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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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思い出が蘇る

2019-11-20 19:30:02 | 懐かしの思い出

 

 

いきなりですが、北見市郊外にある小学校。

私が1年生のときに通っていました(2年生になるときに、道南の八雲町へ引っ越した)。

この階段は、当時から変わらずに残っています。

私は1年5組(6クラスあった)けれど、教室はどこだったかなあ・・・、確か、5組までが1階で、6組だけが2階だった記憶が・・・。

 

 

卒業した学校(札幌)だったら、アルバムもあるし、ある程度のことは覚えているけれど、さすがに1年生のときだけ通っていた学校ともなると、校内の様子は覚えてはいません。

でも、側に来ると、色々と思い出が蘇ってきます。

 

 

 

その小学校に隣接する幼稚園。

私は、年少のときは「あさがお組」、年長のときは「ゆり組」でした(年長のときは、担任の先生も花の名前の先生でした)。

建物は40年前から建て変わっているけれど、場所は変わっていないので、懐かしい思い出が蘇ってきます。

 

 

 

小学校と幼稚園からそんなに離れていないところにある公園。

確か、幼稚園の年長か小学校1年生のときのどちらかに開園した記憶があります。

 

 

ここではよく遊んだものでした。

 

 

遊具はあまりよく覚えていないのだけど、このゲートは覚えています。

この小さなグラウンドでも、野球とかサッカーとかしていたんだろうなあ・・・。

 

 

これは児童会館なんだけど、ここはちょっと覚えていないなあ・・・。

でも、公園の隣なので、きっと来たことがあると思います。

 

 

 

「まつの木」公園の隣にある小山。

由来まではわからないけれど、私達はこの小山を「ヘビ山」と呼び、また、当時、木の棒きっれで葉っぱを叩き落すという遊びをしていて、それを「てつ狩り」という、意味不明の名前で呼んでいたのを覚えています。

「てつ狩り」・・・、一体何でしょーねその名前は。そもそも「てつ」って「鉄」のこと?遊びの内容からしてそんなわきゃないのだろうけど、誰彼ともなくそう呼んでいたのかな・・・。

 

 

 

公園といえば、もう一つ覚えている場所があって、高台にあって、小さいけれど、ひまわり畑があったという記憶があったので、そこはどこなんだろうと歩いていると、辿り着いたのがこの公園。

 

 

「高栄どんぐり公園」という公園。

ここだという確証はないのだけど、この近くには、当時からある理容室や商店が今も残っていたので、きっとここで間違いないと思います。

 

 

 

とまあ、懐かしい思い出が次々と蘇ってきたけれど、大変残念だったのがこの場所。

当時住んでいたアパート(父親の勤務先の社宅)が、取り壊されてしまっていました・・・。

 

 

元のアパートの敷地と、隣接する公営住宅敷地の境界にあるブロック。

自宅にあるアルバムには、このブロックの上に立って撮ってもらった写真があります。

 

 

このリサイクルショップは、当時はスーパーでした。

 

 

この銭湯は、当時からそのまま残っています。きっと来たことがあるでしょう。

 

 

この横断歩道は、私が、押しボタン式の信号というのを初めて体験した場所。

小学校1年生のときにできたと記憶しています。

 

 

電柱に注目。「西陵」とあります。

 

 

 

ここも今は居住者はいないのだけど、この公営住宅にも、友人が何人か住んでいたはずです。

北見市の西部にある丘の上ということで「西陵」と名付けたものと推察されますが、電柱にも名前が残っているということは、それだけでなく、もっと深い何かがあるのかもしれません。

 

ということで、思い出の場所を超駆け足で巡ってみましたが、車ではなく交通機関を利用したことで、細かい部分にも接することができ、大変良かったです。

またいつかゆっくり回ってみようと思います。 

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6月30日(日)の思い出

2019-06-30 19:39:31 | 懐かしの思い出

子供のころから、何月何日が何曜日であるかを覚えることが得意だった私(こんな具合)は、現在でも、何月何日何曜日という単位で、懐かしい出来事を思い出すことが多い。

今年は、私が高校3年生だった平成3年(1991年)と曜日の配列が同じなのだが、そんな平成3年の6月30日(日)は、私にとっては一生の思い出なっている、「高校生クイズ」こと「全国高等学校クイズ選手権」の北海道大会が開催された日。

1年生のときから、「高校生クイズ」はもとより、「アメリカ横断ウルトラクイズ」や、この当時各局で放送されていたクイズ王決定戦番組などを録画して何度も繰り返し見たり、番組の本を繰り返し読んだりして対策を練っていた私は、三度目の正直で今年こそはと意気込んで出場したものの、結果は、最初の「YES・NOクイズ」第四問で無念の敗退。敗退したときの問題に対しては、正直ちょっと物申したい部分もあったりしていたのだが、それでも敗退という現実は受け入れなければいけないということで、悔しさを胸に秘めながらも、そのまま退場と相成った。

なんだけど、1年生のときと2年生のときは、「YES・NOクイズ」が終わるまでは会場で見ていつつも、終わったらそのまま会場を去っていたのだが、このときは、一緒に参加していた同じ中学出身の友人(高校は別)の同級生が、見事に敗者復活を遂げて2回戦に進出したので、そのチームを応援すべく、2回戦以降も会場に留まってクイズの様子を見ることができた。

残念ながら、その敗者復活チームは準決勝で敗退してしまったのだけど、準決勝が終わった後、敗退チームを最寄駅まで送り届けるためのスタッフの車に、私たちも図々しくも同乗させてもらい(今から思えば定員オーバーだったのだけど、まあ時効ということで。)、それが私にとっての「高校生クイズ」最後の思い出となった。

また、「YES・NOクイズ」と2回戦の間に会場をブラブラしていたら、この年からMCとなった福澤朗アナが休憩しているところに偶然遭遇し、声をかけたところ一緒に写真を撮っていただくことができた。1年生のときと2年生のときにも、当時MCだった福留功男アナにも一緒に写真を撮っていただいていたのだけど、その写真は、今でも大切に保存しているので、一生の思い出として大切にしていきたいと思います。

あれからもう28年か・・・。今振り返ると、3年生だった平成3年は、高校時代で最も充実していた年だったので、これからも何回か、その年の出来事について書くかもしれません。勿論、その出来事があった同じ日に。

なので、次に28年前を振り返る記事を書くとしたら、考えられるのは、8月17日(土)かな・・・と思ってたんだけど、そのことについては、12年前に既に書いちゃってました(こちら)。

ならばどうしよう、まだ書いていないネタで、今思い出してもスラスラと書けそうなこと・・・、ま、何かあったら書いてみたいと思います。

 

(「高校生クイズ」の思い出をざっと纏めた記事がありました。こちらを。)

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さらば平成~Vol.2~

2019-04-25 21:33:32 | 懐かしの思い出

昨日の続きということで。

 

【その3】平成8年4月~平成14年3月

平成8年4月、何とか社会人としてのスタートを切りました。

北海道内に勤務地のある国家公務員で、最初の勤務地は滝川市。

初めて親元を離れての寮生活で、仕事では、上司が大変厳しい方だったので、毎日あれやこれやと叱咤されてくじけそうになったこともあったけれど、いつだったか、先輩から「あいつ(私)もようやくしっかりしてきたって課長が言ってたぞ。」と言われ、そのときは、くじけずに頑張ってよかったと思いました。

滝川は、札幌からもそんなに離れていないので、月1程度で帰省し、高校や大学の同級生と会ったりしていたのだけど、北海道第二の都市である旭川にも近いので、旭川にも月1程度で行き、買い物や町歩きを楽しんだこともよい思い出。

特に、初任給で買った両親へのプレゼントは、滝川でも札幌でもなく旭川で買ったのを、今でもよく覚えています。

 

滝川での勤務は丸二年で、平成10年4月には、初めての異動で札幌へ。

札幌の勤務先へは、実家から地下鉄で通っていたのだけど、平成11年2月に、地下鉄東西線が延伸され、実家から徒歩5分の所に新駅ができ、思いっきり恩恵を受けることとなりました。

少し時系列を戻しますが、平成9年の春に、平成7年のデビュー当時からCDを買ってよく聞いていた岡本真夜さんのFCに入ったことがきっかけで、真夜さんの故郷である高知県に興味があったところ、平成10年5月、当時再放送されていた「太陽にほえろ!」の高知ロケ編を見たことで更に高知熱が高まり、夏休みを取ったこの年の8月末、初めての遠距離一人旅で高知県へ。

これを皮切りに、毎年GWと夏休みに全国旅行をすることとなりましたが、翌平成11年のGWに仙台へ行ったときは、到着直後に体調を崩して救急当番病院へ駆け込むという事態に見舞われてしまいました。

今となっては「そんなこともあったな」的な話だけど、本調子じゃない状態での四日間の観光は、正直辛かったです。

 

翌平成12年の春には、今に繋がる大きな出来事が。

勤務先近くのレンタルビデオ店(当時はまだまだビデオが主流)で、「ウルトラマン」のビデオを見つけ、久し振りに見てみたいと思って借りたのがきっかけで、子供の頃に見ていた特撮ヒーローものへの興味が再燃。やがて、スーパー戦隊シリーズでビデオレンタルがされていた「電子戦隊デンジマン」や「科学戦隊ダイナマン」などを見て一気に熱が高まり、当時放送されていた「未来戦隊タイムレンジャー」を見るように。

これが、今に至る「大きいお友達」としてのスタートで、翌平成13年には、インターネットの戦隊関連サイトに出入りするようになったことがきっかけで、ファン同士の交流を始めることとなりました。

平成13年の出来事としては、秋頃、今もって続いているペンフレンドとの文通が始まったことも欠かせません。

彼女の方が特撮情報誌のペンフレンド募集コーナーに投稿したことがきっかけだけど、よもやこのときは、二十年近く経ち、平成から新しい元号に変わるときになっても途切れることなく文通が続いているとは思いもしなかったことと思います。

仕事の方は、平成13年の4月に、札幌の隣町の当別町という町へ異動になりましたが、これに関連する話は、諸事情により割愛します。

 

【その4】平成14年4月~平成20年3月

平成14年4月(正確には3月末)、札幌を離れて、初めて「転勤」と言える遠距離の異動で釧路へ。

滝川のときは独身寮だったけど、今度は初の本格的な一人暮らし。

失敗や後悔も幾つかあって大変だったけど、今となっては貴重な経験だったと思います。

 

釧路には平成17年3月まで三年間住んだけど、この間のエピソードで特に印象的であり、かつ、避けて通れないものとなっているのが、平成15年の夏に、スーパー戦隊繋がりで、今に至る仲間達との交流が始まり、翌平成16年の7月には、「電子戦隊デンジマン」で、「へドリアン女王」を演じられた曽我町子さんより、今も名乗り続けている「ナナマガラー」という名前を授かったこと(その詳細はこちらを。)。

大変残念ながら、曽我町子さんは、これから約1年10ヶ月後に鬼籍に入られてしまいましたが、直々に授かったこの名前は、貴重な財産として、これからも大切にしていきたいと思います。

 

平成17年4月には、今度は帯広へ異動。

5月21日に、当時交流していた仲間達(何人かは今でも)に感化される形で、このブログを開設。

こちらもまた、よもや十年以上後になっても続けているとは・・・思わなかったことと思います。

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さらば平成~Vol.1~

2019-04-24 20:22:02 | 懐かしの思い出

「平成」も、今日を入れて残り一週間。

今週土曜日に帰省のため釧路を離れるけれど、戻ってくるときには、もう「令和」に変わっているんですね。

それだけでもなんだか感慨深い気がします。

というわけで、ということでもないのだけど、自分なりの「平成回顧録」を、区切りのよい年代ごとに書いていきたいと思います。

 

注:いつもは、和暦と西暦を併記して書いていますが、今回は、あえて和暦のみの表示とします。

 

【その1】平成元年1月~平成4年3月

 

「平成」がスタートしたとき、私は、高校受験を間近に控えた中学3年生。

何とか第一志望の高校に合格し、高校生活がスタート。

この時期に放送されていた「3年B組金八先生」第3シリーズの最終回スペシャルで、金八先生が卒業生たちに「君たちは、昭和最後の中学生。そして、平成最初の高校生。」という言葉を贈っていたのが大変印象に残り、自分もそうなんだということに、ちょっとした誇りを抱いたのを覚えています。

中学を卒業するまでは、札幌の東区に住んでいたのだけど、卒業と同時に、西区にある現在の自宅(実家)へ転居。

祖父母と一緒に、二世帯住宅で5人での生活がスタートしました。

 

高校時代の私は、これまでも何度か書いてきたけれど、日本テレビの「高校生クイズ」こと「全国高等学校クイズ選手権」の全国大会出場を目標に、クイズ中心と言っても過言ではない日々を送っていました。

1年生のとき、まずは同じチームを組むメンバーを探さねばと思い、早い時期に仲良くなった同級生に何人か声をかけ、自分と同じく「アメリカ横断ウルトラクイズ」に興味があって毎年よく見ていた者と、特にクイズに興味はなかったとのことだけど、私の話に興味を示してくれた者の三人でチームを結成。

三年間、「高校生クイズ」や「ウルトラクイズ」は勿論のこと、他のクイズ番組も録画して繰り返し見たり(「高校生クイズ」と「ウルトラクイズ」は、カセットテープにも録音して聞いたりも)、番組の公式問題集を繰り返し解いたりして本番に備えたにも関わらず、結果は、三年間全て、北海道大会の第1関門「YES・NOクイズ」で敗退という残念なものになってしまいましたが、それでも、こうして夢中になれるものを見つけて楽しめたことは大きな財産だったと思うし、クイズの勉強を通して身に付いたと思われる物の見方や考え方は、社会人になった今でも役に立っていると思うこともあるので、今となっては、本当に感謝の一言です。

 

クイズ以外のエピソードでは、2年生のときに、今に至る友人達との出会いがありました。

このうち、特に「親友」と呼べる二人は、同じクラスではなかったのだけど、2年生のときにできた新たな友人との繋がりを通して知り合い、二人のうち一人は、今は同じ職場(勤務地は違うけど)で、もう一人も、職場は違うけど同じ国家公務員ということで、今後、50を過ぎても還暦を迎えても、ずっと変わらず関係を保っていけるものと確信を持っています。

 

後は・・・そうだなあ・・・、これも何度か書いてきたけれど、1年生だった平成元年の秋にデビューしたアイドルグループ、CoCoのファンになったことも忘れられないエピソード。

もっとも、デビュー当時から夢中だったわけではなく、気になりだしたのは2年生の秋頃からで、3年生になる直前に初めてアルバムを買い、気が付いたらFCにも入会し、札幌で開催されたコンサートにも行くようになっていました。

この話は、次の【その2】へ続きます。

 

【その2】平成4年4月~平成8年3月

 

長いようで短かかった三年間も終わり、平成4年4月には大学生に。

一応第一志望の大学に合格したものの、本当は、センター試験の結果がよければ、某国公立大学(北海道大学ではありません)にチャレンジしたいと思っていたので、ちょっと複雑な気持ちもありましたが、それでも、自分で決めたことなので、後悔しないようにと思い、学生生活をスタートさせました。

 

1年生から2年生にかけての二年間は、平日の授業の後、大学内にある生活協同組合の売店で、レジのバイトをしていました。

色々大変なこともあったけど、慣れたら結構楽しみながらやれたので、今ではよい思い出です。

私の高校3年生の時の担任で、大学の先輩でもある先生が、私の入学と同時期に夜間の大学院に入っており、学内でバイトをしていたおかげで会うことができ、色々と話ができたのも印象的。

 

大学生活とは直接関係ないのだけど、1年生だった平成4年の12月に「太陽にほえろ!」のビデオシリーズのリリースがスタート。

2年生になった平成5年の4月に、先日亡くなられた萩原健一さんが演じられたマカロニ刑事の殉職編を購入したことがきっかけで、一気に「太陽にほえろ!」熱が高まり、何本も立て続けにビデオを購入し、暇さえあれば自室で、時には両親と居間で見るようになりました。

因みに、今でも自宅の自室にはビデオが残っており、暇なときに見ています。

 

3年生になった平成6年の印象的なエピソードは、所属していたゼミで、ゼミ長を務めたこと。

学級委員(学級代表)の経験は一応あったけど、ゼミ長ともなると、一学年上の先輩達も相手にしなければいけず、また、コンパをはじめとするイベントの企画運営もしなければいけないということで大変不安だったのだけど、よい仲間達に恵まれたこともあって、何とか一年間、大過なく務め、よい経験をすることができました。

そういえば、何ヶ月か前、帰省から釧路へ戻るため、自宅からバスターミナルまで地下鉄に乗っていたとき、その仲間達の一人と偶然バッタリ会い、短い時間だけど、互いに近況報告をすることができたということがありました。

書こうと思って忘れていたので、この機会に便乗してということで。

 

同じく平成6年の忘れられないエピソードは、高校時代からファンだった、CoCoの解散。

正式発表前から、何となく兆候っぽいものがあったので覚悟はしていたのだけど、いざそのときが来てみると、やっぱりショックだったなあ・・・。

あれから四半世紀。今でも、たまにメンバーのオフィシャルブログを見たりしていますが、私も数多くの思い出はずっと大切にしていくので、メンバーだった皆さんも、いつまでも変わることなく、元気で活躍してほしいです。

 

4年生になった平成7年。

3年生終了の時点で既に卒業単位を取得していたので、4年生の前半は、専ら公務員試験の勉強。

結果は、受けた試験にことごとく落ち、就職浪人も頭を過ぎったけれど、同級生達よりも遅れて11月に、ようやく今の職場から内定をゲット。

色々なことがあったけど、何とか就職を決めて、心おきなく(でもないかな?)卒業を迎えることができました。

 

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もう30年も経つとは・・・

2018-10-03 20:16:19 | 懐かしの思い出
今、北海道では、来年のセンバツ大会に繋がる秋の高校野球全道大会が開催されているのだが、昨日の試合で釧路の高校が勝利をおさめ、30年ぶりにベスト8に進出したということが、今朝の新聞に見出し入りで載っていた。
それ自体素晴らしいことだと思うけど、じっくり記事を読んで思わず驚いてしまったのが、「昭和63年(1988年)以来30年ぶり」という表記。
「えーっ、1988年って、もう30年前になっちゃうの!?」と思ってしまいました。

ということで、今日は、1988年を振り返る話。
この年私は中学3年生。ぶっちゃけ色々とあったクラスだったので、いい思い出もあれば、それと同じくらい思い出したくないこともあったのだが、そういうことも含めて、今となっては印象深い一年だったのかなと思える年だった。

前半の出来事としては、6月下旬に、東北へ行った修学旅行がよい思い出。
この年の3月に青函トンネルが開通したので、私達より一つ上の学年までは青函連絡船に乗っていたのが、私達の学年からは、青森まで列車での往復になった。
初日に秋田県の大滝温泉に泊まり、2日目は弘前~十和田湖と回って十和田湖泊、3日目は古牧温泉泊という行程だったのだけど、一番印象的だったのは弘前だったかな。
それまで、城らしい城は松前城しか見たことがなかったので、その大きさに圧倒されていたように記憶している。
修学旅行といえば、今はどうか知らないけど、夜は枕投げというのが定番になっていて、私達も、確か十和田湖に泊まったときにやった気がする。
そんなこともあって夜も遅くまで起きていて疲れが出たのか、戻ってきてから高熱が出てしまうというオマケがついてしまったが、全体的には楽しめたと思っています。





JR青森駅のホーム。
当時はまだエスカレーターはなかったけど、卒業アルバムに、私を含めたクラスの面々が、この階段を下りてくる写真が載っています。


次に夏休み。この頃から、高校受験に備えて夏期講習に通う人が増えだしたが、私は、仲の良かった同級生に誘われて、当時札幌駅北口にあった「代々木ゼミナール」の中学コースに通うようになった。
他のクラスの人も何人か来ていて、ここで新しい友人ができたりもして、勉強は大変だったものの楽しく過ごせたかなと思うけど、一番よく覚えているのは、やっぱりこれかな。
リンク記事にも書いているけれど、オーダーした物を私に間違えて食べられてしまった方、本当に申し訳ありませんでした。
代ゼミには、2学期に入ってからも、土曜日と日曜日のコースに通っていて、土曜日には、早く家を出て、午後3時に講座が始まるまでの間、札幌駅周辺で、今の趣味に繋がっているような町歩きを楽しんだのもよい思い出。

そうそう、夏休みといえば、私達の学年で、大変残念なお知らせが相次いでしまいました。
確か7月の末だったと思うのだけど、違うクラスの男子が交通事故で亡くなってしまい、それから数日後、同じく違うクラスの女子が白血病で亡くなってしまったのです。
このうち白血病で亡くなった女子は、1年生のとき同じクラスで、みんなで千羽鶴を折って、私も含めて数名で病院に持って行ったということがあったので、本当に残念だったのを覚えています・・・。

2学期に入り、みんな受験勉強に本腰を入れることになったけど、私は、高校に入ったら「高校生クイズ」に出場するということが頭の中の大部分を占めていたので、受験勉強もしつつ、録画した放送をビデオで見返したり、日本テレビから出版されていた毎回の本をじっくりと読んだりしたものだった。
その結果は、残念ながら三年間全て第一次予選で敗退というものだったけど、こういう中学時代のことも含めて、「高校生クイズ」は私の青春時代の大切な思い出となっています。
因みに、夏期講習のところで書いた、私を代ゼミの夏期講習に誘った同級生。彼もまた「高校生クイズ」や「アメリカ横断ウルトラクイズ」が好きで、翌年父親が埼玉県に転勤になったため、彼も埼玉県の高校に進学したのだけど、お互いに全国大会に進出して東京で再会するという約束を果たせなかったというのもまた、残念なことでした。
彼は今どうしているのかなあ・・・。引っ越さなかったら、道内でもトップクラスの進学校に進んでいたであろう実力があり、実際に進学したのも埼玉県内で上位に入る進学校だったそうなので、首都圏の偏差値の高い大学にでも進んだのかなあ・・・。

最後にもう一つ。この年の11月に、今の自宅が完成するという出来事がありました。
二世帯住宅で、当時私と両親の住んでいた地域からは結構離れていたので、先に祖父母が住み始め、私と両親は、私が中学を卒業するまでの間は、少しずつ荷物を運び、土曜日限定で何度か泊まりに行ってたのだけど、新築の家に住むのはこれが初めてだったので、「ああ、これからこの家に住むんだなあ」という実感を強く持ったのを覚えています。

とまあ、これ以外にも思い出は色々とあるのだけど、長くなるのでこの辺で。
そうか、もう30年も経つのかあ・・・。信じられないというのが正直な実感です。
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