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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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初の一人暮らしの話

2018-08-20 20:23:35 | 懐かしの思い出
13年ぶりに釧路に戻ってきてから、早いもので4ヶ月半。
今は、釧路駅から徒歩で45分くらい、車で10~15分くらいの、春採湖の側に住んでいる。
今の地域での生活にもすっかり慣れたけど、前回住んでいた三年間は、釧路駅から徒歩5分くらいのところに住んでいて、今でもそっちの方はよく行くので、歩いていて、無性にその頃のことが懐かしくなることがある。

その頃住んでいたのは、当時で築五年くらいのワンルームアパート。
29歳になる年に、初めての本格的な一人暮らし(社会人になって最初に配属された滝川での二年間は寮生活だった)ということもあって、色々と大変なことや、失敗、後悔もあったけど、それも含めて今ではよい思い出。
近くまで行ってみると、私の住んでいた部屋は埋まっているが、一部屋空きがあることが確認できる。
当時は、隣にあった建物の影響で陽当たりが今一つだったのだけど、今は取り壊されて更地になっていて、少なくとも、空いている一部屋は陽当たりがバッチリになっていると思われ、何だか羨ましいと思ったりも。

当時は、アパートのすぐ側に大型の商業施設があり、仕事帰りや休みの日に通いまくっていたのだけど、こちらも今は取り壊され、跡地には大型の遊戯施設の建設が進行中。
函館を離れるとき、以前釧路でも一緒だったことがあって、その遊戯が好きな同僚に、「来年それを動機に釧路希望するんでしょ」なんて冗談を言い残してきたのだけど、果たしてどうなることやら。
それはさておき、その商業施設で印象的なこととして思い浮かぶことが三つ。
まず一つは、1階にあった食品コーナーに「キムチ納豆」といって、その名のとおり、小さな袋にキムチが入っていて、それをタレのかわりに納豆に混ぜて食べるという物が置いてあったこと。
私はキムチは大好きなので、これは本当によく買って食べたものだった。
二つ目は、2003年(平成15年)9月に、釧路が震度6強に見舞われた「十勝沖地震」のこと。
震度6強が発生した当日ではなく数日後のことなのだが、仕事帰りに買い物をしていたら、結構強い余震が襲ってきて、食品コーナーの陳列棚から、ものすごい勢いで商品が落下してくる瞬間を目にしてしまった。
幸いそれぐらいで済み、けが人も出なかったようだけど、あのときは本当に、地震の怖さというものを思い知らされた気がした。
そして三つ目は、確か2004年(同16年)の秋頃だったと思うのだけど、1階に小さなCDショップがテナントとして入り、そこで、当時放送中だった「特捜戦隊デカレンジャー」のサントラや挿入歌集のCDを何枚か買ったこと。
小さいお子さんならいざ知らず、いい大人(当時31歳)がそういうものの常連になったということで、店主のおじさんにもすっかり顔を覚えられたようで、何枚目かを買うときに「毎度どうも」的なことを言われたのをよく覚えている。
値段は一緒なんだから、休みの日に郊外にある大型CD店で買ってもよかったのだけど、せっかく近くにあるというので、そこを利用させてもらっていました。

ざざざーっと殴り書きのように書いてしまったけど、何でこんなにも印象に残ることが多いかと考えると、やっぱり、初めての本格的な一人暮らしだったからということに尽きるような気がする。
13年経ち、同じ一人暮らしでも、独身ではなく単身赴任として戻ってきたが、今は今で色々と楽しいこともあるとしても、そんな当時の思い出というのは、一生色褪せることなく残って行くものなのだろうなあということを、最近実感するようになりました。
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私の二十歳は・・・

2018-02-12 16:28:58 | 懐かしの思い出
POPEYE最新号を読んで何かを始めよう! 「二十歳のとき、何をしていたか?」(ダ・ヴィンチニュース)


この雑誌は読んだことがないけれど、某所でこのコラムが盛り上がっていたので、引用させてもらう。

「二十歳のとき」というと、私は1993年。大学二年生だった。
私の通っていた大学は、二年生までが「教養課程」で、三年生からが「専門課程」だったのだけど、一年生のときに頑張れば、教養課程修了に必要な単位を取得してしまえるというシステムになっていて、私も一年生のときは、見事に一つも落とさずに単位を取れたので、二年生のときはそんなに科目も履修しておらず、学業面では割と暇というか、楽だった。
そのせいもあってか、一年生のときからやっていた大学生協のレジのバイトが、一年生のときは週三(月・火・木)だったのが、二年生になって平日全部になり、それはそれで大変だったけど、一年生のときは、閉店(20時)を過ぎても、例えばお金が合わないなど、やるべきことがあった場合は帰宅できなかったのが、二年生になってからは、当時の店長の一存(だったと思う)で、私達バイトは20時で強制退勤できるようになったので、そっちの面でも有難いと思ってやっていた。
そのバイトは二年生の終わりまで続け、今の仕事とは全然違うけれど、今から思えば、学んだことが今の仕事に活かされていると思える部分もあったので、貴重な経験だったと思う。

大学以外のトピックスも幾つかあるが、まず思い出すのは、この年に運転免許を取得したこと。
後期試験が終わり、春休みに入った2月頭から通い出したのだが、運動神経と反射神経の鈍さが災いしてなかなか順調に進まず、二段階修了の時点で補修を二回、三段階から仮免に至るときには四回も補修になってしまった。
それでも仮免は何とか一回でパスしたのだが、路上に出てからの四段階でも二回補修となり、ようやく卒検に辿り着いたと思ったら、何たることか一時停止不履行をやらかしてしまい失格。
その後、また二回の補習を経て再受検し、今度は合格。運転免許試験場での本試験も一回で合格し、ようやく免許を取得できたが、この時点で既に4月に入っており、3月末までに免許を取るという目標が達成できなかったのは残念だった。
約二か月半の自動車学校は、色々と大変だったけど、上手い具合にというか何というか、一年前に卒業した高校の同級生が、覚えているだけで七人も同時期に来ており、楽しくやれたという点では凄く良かったと思う。
また、本試験に合格した日は、試験場からそのままバイトに直行したのだが、実は当時、私の高校三年生のときの担任の先生(私の大学の先輩でもある)が夜間の大学院に通っていて、何度かバイト先で会っており、この日も会うことができたので、無事に免許を取得できたことを報告した記憶がある。


他にはそうだなあ、私は札幌の大学だったので、当時は実家から通っていたのだけど、この年の夏に、父親が釧路に単身赴任することになり、それから二年半、母親と二人暮らしをすることになった。
特段問題とか不便不満はなかったけれど、父親不在ということで、当時免許取得したての私が、慣れないハンドルさばきであちこち運転することになったのは、それはそれで大変だったかも。
それでも、普段は札幌市内だったのが、夏休みには、初の長距離運転で帯広まで走り、これで少し自信がついたのかなという気もする。
父親の話をすると、うちの職場でも、札幌から釧路に単身赴任している人では、中には頑張って毎週帰っている人もいるのだが、父親は、お金もかかるせいか、せいぜい月一だったと思う。
そうだよね、札幌~釧路だったら、やっぱり月一だよね・・・。


後は・・・、あっ、そうだ、大事なことを忘れてた!





大事過ぎるくらい大事なことを忘れてた。
1993年といえば、私が「太陽にほえろ!」にハマった年だった。
その経緯はこちらを。
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ずっと持ち歩いていたとは・・・

2018-01-10 21:24:56 | 懐かしの思い出
以前、「アメリカ横断ウルトラクイズ」に関してこんなことを書いていた。


実家のどこかに、「第13回アメリカ横断ウルトラクイズ」の第1問が掲載された読売新聞のコピーがあるかもしれないので探してみると書いたが、結果は、残念ながら、見つけることはできなかった。結構自信あったんですけどねえ・・・。


どういうことかというと、ウルトラクイズの国内第一次予選の第1問は、東京ドーム(1987年の第11回以前は後楽園球場)で、福留さんの「ニューヨークへ行きたいかぁぁぁ~!」の呼びかけのあとに発表されるのが通例であったのが、1989年の第13回大会は、何と何と、当日の読売新聞朝刊に第1問を掲載するという特別企画を実施していたのだった。
私の実家は読売新聞は取っていなかったけれど、ウルトラクイズファンとしては、ぜひともその切り抜きを手に入れたいと思い、後日、札幌の大きな図書館に行って縮刷版をコピーしていたのだが、それを三年前実家で探したところ、残念ながら見つけられなかったということを、リンク記事では書いていたのだった。





そりゃあねえ、幾ら実家を探してもないわけですよ。
さっき、部屋の片づけをしていて、高校生の時、「高校生クイズ」の予選会場で撮った写真を収めていたフォトアルバムに挟まっているのを見つけました。
恐らくだけど、十六年前に実家を出てから、釧路~帯広~函館~江差~函館と持ち歩いていたのだと思います。
無事に発見できたので、今後とも大切に保管していきますよ。

因みに、この第13回大会の東京ドーム予選では、第1回から途切れることなく連続で参加していた人を、皆勤賞として敗者復活させるという趣向があったのだけど、実はそのことも、同じ読売新聞の紙面で、ほんの隅っこに目立たなく告知されていました。
もしかしてそれもコピーしてなかったかなと思ったんだけど、残念ながらそれは見つけられませんでした。今からでも図書館でできないかな・・・。





年末年始に実家で撮ったもの。
この十六冊はこれまで実家にあったのだけど、次に引っ越す時は持ち歩こうと思っています。


最後に、話は変わって、昨日の記事で触れた人間ドックの話。
血圧は辛うじて上が100を超えており、肝機能の数値が若干基準値を超えていたものの、本当に「若干」で、要治療とか要再検査というレベルではなかったので、一安心。
また、体重の減により腹囲が昨年より10cmも減り、そのおかげか、昨年まで脂肪肝の所見があったのが、今回はなくなっていました。
これで安心して油断することなく、今後とも健康管理を徹底していかねばと思うけど、ちょっと体重が減り過ぎの感があるので、せめてこれ以上減らさないようにしようと思います。
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1987年に思いを

2017-08-08 19:23:45 | 懐かしの思い出
ご年配の方々はご存知の方も多いだろうけど、私と同世代や、私よりも下の世代は、どれだけの人が知っているだろうかという話。

仕事の移動中に聞いていたカーラジオの番組で、1987年にヒットした、尾形大作さんという歌手の「無錫旅情」という曲が流れてきて、「うわ~懐かしい~」と思った。
何ゆえそのように感傷に浸ったかというと、1987年という年は、懐かしの「ザ・ベストテン」をはじめとするテレビの音楽番組に夢中になり、特に「ザ・ベストテン」に関しては、毎週のランキングをノートに書き写して自分なりのコメントを付記したり、ラジカセでカセットテープに録音して繰り返し聞いたりということをするようになった年なので、この年のヒット曲は、ジャンルを問わず、ほぼ例外なしに思い入れが深いから。
ジャンルを問わずというのは本当にそのとおりで、この年のレコード大賞を受賞した、近藤真彦さんの「愚か者」然り、この年にハマったTM NETWORKの「GET WILD」やBOØWYの「MARIONETTE」然り、この年に鮮烈なデビューを飾った、光GENJIの「STAR LIGHT」「ガラスの十代」も然りなのだが、勿論演歌だって例外ではなく、「ザ・ベストテン」の年間ランキングでは1位だったのに、寸での所でレコード大賞を逃した、五木ひろしさんの「追憶」や、瀬川瑛子さんの大ヒット曲「命くれない」もこの年だったので、今でも懐かしいと感じる。

そんな中にあって、件の「無錫旅情」という曲は、ランキング番組で上位に入るほどのヒットではなかったものの、「ザ・ベストテン」では、長期間20位台をキープしていて、年末の年間ランキングでは、確か60位くらいに入っていたように記憶している。
また、当時北海道では夕方5時から放送されていた「ヤンヤン歌うスタジオ」という音楽番組があり、アイドル主流の完全な若者向け番組だったにも関わらず、尾形さんが出演されて「無錫旅情」を歌っていたのも覚えている。(歌だけでインタビューとかはなかったが)

他にも、徳永英明さんの「輝きながら・・・」、少年隊の「君だけに」、長渕剛さんの「ろくなもんじゃねえ」、以前書いた1986オメガトライブの「Miss Lonely Eyes」、24時間テレビのテーマソングだった菊池桃子さんの「Nile in blue」などなど、挙げれば本当にキリがないくらい、1987年のヒット曲は、懐かしく思い出深いものばかり。
これからも、耳にする機会がある度に、今回と同じような感傷に浸り続けることになるのだろうと思う。

最後にもう一つだけ演歌の話。
これも、ランキング番組で上位に入るほどのヒットではなかったのだが、この年にデビューした旭川出身の歌手、武山あきよさんのデビュー曲である「白鳥の歌が聴こえますか」という曲も、当時聴いてて、「いいなあ」と思った記憶がある。
どこかで流れないかな。久しぶりに聴いてみたい。
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ラジカセと私

2017-08-03 20:00:37 | 懐かしの思い出
昭和世代必見! 懐かしのラジカセ展(ニュースウォッチ9)


私も昭和世代なので、この特集は本当に興味深く感じられた。

私は、中学3年生になる時にミニコンポを買ってもらったので、所謂「ラジカセ」は、二台しか記憶にないのだけど、そのうち特に思い出深いのは、リンク記事で言うと上から四つ目の写真にあるような、赤いボディのダブルラジカセ。
それは、テレビ番組の音声を聴くことができる機能がついていて、それまでは、テレビとラジカセをコードで繋いだり、それより前になるとラジカセをテレビの前に置いたりしてテレビ番組を録音して聴いていたのが、この機能によってそれが必要なくなり、好きな番組を録音して聴きまくっていたものだった。
例えば戦隊やメタルヒーローの新番組が始まったら、そうやって録音したのを繰り返し聴いて主題歌を覚えていた(特に、「超新星フラッシュマン」は、これでもかというくらい再生した記憶がある)し、主題歌だけでなく、本編を繰り返し聴いて台詞を細かく覚えたことで、大人になってDVDを購入するようになってからも、「あ~、この台詞覚えてる!」とか、「この次のシーンの台詞はこうだったな」という具合に、自然と記憶が蘇ってきたものだった。
他にも、中学の頃は、クイズに夢中になり始めた時期だったので、「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「高校生クイズ」も、同じように繰り返し聴くことでイメージ作りをしたものだった。

最近、ラジカセ人気の再燃を受けて、大手家電量販店でも、カセットテープが多く陳列されるようになってきたが、中学の頃、私が一番よく買っていたカセットテープのブランドは「AXIA」だった。
それに対し、最近店舗で見られるのは、「SONY」だったり「maxell」だったりといったところが主流なのだが、「もしかして、AXIAのテープって、もう販売されていないのかな・・・」と思って調べたところ、残念ながら、答えはそのとおりなようで、販売元である富士フィルムのグループ会社が、社名変更や他社との合併を繰り返した後、2006年に、オーディオ関連市場からは姿を消してしまったとのこと。

うーん・・・、分かったけど、これはやっぱり寂しいな。
ラジカセ人気の再燃に乗っかる形で、期間限定でもいいから販売が再開されたりしないかな・・・。
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