先月28日の周辺踏査に引き続き、今月18日も金沢大学周囲の古道を歩いた。その目的は歴史的に由来のある地名を記録し、近い将来「歴史散歩」のようなハイキングコースが組めないかと、「角間の里山自然学校」の仲間数人と検討しているのだ。この日は、キャンパス東側に当たる高地へと向かった。
それは戸室(とむろ)の方面に当たる。この地区は昔から「戸室石」を産出してきた。赤戸室あるいは青戸室などといまでも重宝されているのは磨けば光る安山岩で加工がしやすいからである。それより何より10数万個ともいわれる金沢城の石垣に利用されたことから有名になった。戸室から金沢城へと石を運んだ道沿いには「石引(いしびき)町」などの地名が今も残る。
今回の踏査でもかつての石切場の跡らしい場所がいくつかあり、いまでも石がむき出しになっている=写真・上=。案内役で地元の歴史に詳しい市民ボランティアのM氏が立ち止まり、「ここがダゴザカという場所です」と説明を始めた。
地元の言葉ではダゴザカ、漢字では「団子坂」と書く。M氏によると、城の石垣を運ぶ際の最初の難所がこの坂=写真・中=だった。傾斜は20度ほどだろうか、それが200㍍ほど続く。この坂を上り切るとあとは下りになる。加賀藩三代藩主の前田利常(1594- 1658年)は石切現場を見回った後、この坂で運搬の労役者たちにダンゴを振舞って労をねきらったとのいわれからダゴザカと名が付いた。利常は江戸の殿中で鼻毛をのばし、滑稽(こっけい)を装って「謀反の意なし」を幕府にアピールし、加賀百万石の基礎を築いた人である。現場感覚のある苦労人だったのかもしれない。
ダゴザカから北にコースを回り込んで、今度は「蓮如の力水」という池=写真・下=を案内してもらった。浄土真宗をひらいた親鸞(しんらん)は「弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、ただ念仏の輪の中で布教したといわれる。後世の蓮如(1415-99年)は生涯に5人の妻を迎え、13男14女をもうけた精力家だ。教団としての体裁を整えたオーガナイザーでもある。その蓮如が北陸布教で使った道というのが、越中から加賀へと通じるブッキョウドウ(仏教道)である。尾根伝いの道は幅1㍍。夕方でも明るく、雪解けが早い。蓮如の力水はブッキョウドウのそばにある周囲50㍍ほどの泉である。山頂付近にありながらいまでもこんこんと水が湧き出ていて周囲の下の田を潤している。
力水というから、「目的地まであと一息」と一服した場所なのかとも想像する。この一帯は金沢大学の移転計画が持ち上がった20年ほど前、道路のルートになりかけたものの紆余曲折の末に開発は免れた。そして蓮如の力水は残った。アベマキ、コナラの林に囲まれた泉である。蓮如とその弟子たちが喉を潤す姿を想像できただけでも楽しく、この散歩コースに参加した甲斐があった。
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