自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「メディアと極東ロシア」講義録

2005年07月21日 | ⇒メディア時評
  金沢大学教養課程で講義を行った(7月19日)。テーマは「メディアと極東ロシア」。1992年1月にロシアのウラジオストクが対外開放され、テレビを中心とする日本のメディアが続々と極東ロシアに取材拠点を構えた。ところが、2000年を境に潮が引くように撤収を始めた。このメディアの動きは一体何だったのか、極東ロシアのこの15年の動きとリンクさせながら、その謎解きを行った。以下は90分の授業で講義の要約。テキストはちょっと長い…。

                 ◇

 初めに、日本のマスメディアが極東ロシアに眼を向けるにいたった経緯について、それまでの主な時代の流れについて、簡単におさらいをしておきましょう。1979年から始まります。この年、イスラム原理主義が勢力を伸ばしていたアフガニスタンでは、ソ連のコントロールのもとにあった政権があやしくなってきた。そこでソ連のブレジネフ書記長は政権を支えるために大規模な軍事介入に踏み切ります。いわゆる「アフガン侵攻」です。このアフガン侵攻は西側に衝撃を与え、翌年はモスクワでオリンピックがありましたが、日本を含む西側諸国のボイコットが相次ぎました。1981年にアメリカ大統領となったのは元映画俳優のロナルド・レーガンです。彼は「強いアメリカ」を標榜していました。そして、アフガンに駐留を続けるソ連を「悪の帝国」と名指しで非難したのです。いまのブッシュ大統領は「悪の枢軸」という表現を使っていますが、当時は「悪の帝国」が流行っていたわけです。そして、レーガンはソ連を意識して大規模な軍事拡大路線に走っていきます。その代表的なものが、「スター・ウォーズ計画」と呼ばれたSDI(戦略的防衛構想)です。

  ちなみに、ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」の初めての上映は1977年ですから、アフガン侵攻の2年前です。アメリカ人にとって、おそらくこのSDI計画は映画のように分かりやすかったでしょう。巨大な宇宙ステーションから発するレーザー光線でソ連のミサイルをたたくのだというイメージが真っ先に浮かんだと思います。この意味で、アメリカのペンタゴン、国防総省はこの映画を最大限に政治的に利用したといえるでしょう。

  こうした一連の流れがあった1980年代前半を「新・冷戦の時代」ともいいます。この新しい冷戦の構造が、逆にソ連とアメリカに対話を促すことになります。アメリカの過剰な軍事拡大路線は2兆ドルともいわれた国家財政の累積赤字を生み出すことになります。ここでレーガンは政策転換を余儀なくされ、ソ連との対話を再開することによって軍事費を抑制しようとします。ソ連もまた、アフガン侵攻で膨大な戦費が費やされ、国家財政が破綻寸前に追い込まれていました。こうして、1986年、お互いに困っていたアメリカとソ連の首脳がアイスランドのレイキャビックで会うことになります。アメリカはレーガン、ソ連はあのペレストロイカ(立て直し)を掲げたゴルバチョフでした。会談はうまくいかなかったのですが、両首脳がなんとか顔を合わせた。これだけでも随分と歴史的なこととなりました。そして、1989年11月、東西ドイツのあの「ベルリンの壁」が崩壊します。翌月の12月、地中海のマルタ島で、当時のアメリカのブッシュ、いまのブッシュ大統領のお父さんですが、と、ソ連のゴルバチョフが会談して、「東西の冷戦の終結」を宣言するわけです。このマルタ宣言では、長らく滞っていた戦略兵器削減条約(START)の早期解決が合意され、GATT、いわゆる関税貿易一般協定をはじめとする西側の経済システムにソ連を組み入れることも話し合われました。過去の軍備拡大のツケの清算だけでなく、ソ連の未来まで決めてしまった、そんな意義ある会談だったわけです。

  ゴルバチョフはこのマルタ会談の翌年1990年にノーベル平和賞をもらいます。おそらく有頂天だったと思いますが、それもつかの間、彼の人生とソ連という国、そして歴史が大きく変わります。1991年8月19日、ソ連の大統領となっていたゴルバチョフですが、改革路線に反対して昔ながらの共産党支配の復権をもくろむクーデターが身内から起こります。クリミア半島の別荘にいたゴルバチョフを、副大統領ヤナーエフ、首相パブロフ、国防のヤゾフら側近がゴルバチョフを軟禁して、非常事態国家委員会を宣言したのです。

  これに対し、この年の6月にロシアの大統領に当選していたエリツィンがクーデターへの抵抗を市民に呼びかけます。ロシアの共和国庁舎にたてこもるわけです。そして、クーデターを起こした側は強硬手段をとることができずに、2日後の21日にはあっけなくクーデターは失敗します。この事件をきっかけに、ゴルバチョフの時代が終わり、エリツィンの時代の幕開けやってきます。まず、エリツィンによって、ロシア共産党禁止の措置がとられ、ついで、ゴルバチョフがソ連共産党中央委員会の解散を勧告するわけです。これは、事実上の共産党の解体宣言となります。そして、その年の12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシーの3つの共和国の首脳がベラルーシーのブレストで会談し、ソ連が国際法上、その存在を停止したことを確認するわけです。つまり、ソビエト連邦が消滅し、現代史から消えた瞬間でした。

  ここからが本題です。激動したソ連の中央での動きをウオッチし、極東ロシアへの進出のタイミングをうかがっていたのが日本のマスメディアでした。ソ連が消滅した翌月、つまり1992年1月にウラジオストクが対外開放されます。では、それまではどうだったのかと言いますと、ウラジオストクにはロシア太平洋艦隊の司令部があり、外国人の立ち入りが厳しく制限されていた、いわゆる閉鎖都市だったわけです。隣国であり、地理的に日本に近かった極東ロシアですが、実はベールに包まれていたのです。

  その「ニュースの未開の地」に真っ先に乗り込んだのは日本のメディアではNHKでした。ウラジオストクの開放から4ヵ月後の5月には支局を開設しています。一番乗りというのは、幸運にも恵まれるもので、NHKが支局を開設した途端に、ロシア太平洋艦隊の弾薬庫が爆発するという大きな事故がありました。これをNHKは大々的に流しました。もちろん現地にもロシアのテレビ局はありますが、もし、対外開放されていなければわれわれ日本人が知ることができなかったニュースだったのかもしれません。

  この事故をもうちょっと詳しく説明しますと、ウラジオストクにある弾薬庫が爆発事故を起こしたというニュースはその後3日間も日本を始め、世界を駆け巡りました。極東ロシアの弾薬庫の爆発がなぜ世界的なニュースになったかというと、実は弾薬庫に保管されているであろう化学兵器に爆発が及んだ場合にはとんでもない事態になると予測されたからです。幸いにしてそうはならなかったものの、いくつかの問題を日本に問いかけることになりました。一つには、ロシアが遠い対岸の国ではなく、わずか800㌔の距離、空を飛んで2時間足らずで手が届く隣国であることに日本人がリアリティーを持って気づかされたこと。二番目に、ソビエトの崩壊と同時にロシア極東軍の士気の低下が他人事ではなく、日本の日常も脅かしかねないことが、「環日本海」をめぐる草の根の交流や、ビジネスチャンスの到来という明るい側面が大いに盛り上がっていた時だけに、冷戦時代には見えなかったいわゆる「影の部分」が見事に見えるようになったわけです。われわれは今後、この国とどのように付き合えばよいのかということを、われわれのお茶の間にも問題提起をした。あえて、言うならば、そのようなことを具体的に浮かび上がらせたのがこの爆発事故だったのです。

  では、実際に極東ロシアにどのようなマスメディアが拠点を構えたのでしょうか。テレビから行きます。一番早かったのが先ほどのNHKです。92年5月にウラジオストクに開設しています。次いでテレビ朝日系列のネットワークである北海道テレビ放送がちょっと遅れはしたものの、民間放送では初めてその年の7月にウラジオストクに開設しました。TBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに開設しましたが、95年にウラジオストクに支局を移転しています。移転した理由はあとで説明します。そして、日本テレビ系列のテレビ新潟が94年3月にウラジオストクに支局を開設しています。これだと、日本の民放の4大ネットワークの中でフジ系列がないのですが、ここはフジ系列の北海道文化放送が91年にモスクワに特派員を派遣し、ここから随時、極東ロシアの取材をカバーするという体制を組んでいます。

  今度は新聞ですが、全国紙や通信社で極東ロシアに支局を置いた新聞社はありませんでした。北海道新聞は「ブロック紙」と呼びますが、ユジノサハリンスクとハバロフスクに特派員を置きました。そして、中日新聞北陸本社は現地の通信員と契約し、定期的に記事を送ってもらっています。「います」というのは現在も続いているからです。

  このように見ますと、テレビが新聞より積極的に極東ロシアの取材をしているようにも思えます。これは新聞が消極的、あるいは怠けているということではないのです。実は、メディアの手法の違いです。簡単に言いますと、新聞は活字ですから、映像はなくてもよい。ロシア内部での第一級の情報がほしい、権力闘争にかかわる内部情報がほしい。すると限りなく権力機構に近づこうとします。ですから、権力と情報が集中するモスクワに陣取っていた方が便利となるわけです。そして極東ロシアはその都度、モスクワからカバーすればよいというふうになります。これが、全国紙や通信社のスタンスだったわけです。ただし、同じ新聞でも北海道新聞は極東ロシアは北海道の交流圏であり経済圏であるとの発想で、ユジノサハリンスクとハバロフスクの2ヶ所に特派員を置きました。北海道新聞、現地では「道新」と呼びますが、北海道とロシアは同じ地平線上にある、そんな取材の視点があるのではないでしょうか。

  一方、テレビ局はまず映像がほしい、それもスクープ映像がほしい、これまでどのテレビ局も紹介したことがない人々の暮らしや街の様子をテレビカメラで撮影したい、との欲求があります。しかし、モスクワからウラジオへは9000㌔も離れています。いざ何か事件が発生しても映像が間に合わなくなる可能性がある。そこで、極東ロシアに常駐のカメラマンを置いておこうと発想するわけです。もちろん、系列テレビ局のキー局がそれぞれモスクワに局を構えていますので、ある意味で、地域的にバランスのとれた適正な配置といえます。同じマスメディアでも、活字の新聞と映像のテレビでは、発想にこれだけの違いがあります。その考え方がくっきりと浮かび上がったのが極東ロシアにおける支局の配置でもあるわけです。

  もうひとつ注目したいのは、それでは、極東ロシアにはハバロフスクという都市もあるのに、なぜウラジオストクにテレビ局が支局を設置することにこだわったかというと、実は理由があります。先に紹介したTBS系列の北海道放送は当初、93年にユジノサハリンスクに支局を置いて、2年後の95年にウラジオストクに支局を移しています。その理由は、当時の日本の国際通信会社であるKDDなどが出資して、「ボストーク・テレコム」という会社をウラジオストクにつくります。実際のサービスの運用開始は93年の暮れになります。このおかげで、日本と極東ロシア間の国際電話だけではなく、取材したテレビの映像を通信衛星で伝送することが可能になったのです。

  それでは、極東ロシアではどのようなニュースが発信されたのでしょうか。ウラジオストクは軍隊の規律が緩んでいて、先ほども紹介した爆発事故などさまざま事件が起きていました。その象徴的な出来事が、軍による弾薬の横流しです。犯罪組織だけでなく市民の生活にまで影響が出ていました。たとえば、ナホトカの市場では子供が持っていた手榴弾が爆発して6人が死亡したり、ウラジオストクのバスターミナルで夫婦喧嘩に爆弾が使われたりと、横流しされた爆弾がらみの事件や事故が多く発生しました。

  また、インフレも凄まじいものがありました。91年、モスクワの地下鉄の運賃は5カペイカ、つまり、100分の5ルーブルでした。ところが、その5年後の96年になると1000ルーブル、1500ルーブルと数万倍にもなりました。また、インフレで経済社会が混乱すると、マフィアという犯罪集団がウラジオストクをはじめ各地で幅を利かせ始めます。当時、ウラジオオストクだけで、500ものマフィア集団があり、なかでも有名なのがロシア人による「セントラル」や、中国人系による「キタイスカヤ」といった5つの大きなグループが覇権を争っていました。ちなみに、北海道テレビが支局で使っていたのはトヨタのランドクルーザーですが、当時、地元のマフィアとも同じランドクルーザーを使っていたことから、取材のスタッフは必ず車の床下を覗き込んで爆弾が仕掛けられてないかチェックしたそうです。

  2000年、プーチンが大統領になって、ロシア全体の政治と経済が安定し、極東ロシアの治安や経済も徐々に回復してきます。すると、かつて、「ニュースの未開の地」として日本のマスメディアが一斉に乗り込んだ極東ロシアも、存在感が薄れてきます。すると、こんどは極東ロシアからのメディアの撤退が始まります。2000年4月には日本テレビ系のテレビ新潟、続いて同じく6月にはテレビ朝日系の北海道テレビ、そして、TBS系の北海道放送も翌年の9月にウラジオストクから撤退します。北海道新聞もユジノサハリンスクに取材拠点を一本化します。テレビ局で拠点を構えているのはNHKだけとなりました。

   こう見てみますと、日本のメディアはご都合主義だなと、政治や経済の混乱がなければ、さっさと撤退か、とそう思われる人も多いと思います。しかし、実は、日本のTVメディア側にも大きな問題があったのです。それは、ロシアではなく日本国内の経済的な混乱とでもいいましょうか、足元に火がついた状態になります。それは、97年暮れごろから顕在化した、山一證券や北海道拓殖銀行の破綻に見られる金融不安です。しかし、この時点では、まだ日本のマスメディアはまだ強気でした。金融不安があったにせよ、携帯電話やインターネット関連のあたらしい産業が好調で、テレビ業界の売上は落ちていなかったからです。ところが、翌年98年の夏ごろに、為替相場が急激に円安にぶれてきます。95年の夏には1㌦80円台だった為替相場が98年には140円台にまで円安になってきました。

  私はそのころローカル民放の報道制作部長として、系列全体のニュース基金を検討する立場にありました。その時の論議を振り返ってみますと、ニュース基金が運用難に陥ったのは、ニュース基金の支出の実に47%、半分ぐらいがドル建ての支払いになっていて、円安にぶれた為替相場の影響をまともに受けていました。これは他の系列局のニュース基金も同じ事情でした。そこで、次に出てきた論議が、円安は当面続くだろう、ニュース基金を防衛するために、ドル建て支払いと直結する海外支局のリストラをしようという論議に展開していったのです。そして、2001年までにはシドニー、ベルリン、ウィーン、香港、そしてウラジオストクといった海外支局が次々と統廃合されました。

  では、なぜ、ウラジオストクがリストラの候補上げられたかというと、先ども言いました、ロシア全体が政治的にも経済的にも安定してきた、テロ事件や事故は相変わらず多いものの、弾薬の大爆発といった政情不安に結びつく混乱はなくなった、普通の国になってきたというのがその理由だったと思います。そして、ちょうどその時期とあわせたように、日本における金融不安、円安または日本はこの先どうなるのかという、ニュース全体が内向きの傾向になってきた、そんなタイミングで極東ロシアからメディアが引いていったのではないかと思います。

  私は今回のテーマの冒頭で、極東ロシアにおける日本のマスメディアの動向を探ることによって、極東ロシアと日本のことがよく分かるといいましたが、いま考えてみますと、ひょっとしてテーマは逆だったのかもしれません。「極東ロシアから見えた日本のメディア」と表現してもよかったのかもしれません。

※ 授業後半は、元北海道テレビ放送ウラジオストク支局長の中添眞氏を交えてトーク

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