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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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楽しくエコな仲間達

2018-09-24 15:51:04 | 札幌



「屯田の森」と同じ、西区役所、区民センターの敷地の一角に、お子さんにとっては楽しい、大人にとってもほっこりとさせられる場所を見つけたので、ご紹介。





西区の環境キャラクターである「さんかくやまべェ」とその仲間達。
西区内ではそこかしこで見かけるので、知ってはいましたが、このような広場の存在までは知りませんでした。
「さんかくやまべェ」の公式サイト





























コメントなしで一気に紹介しちゃいました。
見ているだけでも童心に帰ることができる気がします。
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屯田兵の足跡~2~

2018-09-23 16:56:16 | 札幌
(前回の続き)
テーマ「屯田兵はなぜ琴似に入植した?」





「琴似屯田兵顕彰碑」などがある「屯田の森」。
車通りが多いけど、反対側から一枚撮ってみました。





周辺の歩道には、開拓時代を思い起こさせる絵が描かれていました。
もしかすると他にもあるかもしれないので、次回帰省したときにチェックしてみようと思います。





通称「旧5号線」から分岐してJR琴似駅方面へ続く「琴似本通」には、このような木柱が、合計8本設置されています。
これは、兵村の境界を示す村道の道しるべとしての意味を持っています。





地下鉄東西線琴似駅周辺。
写真のイオンは、私が幼稚園のとき、昭和52年(1977年)4月に「ダイエー琴似店」として開業し、2015年に、イオンへの経営権譲渡により「イオン札幌琴似店」となりましたが、長く西区に住んでいる人達にとっては、「イオン」と聞いてもピンと来ず、まだまだ「ダイエー」で通用することが多いです。
私も、「ダイエー琴似店」には思い出が沢山ありますよ。高校生の頃は、3階に入っていていたCD店で何度かCDを買ったりしたし。
もっとも、CDに関しては、現在「レイク」の看板が出ているビルの地下に「玉光堂」という大手のCD店が入っていて、そこで買ったことの方が圧倒的に多かったですけどね。
また、同じビルの1階には、大手書店の「紀伊国屋」が入っていまして、ここも、思い出が沢山あります。(例えばこういうこと





「イオン札幌琴似店」の前から、地下鉄東西線発寒南駅方面に向かう道路。
散策前に、図書館で屯田兵関連の資料と古地図を参照したところ、入植した私の祖先の名前もしっかりと載っていまして、どうやら、祖先が入植したのは、この道路に面した一画である可能性が高いということに思い至りました。
現在のその地の写真も撮ったけど、一般の民家敷地のようなので、ここには載せません。
私の本名は割と珍しい部類に入る姓なのだけど、札幌市各区の電話帳を見ると、この地下鉄琴似駅界隈だけやたらと多いことが確認できます。





しばらく歩いて、今度はJR琴似駅。
駅の全景と周辺の紹介は、こちらの記事を。





JR琴似駅前の「琴似本通」。
こちらも、大型ショッピングセンターや飲食店が立ち並び、札幌市内でも有数の繁華街となっています。

「琴似本通」は、開拓使が作った幹線道路の一つで、通りの両側には屯田兵屋が整然と立ち並んでいました。
当時、道路の幅は十間(約18m)として整備されましたが、現在でも、その幅は殆ど変っていません。
確かによく見ると、繁華街を貫く幹線道路なのだから、片側二車線でもおかしくないところ、一部右折車線がある以外は、片側一車線のままとなっていますね。

明治8年(1875年)に屯田兵が入植した「琴似屯田兵村」を中心とする一帯は、明治39年(1906年)に「琴似村」となり、その後「琴似町」を経て、昭和30年(1955年)に札幌市に合併されました。
旧国鉄の琴似駅は明治22年(1889年)に設置されたものですが、昭和51年(1976年)に琴似~白石間に地下鉄東西線が開業すると一気に都市化が加速し、現在のような一大繁華街となりましたが、前回の記事でも書いたとおり、そもそも琴似地区が屯田兵村の最初の候補地に選定されたのも、札幌本府に近く、交通・通信の要衝として適し、生活の利便性が高いという理由からでした。
これは、開拓使顧問であったホーレス・ケプロンの進言によるものですが、そのような先見の明のもとに兵村が整備されてから約150年、現在の琴似を見たら、ケプロンは何を思うことでしょうかね。








最後に、JR琴似駅を過ぎて「八軒」のエリアに入った所にあるものを一つご紹介。





右側面に「昭和十一年十月八日奉迎 奉拝者一同光栄勲記念建之」と刻まれているこの碑は、昭和11年(1936年)、北海道で陸軍特別大演習が行われた際に、昭和天皇が札幌市内を行幸されたことを記念するものです。








屯田兵村が廃止され「琴似村」となった後の役場所在地を示す遺構。
「札幌軟石」とは、現在の札幌市南区石山周辺で採掘され、建材として重用されたものでしたが、もともとは、今から4万年前に、現在の支笏湖が形成されるきっかけとなった火山活動が起こった際、高温の水蒸気やガスを含んだ火山灰が流動化し火砕流となり、現在の石山周辺にも流れ、冷え固まった溶結凝灰岩がその起源と言われています。
「溶結凝灰岩」。何だか「ブラタモリ」っぽいですねえ・・・。もしまたの機会(札幌周辺でロケが行われる機会)がありましたら、ぜひ注目していただきたいですね。

この遺構がある場所はこちら
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屯田兵の足跡~1~

2018-09-22 15:36:28 | 札幌
テーマ「屯田兵はなぜ琴似に入植した?」





札幌市西区琴似エリアを小樽方面へ向かう幹線道路、道道「宮の沢北1条線」。
かつては札幌と函館を結ぶ一般国道5号の一区間だったこともあり、西区民の間では「旧5号線」で通用する区間。








そこから分岐して、JR琴似駅方面と向かう道路、通称「琴似本通」と呼ばれる道路があります。





少し進んだところに「西区役所」があるのだけど、そこに何やら、表示板が見えますね。





表示板にもあるとおり、この周辺が、明治7年(1884年)に、北海道初の屯田兵村が設置された場所なのです。

明治7年10月30日に「屯田兵例則」が制定され、以降明治32年(1899年)まで、道内各地に37の屯田兵村が設置されました。(正確には、琴似兵村の子弟として隣接する発寒地区に設置された発寒兵村を含む38箇所)
琴似地区が最初の入植地とされたのは、屯田兵を札幌本府(札幌市中心部)の防衛の任に就かせるという目的のもと、開拓使顧問ホーレス・ケプロンの進言により、本府に近く、交通・通信の要衝として適していると判断されたためとされています。
琴似に入植した屯田兵は、現在の宮城県に当たる亘理藩、福島県会津地方に当たる斗南藩、山形県の酒田、鶴岡方面に当たる庄内藩の出身で、明治8年(1875年)5月16日、開拓使御用船「通済丸」で小樽へ入り、翌月琴似にやってきたとされています。





この「屯田の森」には、屯田兵にまつわる石碑が多数建立されています。
一つ一つ見ていきましょう。





まずこれは、平成11年(1999年)に屯田兵の子孫有志によって設置された「琴似屯田兵顕彰碑」。
大正13年(1924年)、開村50年を記念して、現在地の向かいにある「琴似神社」に「琴似兵村五十年記念塔」が設置されましたが、これが老朽化によって取り壊されたのち、屯田兵の偉業を後世に伝えるべく、この碑が設置されました。





「屯田兵本部趾」。
先述した「記念塔」と同じく、開村50年を記念して大正13年に設置されたものです。
その「屯田兵本部」は、この森と同じ敷地内にある現在の西消防署琴似出張所付近に設置されたとされています。





これは、ちょっと読めないのだけど、「琴似屯田開村記念碑」という石碑で、屯田兵が琴似に入植し、その後「琴似村」として発展を遂げた足跡と屯田兵の功績を記念して、明治30年(1897年)、向かいにある「琴似神社」に設置されたものです。





これもちょっと読みにくいけど、「陸軍屯田兵第一大隊第一中隊本部之趾」と書かれています。
琴似に設置された「第一中隊」と、現在の中央区山鼻と呼ばれるエリアに設置された「第二中隊」、北区新琴似に設置された「第三中隊」、同じく北区篠路に設置された「第四中隊」が、まとめて「第一大隊」とされていました。
「第一中隊」のあった場所は、森と同じ敷地内にある西区役所の付近とされています。





そして最後は、昭和50年(1975年)9月に、入植100年を記念して設置された碑です。








森と同じ敷地内にある「西区民センター」と、その裏にある「琴似小学校」。
ここには、有事に備えた訓練の場であった「練兵場」が設置されていました。

屯田兵の琴似入植の経緯をざっと書いてみましたが、実は私の祖先も、先述した亘理藩からこの地に入植してきました。
図書館で古い記録を読み、祖先が住み着いた場所も大体特定させることができましたが、そこはまた次の記事で。

「屯田の森」の場所はこちら
その向かいにある「琴似神社」と屯田兵に関する記事はこちら
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色々と考える

2018-09-21 21:05:24 | 日々のもろもろ
写真撮ればよかったかなと思ったけど、今日は、土鍋で水餃子を食べました。
これから北海道は鍋物の季節。4シーズンぶりに一人用の鍋セットを頻繁に買うと思うので、土鍋の活躍機会も増えるでしょう。

単身生活に入って半年、一日三食何を食べるかは常に悩むところ。
とりわけ夕食は、肉、野菜、魚のローテーションを基本としつつ、たまに麺類とかカレーライスもというところだけど、食費に充てられるお金も限られているので、その辺のやり繰りがとにかく大変。
独身時代は、あまりその辺を考えず、直感で買う物をチョイスしていたけれど、今は、お金もさることながら健康面にも気を遣うようになり、考えてチョイスするようになったので、買い物一回当たりのスーパーの食品売り場にいる時間は、独身時代の倍くらいになっていると思う。
まあでも、自分で作って片付けをしてってのは全く苦じゃないので、これからも、むしろその辺を楽しむくらいでやりますよ。
今日は肉入りの水餃子だったけど、明日はローテーションどおりだと魚の番。焼き魚か海鮮丼のどちらかかな。

明日から三連休だけど、晴天続きだった今週から一転、釧路は三日とも天候は今一つの予報。
晴天だったら遠出でもしようかなと思ってたんだけど、予報どおりだったら、近場で温泉かな。いずれにしても、籠っているのは好きじゃないので、どこかには出かけたいですけどね。
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次の100年へ

2018-09-20 21:09:56 | 札幌



久しぶりに札幌の市電に乗りましたが、何やら興味深いヘッドマークが取り付けられています。
五年前、函館の市電が開業100周年を迎えたのに続き、今年は札幌の市電が開業100周年を迎えました。

札幌市電の歴史は、明治42年(1909年)に、「札幌軟石」の輸送線として山鼻~石切山間に敷設され、明治45年(1912年)には市街地まで拡張された「札幌石材馬車鉄道」(のち「札幌市街馬車軌道」)が基となり、大正7年(1918年)8月12日に「札幌電気軌道」として開業。昭和2年(1927年)に市営化されました。
その後、路線の拡張、廃止を繰り返し、現在は市内を循環する一路線のみとなりましたが、変わらず沿線住民の足として活躍し続けています。











藻岩山の麓にある「電車事業所」
様々なデザインの車両が格納され、全国の電車ファンの注目を集めるスポットとなっています。
函館にもある、冬の間路線の除雪を行う「ササラ電車」の姿も確認できますね。





うまい具合に乗ることができた、2013年に運行開始された低床車両「A1200型」。
函館の「らっくる号」は二両編成だけど、こちらは三両編成。平日の日中に乗ったけど、乗客も多く、輸送効率の高さを感じました。

そうか、今年で100周年だったのか・・・。それなら、今度は廃止された路線跡の探訪でもしてみようかな。
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