自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆能登の歴史を語る「上時国家文書」 倒壊家屋から救出

2024年04月23日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登には平家伝説が数々ある。能登半島の尖端、珠洲市馬緤(まつなぎ)集落に伝わる言い伝えだ。平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、平時忠が能登に流刑となった。時忠は平清盛の後妻である時子の弟であったものの、いわゆる武士ではなく、「筆取り武士」と呼ばれた文官だったこともあり死罪は免れた。

  その時忠を源義経が能登に訪ねて来た。兄・頼朝と仲違いし追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中に加賀の安宅の関をくぐり、そして能登に流された時忠のもとに来た。一説に、義経の側室だった蕨姫は時忠の娘で父親とともに能登に流されていたので、義経は蕨姫に会いに来た。義経の一行がしばらく滞在するため、この地に馬を繋いだので、「マツナギ」という地名になり、その後「馬緤」の漢字が当てられた。

  伝説の続き。その時忠の子孫が輪島市町野町の時国家とされる。2軒ある時国家のうち丘の上にある「上時国家」は去年8月まで一般公開されていたので、これまで何度か訪ねた。入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。国の重要文化財指定(2003年)の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。

  時国家を学術調査したのが歴史学者の網野善彦氏(1928-2004)だった。1980年代から古文書調査を行い、時国家が北前船の交易ほか山林経営、製炭、金融などを手掛ける多角的企業家だったことが分かった。さらに、時国家が船を用立てるために、いわゆる土地を持たない「水吞百姓」の身分の業者から金を借りていたことから、「百姓」という言葉は農民と理解されてきたが、むしろ多様な職を有する民を指す言葉ではなかったかと指摘している(網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』)。

  網野氏が読み解いた膨大な上時国家文書8千点余(石川県指定文化財)が、元日の地震で家屋の下敷きになった。厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊した。メディア各社の報道によると、今月20日に国立文化財機構文化財防災センターのスタッフ、石川県教委や輪島市教委の職員、大学教授ら20人が「文化財レスキュー」活動を行い、主屋と離れを結ぶ廊下に保管されていた古文書を運び出した。一部に水ぬれやカビが見られ、現地で修復作業が施されるようだ。

  古文書は地域の歴史を語る貴重な史料でもある。被災家屋の解体が本格化するのを前に、そして梅雨の季節を前に懸命な文化財の救出活動が行われている。

(※写真・上は、上時国家の賓客をもてなす「大納言の間」=2010年8月撮影。写真・下は、能登半島地震で倒壊した上時国家の主屋=2月22日撮影)

⇒23日(火)夜・金沢の天気   くもり


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★被災地や過疎地でドローン活... | トップ | ★大きな「九六の家」から仮設住... »

コメントを投稿

⇒ドキュメント回廊」カテゴリの最新記事