北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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南部坂の上

2024-07-11 20:20:52 | 函館

 

「まちセン」こと「函館市地域交流まちづくりセンター」の横を通っている「南部坂」。

最近、ガイドでお客様との待ち合わせ場所を「まちセン」にしていることが多いので、この坂も何度も上り下りするようになりました。

 

 

函館山方面へ。

この辺は割と平坦で、少し先に緩やかな傾斜がついているように見えます。

 

 

ところが、そこから少し進むとこれだけの傾斜が。

写真の車も、上っていくのが大変そう。

 

 

 

 

先日も紹介した「ロードヒーティング」用の電気設備。

一応念のために書きますが、「ロードヒーティング」とは、北国の凍結した路面において、降り積もった雪や、固まっている氷を溶かすための設備で、舗装の下に電熱線、電気ヒーターなどを埋めて設置することが多いです。

電気式の他にも、パイプ内に加熱した不凍液(冬場の寒冷地でも凍らないように作られた液体)を行き来させ、その熱で積もった雪を溶かす「ボイラー(温水)式」や、地面の下にパイプを通し、加熱した不凍液を循環させて雪を溶かす「ヒートポンプ式」などの種類があります。

このような急な坂道で効果を発揮することが多いですが、正直、ここまで急な坂だと、雪のない季節でも、特に下りは怖いと感じることが多いです。

という話を、西日本から来るお客様には何度かしていますが、あちらではさすがに珍しいせいか、結構関心を持っていただけているようです。

 

 

この坂の上には、小さな史跡があります。

 

 

ここは、かつての南部藩の陣屋があった場所。

江戸幕府が蝦夷地を直轄していた1799年から1821年までの間、幕府の命により南部藩から派遣されてきた藩士たちの拠点、陣屋がこの場所にありました。

幕府の直轄が解けた1821年に一旦廃止され、1854年に開国によって箱館奉行が設置された際、函館から現在の登別市に至るまでの沿岸警備を命じられた際に再び交付されましたが、元の陣屋は大変粗末な造りであったことから新たに整備され、以前よりは幾分ましな造りになったとされています。

1868年8月、政情不安から南部藩は蝦夷地から撤退することとなりましたが、このとき、あろうことか藩士たちは、陣屋に火を放って全焼させたそうで、このことから、藩主は明治新政府からきつくお咎めを受け、減石され東京に謹慎させられたそうです。

 

 

陣屋跡の解説板と並んで建っているのがこちの碑。

「放送記念碑」という文字が見えます。

 

 

ここは、「NHK函館放送局誕生の地」でした。

今のNHK函館放送局は、ここから少し北東方面の「千歳町」というエリアにありますが、元々はこの地で放送が開始されたという歴史が、こうして碑文によって語り継がれています。

 

 

 

この先には、「函館山ロープウェイ」の山麓駅があり、この位置からだと、ロープウェイがかなり地上ギリギリに来ているようで面白いです。

 

 

 

最後に紹介したいのがこの石杭。

「要塞第一地帯」と書かれています。

 

 

この石杭は、1898年に工事が始まった「函館要塞」との敷地界を記すもの。

要塞が着工されて以降、第二次世界大戦が終結するまでの間、函館山は、人が立ち入ることはもとより、写真を撮ったりスケッチをすることすらも禁じられていたという歴史があります。

人の立ち入りが禁じられ、人為的な開発がなされなかった効果として、手付かずの自然が守られてきたという喜ばしいこともあったのですが、そうした戦時中の歴史が、この石杭に集約され、語り継がれていると言えると思います。

 

 

今日紹介したスポットも、これまで2回ほどお客様に紹介してきましたが、どれもガイドブックには載っていないため、とても興味を示していただけたようでした。

明日は、初めて、日没後のガイドに参加してきます。初めてのコースなので、私メインではなく、ベテランの方の見学ということになりますが、近々にそのコースでもデビューしたいと思っているので、しっかり勉強してきたいと思います。

 

コメント (2)
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