函館を代表する観光スポット・・・という触れ込みの場所は他にもありますが、人気の高さでトップを競う場所として、やはりここは外せないと思います。
「五稜郭公園」そして「五稜郭タワー」です。
「五稜郭タワー」の1階アトリウムに、遠くから見ても存在感のある像が1体建っています。
新選組副長として名を馳せ、「箱館戦争」で壮烈な死を遂げた「土方歳三」の像です。
制作は、函館出身の「小寺真知子」さんという彫刻家。これまで紹介してきた作品の中では、ベイエリアにある、「赤い靴の少女像」や、1855年に箱館にやってきたペリー提督の像などが知られています。
土方歳三は、現在の東京都日野市の出身で、20歳を過ぎる頃から武術を志し、薬の行商をしながら、各地の道場で他流試合を申し込んで剣の腕を磨き、1863年、幕府の浪士組募集に、かの近藤勇らと共に参加して、後に新選組を組織しました。
1868年、「戊辰戦争」の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」に敗れて近藤勇が処刑されると、土方は、新選組の生き残りを率いて北上し、仙台で、榎本武揚率いる海軍と合流して蝦夷地に上陸し、「箱館戦争」に参戦することとなりました。
1869年5月11日(旧暦)、新政府軍の箱館総攻撃の際、銃弾を受けて壮烈な死を遂げましたが、市内にある「土方歳三最期の地碑」には、それから155年経った現在でも、花を手向ける人が後を絶ちません。
新選組は反幕府勢力を征伐するために組織されたものでしたが、元々は一般の町人、それも荒くれ者だった者が多かったことから、なかなか統率を図ることが難しかったと言われています。
本来であれば、統率を図るのは、トップである、局長=近藤勇の役割だったのかもしれませんが、新選組にあっては、ナンバー2であった土方が、あえて隊士たちに厳しく接し、憎まれ役を引き受けることで、近藤勇がトップとして行動しやすいようにしたそうです。
そんなことから、土方は「鬼の副長」とまで呼ばれて、敵味方問わず恐れられていたそうですが、近藤勇の処刑という出来事にも見舞われ、戦いを積み重ねる中で、徐々に隊士たちの信頼を得るようになり、死を遂げた際、隊士たちは、まるで母親を失った子供のように嘆き悲しんだと言われています。
厳しさと優しさをしっかり備え持った、リーダーとしては正に理想的な存在だった人物と言えると思います。
実はこの銅像、そんな土方の「優しさ」と「厳しさ」を描き分けているとされています。
こちらの、左側から見た表情と、
右側から見た表情を比べてみてください。
左から見た方が、何となくでも柔和な感じに見えるのに対し、右側が表情が厳しいように見えませんか?
そう、この像は、向かって左側が優しさ、向かって右側が厳しさという描き分けがされているのです。
像の隣にある竹は、土方の実家から株分けされた、弓矢の材料となる矢竹です。
銅像の隣には、1門の大砲が置かれています。
「戊辰戦争」や、西郷隆盛で有名な「西南戦争」で使用された大砲だそうです。
少し離れたところに、二体の像が建っています。
五稜郭の設計者として知られる「武田斐三郎(たけだあやさぶろう)」。
その功績については、後日別な記事で書きたいと思います。
そしてこちらは、「箱館戦争」で、旧幕府軍の指揮官だった、「榎本武揚」の像。
この2体は「武内収太」氏という、函館市立博物館の初代館長を務めた人物の作品です。
旧幕府軍の軍艦で、江差町の沖に沈没した「開陽」を復元したものです。
このようなキャラクターもいて、写真を撮る人が絶えません。
ということで、スタートしました、五稜郭散策編。
途切れ途切れになるかもしれませんが、何回かに分けて続けていきたいと思います。