自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「Iターンの島」~3

2012年06月10日 | ⇒トピック往来
 日本海の島根半島沖合約60kmに浮かぶ隠岐諸島の四つの有人島の一つ、中ノ島を「海士町」といい1島1町の小さな島(面積33k㎡、周囲89km)である。本土からの交通は、高速船かフェリーで2~3時間かかり、冬場は季節風が強く吹き荒れ、欠航して孤島化することも珍しくなく、離島のハンデキャップは大きい。戦後間もなくの昭和25年(1950)ごろの統計では約7000人近くいた人口も平成22年10月の国勢調査では2374人に減少し、世帯数は1052となった。65歳以上の高齢化率38%となっている。さらに、国の離島振興法などの政策によって公共事業が行われ、道路や漁港などの社会資本は整備されたものの、その体力以上に地方債が膨らみ、ピーク時の平成13年(2001)度には101億円に上った。そのような過疎に島に転機が訪れたのは平成14年5月の町長選挙だった。

         過疎の島の「選択」と町長の「決断」

 それまでの「地縁血縁の選挙」だった島の町長選挙に、町議2期をつとめた山内道雄氏が大胆な行政改革を訴えて当選した。山内氏は元NTT社員。電電公社からNTTに変革したときの経験を活かし、「役場は住民のためのサービス総合株式社である」と町職員の意識改革を迫った。意識を変えるために年功序列を廃止して適材適所、組織を現場主義へと再編していく。その延長線上に「Iターンの島」がある。視察3日目(6月10日)、その山内町長が「離島発!地域再生への挑戦~最後尾から最先端へ~」と題して講演した。74歳、話す言葉が理詰めで聞きやすい。以下、講演を要約する。

                  ◇

 平成の「大合併の嵐」が吹く中で、隠岐の島々の合併話が持ち上がったが、そのメリットが活かされないと判断し、単独町制を決断した。「自分たちの島は自ら守り、島の未来は自ら築く」という住民や職員の地域への気概と誇りが、自立への道だと思ったからだ。それは自治の原点でもある。、その直後に小泉内閣の「三位一体の改革」があり、地方交付税の大幅な削減は、島の存続さえも危うくした。当時のシュミレーションでは平成20年に「財政再建団体」への転落が予想された。そこで住民代表と議会、行政が町の生き残りをかけて平成16年3月に「海士町自立促進プラン」を策定した。そのとき、自ら身を削らないと改革は支持されないと思い、自ら給与50%のカットを申し出た。すると、助役、教育長、議会、管理職に始まり、職員組合からも給与の自主減額を申し出て、私は町長室で男泣きした。カット分の一部は具体的に見える施策に活かそうと「すこやか子育て支援条例」をつくり、第3子50万円、4子以上100万円の祝い金やIターン者が出産のため里帰りする旅費など充てている。

 93人(平成10年度)いた町職員を68人(同19年度)に、、時間外手当の縮減、組織のスリム化とフラット化(連携の強化)で現場主義、課長・係長の推薦制と年功序列の廃止、収入役ポストの廃止、町長公用車の廃車、経営会議の設置と定例化(毎週木曜17時15分から)と打てる手は打った。すると、住民の目も変わった。老人クラブからバス料金の値上げや補助金の返上や、ちょっとした清掃や施設の修繕などは住民が「役場も頑張っているから」と自分たちでするケースが増えてきた。町民と危機感の共有化できるようなった。こうした積み重ねで、101億円あった地方債は現在70億円近くまで減り、財政事情は確実に改善に向かっている。

 身を削りながらも、「攻め」の戦略に打って出た。攻めとは地域資源を活かし、島に産業を創り、雇用の場を増やし、外貨を獲得して、島を活性化することである。成長戦略を島の外に求めることにした。そのため、部局の職員を減らし、その分を産業振興と定住対策のセクションに重点シフトすることにし、攻めの実行部隊となる産業3課を設置した。観光と定住対策を担う「交流促進課」、第1次産業の振興を図る「地産地商課」、新たな産業の創出を考える「産業創出課」である。「ヒントは常に現場にある、現場でしか知れないことを見落とすな」と職員に言っているがそれを実行した。この3課を町の玄関口である菱浦港のターミナル「キンニャモニャセンター」に置いた。港は情報発信基地でもあり、アンテナショップだ。

 その産業振興のキーワードを「海」「潮風」「塩」の三本柱にして、地域資源を有効活用しする。平成16年の再生計画で「海士デパートメントストア・プラン」をつくり、島全体をデパートに見立て、島の味覚や魅力を発信する島のブランド化を全面に打ち出した。そのメーンターゲットはハードルが高く厳しい評価が下される東京で認められなければブランドにならないという考えから、最初から東京に置いた。東京で認められなけらばブランドではない、ブランドとしての発信力もないと考えたからだ。(次回に続く)

⇒10日(日)夜・隠岐海士町の天気  はれ

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