう社会政策として組み立ててきたかを問う鮮烈さを宿している。
 その起点となっているのが、子どもたちが「別の世界」へ飛び立つ跳躍台はなにか。大人は何を用意してやれるのかという問題意識である。大正時代の貧困層の子どもの「生きる道筋」を照射することによって、イギリスの子どもの話が対岸の火事ではなく、列島の現在の問題だと訴えてもいる。階級社会であることによって、かえって、そこへ身を置く「知的な意志」が浮き彫りになる。一億総中流が崩壊し、でも一億総「茹でガエル」と揶揄われる孤立した社会で、はたして「知的な意志」はどう働いているのであろうか。
 そんなことを考えさせる作品であった。