空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

「押し付けられた」ものは宝物であり、武器であった。

2008年09月14日 09時13分38秒 | 思考試行
今日は暑い。さすがに、真っ盛りの暑さとは違うけれども、額に汗が流れているのがわかる。それで、不快というわけではなく、周辺に「寒さ」の気配のある暑さである。

エコキュウトウをいれてから、考え方が変わった。いつでも、シャワーをあびることができ、風呂にいつでも入れるというのは、温泉に行った時だけだったのが、家でいつでもということになったのである。人生の質の向上を目指そうという気分が湧き上がってきた。いま、豊かな気分である。

そのために要した工事は、わずか一日である。最新の技術で夜間電力を使い、化学的技術を使っての給湯方式である。これだけの装置をいれながら、全体の経費が節減でき、CO2の削減にもなるというのである。

業者の人は、連日工事らしい。やはり、いいものには、「大衆」は反応する。もっとも、指導者がまちがうと、大衆も騙されるから、指導者がおかしくても、大衆がかしこくあればこの指導者を外せばいいわけで、大衆自体は、自らを高め、賢くあれば自ら墓穴をほることはないのである。

いいものには、支持を与えて、反応する。これが賢い大衆の反応というものである。そうあって欲しい。

我々は、政治家の動きをよく見ておかないといけない。アベクンなど、あのヤサシゲナ顔で、憲法9条の改悪を目指して、本気で戦争のできる国を実現しようとしたのである。そして、議員諸侯は、基本的にそういう考え方なのである。一部そのための立法措置に着手したのである。コイズミ劇場で、憲法とは関係ない話で掠め取った議席のコウカを最大限利用しようとしたのである。アベクンだけではなく、何とか、このセクト「日本国」を戦争のできる世界からナメラレナイ国にしたいのである。

ナメラレテモいいではないか。ナメラレナガラ、その本質的な役割を、平和のための、役割を果たしていくことのほうが重要だと思う。

戦争を平気でやることが、「世界の常識」のように思っているフシがある。日本のこの「押し付けられた大事な武器」を、放棄しようとするのである。

先の大戦で「押し付けられた」というが、これは、人類の将来を切り開く、重要な武器でありそれは、日本だけのものでもない。全地球上の生きとしいけるもののためのものでもある。

庶民の底力で、世の中を変える。

2008年09月13日 11時27分42秒 | 思考試行
国民本位とみんな言う。だが、実態はどうだろうか。弱者への押し付け的な制度の現状。事件の起こるたびに、為政者のホンネが暴露される。

消費者庁ができても、なんの動きもない。事件は起こっているというのに、誰もなんの対処もしていない。

政府も体をなしていない。政治が本気であれば、やるべきことはたくさんある。何時の日かそれは実現するだろうか。

国際情勢の動きも、真に人間のためのものになっているのか。セクトの利益、個人的利益の追求が当たり前になっている。本筋を向いていない。

環境問題などにそれは、端的に現れてきている。自然は正直なのである。作用と反作用である。

人間社会はいつまで続けることができるだろうか。

本当にそんなことを、心配しなければならないような事態になってきた。

いい加減に気がついて、問題が次々と解決できるようなそんな世の中にしたいものだと思う。一人ひとりがそう思うならば、それは、直ちに可能となる。

とりわけ、政治家や財界、力をもっている連中の考え方をかえるのは、庶民の成長しかない。本当の底力をみせつけてやらねば彼らは変わることはない。

死角があった。

2008年09月12日 17時03分05秒 | 思考試行
本日、エコキュウトーが入った。けっこう大きな装置である。これで、電気代が安くなり、ガス代も安くなるという。しかも、環境問題にも貢献するのである。まさに、全部良くなるという、今時珍しいぐらいの事件であった。

それにしても、日中の時間帯で一日で完了である。具体的に仕事をする人の素晴らしさを思う。それにひきかえ、金を右や左に振り回して、仕事と称している連中の小汚さを思う。世界的規模でそんなことが当たり前に行なわれている。

装置が大掛かりであるのに、操作は簡単である。まだ使ってはいないが、まことに単純そうで、故障もほとんどないという。しかも、省エネである。技術の力を見せつけられる。いままで、何をしていたのだろうか、という感じが強い。

あまり知らなかったこともある。テレビのCMでも盛んに流れていたが、まさか古い我が家に関係があるとは思っても見なかった。

今までは、外からのカマダキ方式だったのだが、こういう方式は、今ではもうほとんど見られないという。いつのまにか、浦島太郎になっていたのである。目を覚ましているつもりだが、世の中進歩しており、死角は確かに存在しているということである。

ブログの効用、目的

2008年09月12日 11時26分19秒 | 思考試行
去年の日記をみると、ブログのpv,ip数を書いていて、今と比べると、ほぼ半数となっている。継続は力なり、というがまさにその通りで、更新回数で明らかに数字は変わるのであるが、過去に書いたものを閲覧してくれる人がいるので、徐々に数字が上がってくるのである。

別に、数が大きいからどうのこうのということはないのだから、あまりイレコンデも仕方がないのであるが、やはり、数がけっこうやる気の源泉となる。不思議なものである。

ブログで、上位クラスの人のものをみると、やはり、数字をだしているのは、みんな魅力がある。写真があったり、役に立つ情報を提供したり、視点が新鮮だったりする。

テクニックではなく、本当に役に立つ記事を書いていきたいと思うのだが、要は、世のため人のためになることが、本ブログの目的である。平和と人間の幸せ、生きとしいけるもののことを考えて書いていこうと思っている。

そのことで、なにか、役に立つことがあれば、それは、本当にうれしいことである。そうでなければ生きているかいがないというものである。

マスコミは健全か。

2008年09月11日 09時45分21秒 | 思考試行
建設業界の談合は、競争回避の手段として、なかなか、なくならない。業界にとっては、死活問題であり、理屈では、談合はいけないといっても、その根絶は、簡単ではない。

大体、世の中競争しないとなれば、そこから腐敗が始まり、不明朗な事象が数々おこってくる。教員採用のことで、大分県で大きな問題となった。現役の教師が、本人の知らないところで、有利な扱いを受けていたことが判明して、採用の取り消しをいわれている。

これは、大分県だけのことであろうか。ことは、教育委員会の法的な位置づけから始まって、密室状態のなかからうまれたのではないかと、容易に推察できる。となれば、全国で似たようなことが、起こってはいないだろうか。それは、かなりの確率で行なわれているに違いないと思われる。

人間は、どのような行動をとるかについて、すばらしい努力もするが、一方、自らと家族のためとか、情実をからめた不公平な行動もとる。これらを野放しにすれば結局は、全体のためによくないとして、法的な整備を含めて、その対策が計られてきた。

マスコミは、こうした談合を異口同音に非難する。しかし、マスコミも例外ではない。かれらも競争回避に、今や、ドップリはまっている。本当の競争が展開されていない。なかよしグループで、どこをみても大した違いのない報道ぶりである。競争して、取材合戦をして、特ダネを競うところに、マスコミの社会貢献の意味がある。社会悪と戦う公器たりうる。

しかし、今や、支配機構の一員となって、庶民をごまかす一つの道具となりはててしまっている。それは、本来の役割、任務を放棄していることを意味する。安逸を求めるかれらに、モノをいう資格があるのか。


望郷の道 サキ

2008年09月10日 09時14分13秒 | 思考試行
望郷の道は、ビジネスの話になり、さらに、九州へ帰る日が近づいているようだ。台湾から、大阪への進出。正太のビジネスセンスはさえており、かれの周辺の男達も、魅力的に成長してきた。

サキさんは、ルイさんとの対決で、はっきりと身を引き、あれ以来姿をみせない。正太の関心も今はない、という感じである。ルイさんも問題にしていない。九州の山上親分との対面が、どうやら、最大のヤマバのようである。

しかし、サキさんにこだわる道もある。人情話が中心であれば、サキさんのその後は、別の話として、展開される。正太にほれて、思いを遂げて、それから、すっぱりと諦める。そんな女性が、その後どのような人生を送るのか。それは、それで魅力的な話があるのではないか、と思う。

想像するに、正太やルイに、遠くから眼差しをむけていて、小さな割烹でもしているかもしれない。しかし、あの情熱の行方は、そんなことで済ませることができるだろうか。

作用と反作用

2008年09月09日 08時46分00秒 | 思考試行
何事かすると、それに対する反応がある。何かすれば、それに対して反作用がある。物理の世界では、それは、必ずあるらしいのだが、人間社会ではどうだろうか。それも、どうやら、必ずありそうである。

思ったような反応は、なかったという場合もあるけれども、それは、形を変えて、どこかに、その影響は、あるのではないか。見えにくくなったり、見やすかったり、時と場合によって違うかもしれないが、作用すれば、反作用もある、と見たい。

自民党は、総裁選挙をやるという。いくら政策を検討したとしても、民主党とのネジレがある限り、どう考えても、ことがうまく進むようには思えない。数合わせをいつかの時点で始めるか、それとも、政権を移譲するのか、今のままでは、結局はなんにも変わらないということである。

国民目線という言葉だけが飛び交う。本当に、国民生活のことを、考えているかどうかは、過去の経緯を見れば、充分であるが、一票の変化が、大きく変化しないところに、政治の停滞がある。

ヘンテコな、低俗な、カリスマ教祖がいて、そいつがウラで(メイヨをつけた役職についている)糸をひく実力者となっている。オモテに出られないから、ウラにいるのだが、今は、元委員長のテカをいじめている。こんなことをするヤカラの低俗ぶりは、すぐに見抜かれて当然と思うが、なかなかそうはいかない。このカルト集団は、今では、なんと政府与党に組しているのである。

マスコミ対策も充分である。広告宣伝費を、新聞、ラジオ、にばらまき、世論政策もヌカリがない。教祖の言うとおり右向けみぎ集団の隆盛という、へんなことがまかり通っている。このへんなことは、どんな反作用が生じて、どこからチャントなってくるのであろうか。

「蟹工船」が書店で、ヒラヅミになっている。これも反作用だ。あまりに、ひどい資本、政治の結託のなかで、捨てられて、利用されて、使い捨てにされて、ようやく、気がついてきた表れである。昔は、こんな本を読んでいたら、国賊扱いであり弾圧の対象であった。使い捨て側は、今も似たような考えであろう。

こんな状況をかえるのは、選挙が当面もっとも、現実的であるが、実態なしに、票だけを集めたとしても、それは、危ういけれども、まずは、選挙でその反作用を見せなければなるまい。そのうえで、現実の変革がなされなければならない。ビジョンもしめすべきである。

いつまでも、人がヒトを食っていたり、道具にするような世の中であってはならない。もっと、人間を大事にしなければならない。

自分の目を鍛える。

2008年09月05日 09時45分41秒 | 思考試行
読書や旅は、日常生活のなかで、異質なものをとりこむチャンスである。それは、新しい感覚、感性をよびおこされるし、世界が広がる。

そして、それが新しい行動をする意欲をかき立ててくれる。それが、できるのも平和でなくてはならない。

国や民族の枠にとらわれずに、地球全体が和やかに暮らせる時代は来るのだろうか。

人間の歴史のなかで、争いは絶えることなく続いている。6カ国会議などみていると、なにをしているのだろか、と思うほど、普通の流れではない。論理の通らないエゴとエゴのぶつかりあいであるが、自分の都合ばかりをいいつのる姿は醜い。

個人の立場では、静かに平和に健康に、暮らせればそれでいいのであって、基本はそこにある。為政者の余分な価値観から、自由でいることが、処世術といえるかもしれない。

「愛国」とか、言い出したら、要注意だ。新聞も信用ならない。彼らは、常に正義とは限らない。現に、宗教団体が政治に口をだし、カリスマ教祖が明らかに、背後で糸をひいて、その影響力を誇示しても、何にも言えない。広告で、おさえこまれ、丸め込まれている。

右向け右の号令にしたがって、ポスターをはりだしている人が多い。彼らは、自分の考えというより、「信仰」のあかしの、所業をしている。恐ろしいことである。

共産党について

2008年09月04日 11時08分06秒 | 思考試行
資本主義の行き着く先に、とんでもない人間があらわれることを、先達は、早い段階で予想していることが、昨日の日経新聞にのっていた。人のことを考えない、利益追求一辺倒の人種らしい。現実に、それは、明らかとなってきた。

さて、それからどうするのか。対抗軸としての共産党はよく言われるように、無謬主義といわれ、柔軟性に欠けるような印象がある。合理的な、現実的な力をもてないのは、なぜなのだろうか。真面目な活動家がいる一方、ちょっとしたことで、除名されたりすると、その人から「人間的」な発言が出て、そちらの方が、魅力があったりする。

真面目さと、合理的であること、柔軟性、余裕、優れたテクノロジー、こうしたものが、生まれ出る実績を作っていくことが、必要だろう。論文だけではなく、実際の経済生活のなかで、優れた実績の構築が必要である。共産党の資質は、高いものがあると思う。それを活かしぬくシステムができているだろうか。

人間についての理解を深め、争いや、嫉妬や、避けがたい動物としての人間心理についての理解や、本質などの深めも欲しいと思う。
キレイゴトで、まとめるのではなく、人間研究においても、一歩抜け出て欲しいと思う。

党大会や、中央委員会で、活発な論戦が行なわれたり、することがない。意見が、そんなにぴったりとあうのか。そんなはずはないではないか。話すとケンカになる。外への見栄えが悪い。などのことがあるからなのか。率直な、水準の高い論戦が展開されることにより、質的な高さをアピールすることも可能ではないだろうか。それを避けている限り、共産党の前進はないのではないか。

一部優秀な幹部に、右へならえだけでは、創価学会や公明党と、同じになってしまう。率直な、基本姿勢と、自らの実態のなかで、自由闊達な党運営、気風がなければ、これからの人類社会の行き先を、展望できないのではないかと思う。

ことばで、簡単に、「不眠不休の戦いで、・・・勝利を」などと、演説していたリーダーがいた。そんなことは有り得ないので、現実に即しながら、しかも合理的で、優れた政党になってもらいたいものだ。

夢と現実

2008年09月03日 07時30分01秒 | 思考試行
義母が亡くなって、家内が始めて夢を見たという。生きてたんや、よかったなあ、といって、曲がり角を曲がると、そこにもう姿はなく、その瞬間に、夢だと思ったという。

どこかで、待ち合わせをしていたかの感じで、自分は、そんな約束はしていないので、まったくの突然ということだったらしい。

考えれば、夢も現実も、頭の中で考えるという作業でみれば、他者からは、何の違いもなく、夢で幸せな世界を築くことのできる人は、それは、それで、能力の一種である。

生身の人間の、幸福感というのは、とらえどころがなく、千差万別であり、それぞれ、勝手に、描いていればいいのかもしれない。本質的には、どれが一番であるとか、順位をつけられるはずもなく、その意味もない。

ただ、その価値観が、周囲にあたえる影響は無視できない。共生の論理が、きちんとしていることは、最低条件である。往々にして、周囲の状況は、関係なく、自分さえ良ければになると、ことは問題である。

危ない!危険な状況に注意!

2008年09月02日 00時30分03秒 | 思考試行
突然福田総理が辞任した。衆議院と参議院が、ねじれていて、誰がどうやろうと、うまくはいかない状況になっている。政権党は、野党に政策の共同を訴えるほかなく、それをしない野党の徹底抗戦にあうのならば、政権の引渡しをする他ないが、多数をしめていて、それもおかしい。矛盾した議席構成のなかで、やはり、話し合いしかなく、相手が話し合いに応じないときには、議会政治そのものが、その生命を絶たれることになる。

独裁政治か、大連立か、いずれにしても、国民不在のとんでもない政権しか、道がないことになる。

だいたい現在の議席の多数を占めるものは、憲法改悪を目指すものが多く、戦争への道を辞さない連中が多数である。まことに、危険な状態にある。ガラガラと、その方向へ流れはしないかと、心配である。

真に、国民大多数の幸せを念頭においた、政治の展開が、はたしてされるであろうか。自分のセクトの権力の拡大に、それぞれ懸命である。具体的な問題で、国民の側にきちんとたって、政治が展開されることを望む。