チェーンメールが飛び交っている。昨日もこのようなメールが知人より届いた。「■お願い■ 関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日(3月13日)18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく、中部電力や関西電力からも送電を行うらしいです。一人が少しの節電をするだけで、関東の方の携帯が充電を出来て情報を得たり病院にいる方が医療機器を使えるようになり救われます!こんなことくらいしか関西に住む私たちには、祈る以外の行動として出来ないです!このメールをできるだけ多くの方に送信をお願い致します!1人1人が意識し、電気の使用を少し控えるだけで、助かる命があるかも知れません。ご協力お願い致します。」
この巨大地震の被害は甚大であり、あるい意味では国難でもある。知人は善意でこのメールを知り合いに届けた。このメールを疑問に思った知人がさらに、次のようなメールを受け取った知人らに回した。
「件名の趣旨、大変理解できますが、周波数が違うのに、その様なことが可能なのかと疑問に思い、関西電力のHPを見ました。以下に転記致します。○このたびの東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。○今回の震災復旧に際して、当社名でお客さまに節電に関するチェーンメールを送ることはございませんので、ご注意ください。○当社はお客さまへの安定供給を維持した上で、11日夕方から、電力各社と協力しながら最大限可能な範囲で電気の融通を行っております。○平素より皆さまには省エネ・節電にご協力を頂いておりますが、今のところ、お客さまに更なる特別な節電をお願いするような状況にはございません。」と。
そして疑問に思った知人はさらに以下の注釈をつけた。「[注]東日本と西日本では、電気の周波数が違います。従って、関西電力の電気を東日本に送るには、周波数を変換しないといけません。この周波数変換施設の容量には上限があります。」と。感情論ではなく冷静にメール対応することで、チェーンメールの知人らに諭した。チェーンメールを最初に送ってきた知人から再び、「先日お送りしたメールですが、混乱を招くような内容を発信してしまったこと、軽率だったと反省しております。以後、正確な情報か見極めたうえで行動したいと思います。」とお詫びのメールが流れてきた。
メール情報が飛び交うのは、それだけ人々の心が揺れているからだ。このような場合、われわれはどう心の動揺を抑えたらよいのか。一つのエピソードがある。1868(慶応4)年5月、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始した。慶応義塾を創設した福沢諭吉はこのころ、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾を開講(のちに慶応義塾)していた。福沢は、噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義した。
挿絵は、戦火を眺め動揺する塾生を背に粛然と講義を行う福沢の姿である。師が動揺しては塾生も動揺する。自らの使命を遂行することが肝要と自信に言い聞かせていたのだろう。
※写真は、2009年に開催された福沢諭吉展で市販された挿絵より。
⇒14日(月)朝・金沢の天気 はれ
この巨大地震の被害は甚大であり、あるい意味では国難でもある。知人は善意でこのメールを知り合いに届けた。このメールを疑問に思った知人がさらに、次のようなメールを受け取った知人らに回した。
「件名の趣旨、大変理解できますが、周波数が違うのに、その様なことが可能なのかと疑問に思い、関西電力のHPを見ました。以下に転記致します。○このたびの東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。○今回の震災復旧に際して、当社名でお客さまに節電に関するチェーンメールを送ることはございませんので、ご注意ください。○当社はお客さまへの安定供給を維持した上で、11日夕方から、電力各社と協力しながら最大限可能な範囲で電気の融通を行っております。○平素より皆さまには省エネ・節電にご協力を頂いておりますが、今のところ、お客さまに更なる特別な節電をお願いするような状況にはございません。」と。
そして疑問に思った知人はさらに以下の注釈をつけた。「[注]東日本と西日本では、電気の周波数が違います。従って、関西電力の電気を東日本に送るには、周波数を変換しないといけません。この周波数変換施設の容量には上限があります。」と。感情論ではなく冷静にメール対応することで、チェーンメールの知人らに諭した。チェーンメールを最初に送ってきた知人から再び、「先日お送りしたメールですが、混乱を招くような内容を発信してしまったこと、軽率だったと反省しております。以後、正確な情報か見極めたうえで行動したいと思います。」とお詫びのメールが流れてきた。
メール情報が飛び交うのは、それだけ人々の心が揺れているからだ。このような場合、われわれはどう心の動揺を抑えたらよいのか。一つのエピソードがある。1868(慶応4)年5月、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始した。慶応義塾を創設した福沢諭吉はこのころ、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾を開講(のちに慶応義塾)していた。福沢は、噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義した。
挿絵は、戦火を眺め動揺する塾生を背に粛然と講義を行う福沢の姿である。師が動揺しては塾生も動揺する。自らの使命を遂行することが肝要と自信に言い聞かせていたのだろう。
※写真は、2009年に開催された福沢諭吉展で市販された挿絵より。
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